2013/02/04

目黒(2)

地味説

芽久呂から来たもので、農産物が地味に恵まれ、良く生育する意。そのことから「芽久呂」と呼び、それが不動尊の目黒と韻が通じて居る結果、現在の地を冠するに至ったという。

 

馬畔(めぐろ)説

めぐろの「め」は駿馬の「め」、すなわち「」という意味。「くろ」は畔(あぜ)、すなわち畔道を意味する。したがって「めぐろ」は、馬と畔道を意味する馬畔という音から生まれたという説である。駒場、駒沢、上馬、下馬などの地名が目黒周辺にも残っているように、昔の関東地方には馬の牧場が多かった。牧場を管理している人は畔道を通って馬を見回り、その畔道の中を自分の縄張りとしていたのである。「目黒区史」(昭和36年発行)では、この説を妥当ではないかとしている。

 

地形説

「め」は、窪地とか谷を「くろ」は嶺を意味する。したがって、めぐろは地形を表す「め」と「くろ」という音が結合して、地名となったという説である。つまり目黒川と谷を囲む丘陵地帯から起こったという説。

 

馬の毛色説

黒色の馬のことを驪「くろ」と書き、また「め」は「愛でる」のようにかわいいとか優れていることを意味する。昔、当地に馬の牧場があり、優れた黒馬がたくさんいたため、愛驪(めぐろ)が地名となり目黒に転化したという説。

 

目黒不動説

目黒、目白、目赤、目黄、目青の五色の不動尊が実在し、当地に目黒不動尊があるところから、目黒という地名が生まれたという説。このほかに大鳥神社や、豊かな地味にちなんだ説などもある。

 

鎌倉幕府の公的記録を綴った「吾妻鏡」では、建久元年(1190年)11月の条に、武蔵武士目黒彌五郎が頼朝上洛の際の後陣随兵として二十七番目に記されており、歴史上では鎌倉時代まで遡れる「目黒」。残念ながらその由来は定かではなく、古へのロマンをかきたてる。

出典https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/chimei/tobu/meguro.html

 

文字についても種々の説がある。上目黒で江戸時代に栄えていた加藤家の家譜によると、天正年中の事実を記したところに「荏原郡菅刈庄免畔」と、つまり「免畔」という文字が記されている。したがって当時は免畔と書いたのだろうという説もあるが、天正よりも10余年も前の永禄二年(1559)に改正された『北条家人分限帳』に「目黒」と書いてあることから、天正以前から目黒を用いていたことは疑いない。

 

「免畔」は、洒落書きではあるまいか。また不動尊縁起に「慈覚大師大同三年(808)上洛の途次妻驪の里に宿り・・・」とあり、この字は松沢家が所蔵する慈海僧正の経巻にも認められている。また「天正年中青山伯耆守の所領となる及び妻驪を改めて目黒と言ふ。蓋し和訓相通ずればなり・・・」ともある。

 

ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

目黒区は、都の南東部、武蔵野台地南西部の淀橋台、目黒台、荏原台とそれを刻む古川・呑(のみ)川(区の南端を流れる)沿いの低地の地区で、北は渋谷区、東は品川区、南は大田区、西は世田谷区に囲まれています。昭和7(1932)年に、元荏原郡目黒町、碑衾(ひぶすま)町の2町が合併し東京市目黒区となりました。

 

区名は目黒不動に由来する、古代の目黒牧に由来する、目黒は古くは「免畔」、「馬畔」とも書き、牧場を管理する者が畔道を通って見回りをし、その中を自分の縄張りとしていたことによる、「め」は窪地、「くろ」は嶺の意、優れた黒の毛色の馬がたくさんいたからなどの説があります。一般に神社名、山名寺号や施設名は地名由来のものが多く、目黒牧、目黒不動ができる前から地名として「目黒」、「目黒川」があったと考えます。

 

「メ・(ン)グ・ロ」または「メ・ク・ロ」、ME-NGU(KU)-RO(me=as if like,with,denote concomitance;ngu=silent(ku=silent);ro=roto=inside)、「台地の中の静かな(場所。そこを流れる 川)」の転訛と解します。

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