2011/09/05

2011世界陸上観戦記(3)

ハンマー投げの室伏が、待望の金メダルを獲得した。

 

トラックに比べ、どうしても地味な印象のあるフィールド競技だが、これが案外に面白い。特にハンマー投げや円盤投げなどの投擲種目は、素人にも楽しめる「絶叫大会」である。初めて投擲競技を見た時は、あの断末魔の絶叫のような叫び声に驚いただけでなく、投げる瞬間ではなく投げ終わってからというのが、どうにも理屈に合わない気がしたものだった。あれは投げる瞬間に息を止めていて、投げ終わってから溜めていた息を一気に吐き出しているのだとわかったのは、後になってからだった。

 

今大会の日本のメダルは、この室伏の「金」ひとつ(マラソン団体は、カウント対象外)だから、まさに「値千金」と言える。これも前から言っているように、個人競技のマラソンで「団体成績」というのはおかしな話なのだが、それを差し引いたとしてもこの「銀」は、ハッキリ言えば「おまけ」としか言いようがない。なにせ日本人選手は、5人もエントリーして最高が「たった7位」なのである。「団体」は上位3人の成績で競われるらしいが、日本の上位3人は「7位」を筆頭に「10位」と「18位」だから、マラソン競技としてはあくまでも「惨敗」集団である。

 

女子が「5位」、「10位」、「18位」という、殆ど似たような結果でもメダルに届かないことを思えば、これはやはり「おまけ」としいう以外にない。繰り返すが、個人競技のマラソンで「団体成績」という自体がわけの解らない話なのだが、それで「銀」と言うからには最低でも「表彰台+入賞」くらいの結果が伴っていなければ価値がなく、ギリギリで入賞1人がやっとさの男子陣の「銀」は「棚ボタ」以外の何物でもない。「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」が実態で、あまつさえケニアとの天地雲泥の差を省みれば

「日本は、こんな無意味なメダルなど要らん」

と返上して欲しいくらいだ。

 

ところで室伏の場合、長年ずっと見続けて来た思い入れが強いだけにすっかり忘れていたが、よくよく考えてみればハーフである。国際大会への関わり方として、これまで同様に潔く純血主義を貫くか、或いは欧米諸国を真似て「助っ人」を輸入してメダルを量産するかの選択肢はあるのだろう。昨今は「安手の国際化」が叫ばれて喧しいが、日本は欧米諸国を真似てメダルを量産するために「助っ人」を輸入する必要などはまったくないし、怪しげな薬などに頼ってまでメダルを欲するような愚かな日本人はいないだろうから、これまで同様に潔く純血主義で堂々と玉砕してもらいたい。たとえメダルは獲れなくとも、強い世界を相手に頑張る日本人選手の姿を見て、文句を垂れているのが好きなのであり(文句を言われる方は、迷惑千万な話だろうがw)、アフリカや黒人選手に伍して国際舞台で活躍するだけでも、尊い価値があると言える。

 

余談ながら、TV局などが「世界陸上テグ大会」と呼称するのが、どうにも気に喰わん。日本風に「ダイキュウ」と発音すればよいものを、なぜ日本人がコリア風の発音をしなければいけないのか?

 

「大邱」を「テグ」と発音させるならば、他の国々も同様に「U.K」、「U.S.A(または「states」)」、「ネーデルランド」、「ドイチュラント(または「FRG」)」、「メヒコ」、「エスパーニャ」、「マジャール」、「スオミ」と言わなければならないが、これらは総て「イギリス」、「アメリカ」、「オランダ」、「ドイツ」、「メキシコ」、「スペイン」、「ハンガリー」、「フィンランド」といった「日本式の発音」だ。ついでに言えば、金正日を「キム・ジョンイル」というのもおかしな話で「毛沢東」は「マオ・ツォートン」ではなく「もうたくとう」であり、鄧小平は「ダン・シャオピン」でなく「とうしょうへい」なのだから、同じように金正日は「きんしょうにち」と呼ぶべきである。

 

「ウサイン・ボルト」や「りゅうしょう」なども勝手な日本風の発音であって、ジャマイカ式やチャイナ風は違うはずだが、コリア選手だけがわざわざ「本場式」となるのは、何かの圧力でもあるのかと疑ってしまう。もっとも、今大会は開催国の選手がまったく活躍しない、メダル「0」という珍しい大会ではあったが。外国や外国人の正式呼称をイチイチ調べるのは大変なのだから、日本で発音するなら日本式の発音で充分であり、どこの国もそうしているはずである。なぜ、コリアだけわざわざ「本場式」に合わせないといけないのか、まったく理解に苦しむ。

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