実際の盂蘭盆は中国では6世紀に梁の武帝が初めて執り行い、日本では7世紀(657)に齋明天皇が初めて行ったと、日本書紀に伝えられています。元々、日本は世界の中でも祖先崇拝の強いところだったと日本神話の研究などから考えられており、以前から行われていた祖先供養の行事に盂蘭盆が加わり、日本独特のお盆行事へ変化していったと考えられています。
8月13日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家に迎え、15日か16日に送り火を燃やし祖先の霊が黄泉の国へと帰るのを送るのが日本でのお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。この迎え火と送り火の事を、主に門辺で燃やしていたところから門火と言います。大文字の送り火も、この門火のひとつとされています。なお旧暦では、お盆は7月に行われていました。旧暦で7月は秋となり、俳句の世界でもお盆は秋の季語となります。立秋も迎え、時候の挨拶も『残暑厳しき折』となる現在の8月に行われるのが、新暦では季節的に合うという事になります。
さて、霊(み魂)の帰っていく黄泉の国とは、どこにあると考えられていたのでしょうか。それは、海の彼方とも高天原とされる天上とも考えられていましたが、平安京の人々は山奥(そして、それに続く天上)にあると考えていた事が、万葉集に幾つか残る死者を悲しむ挽歌から推測できるそうです。故に、山中で送り火を燃やすという風習が定着していったものと考えられています。
戦国時代(1500年代)になると、幾つかの文献が往時の京のお盆の様子を伝えております。それによりますと、当時はお盆の初めから旧暦の7月終わり頃まで、燈籠や提灯で街々や家を飾り、大燈籠の回りでは人々が踊りに興じていたとの事です。また鴨川には数多くの人が出向き、松明を空に投げて霊を送ったとされ、その様は瀬田の螢のようであった(当時から、瀬田の螢は有名だったらしい)と記されています。
1567年に上洛を果たした織田信長もその華やかさを見て喜び、お盆の時に安土城を無数の提灯で飾り、武士達が松明を手に舟で琵琶湖にのり出し、光の祭典を演じたと記されています。当時の京のお盆は、正しく火(明り)の祭典だったと言えます。
京のお盆の様子を伝える文献は戦国時代から見受けられますが、大文字の送り火については公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て、山々の送り火を見物した」と記されているのが最初となります。ただ、ここでも「寄り道がてらに見物した」ようにうかがえ、いつから始まったとは書かれておらず、この時には既にお盆の風物詩となっていたかのような感じを受けます。
1600年代半ばになると関ヶ原の合戦も終わり、すっかり天下大平となった日本では、一大旅行ブームが起こります。江戸では多くの旅行案内書が出回るようになり、その中に「大文字の送り火」が数多く登場してきます。しかし、この時には既に大文字の起源は謎になっており、その起源を色々と考察、議論する書物も出回り始めます。
江戸時代初期から色々と研究されはじめた大文字の起源ですが、その中でも代表的なものが「平安時代初期の弘仁年間(810~824)に、弘法大師が始めた」というものです。その理由としては
(1)代々、大文字の送り火を行っている浄土村は、大師ゆかりの土地である。
(2)大文字の山自体も、大師の修行の地の一つであった。
(3)あの大の字の筆跡は、筆の名匠・弘法大師のものである。
(4)大文字山の斜面は、かなりの高低差のあるデコボコしたもので、そこに地上から綺麗に見える大の字を設置するのは、大師にしか出来なかったのではないか。
などがあります。
なお京都の人の間では「弘法さんが始めはったんや」と代々、伝承されています。
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