2013/09/20

怪物、標的となる(怪物伝説part5)

達川(元広島)のブログより抜粋

とにかく、江川は凄かった。とても作新学院を倒せるチームがいるとは思えんかった。 無人の野を行くが如く・・・、江川の作新学院は、勝ち進んだ。

 

江川を江川たるものにした最大の特徴は、まず野球選手としての抜群の能力じゃった。 それは当時、マスコミをして「怪物」と言わしめた。そして、ワシらにとって更に最悪な事は、その春「怪物」は絶好調じゃった。ワシら広島商業高校と対戦する前の試合・・・今治西高校戦。この試合、江川は21個の三振を奪った。考えられんじゃろう? 9回を終わらせるのに、必要なアウトは27個なんよ。そのうち21個を三振で取るなんて事は、普通考えられんもん。じゃから、江川は「普通じゃ無かった」、「怪物」じゃった。

 

その絶好調の「怪物」と、ワシらはついに対戦する。しかしここで、天が勝負に水を差した。甲子園に雨が降った。この雨が、後に勝負の分かれ目になる。

 

21奪三振の翌日。

甲子園には雨が降り、試合は中止になった。連投の江川は、これで休めて有利になったのか? いや、実は、それは・・・ないのよ。江川を「怪物」と言わしめた、もう一つの特徴は「抜群のスタミナ」じゃった。21個の三振を取った、今治西高戦。その翌日の朝、江川は全く疲れを感じなかったそうな。それどころか「体中に力が漲り、絶好調な状態だった」んだそうじゃ。じゃが、試合は雨で中止。翌日に、順延となった。

 

当時、江川が「怪物」と呼ばれていた事は、前に話したと思う。その頃の江川は、ワシらにとって「圧倒的存在」だっただけじゃなく、世間にとっても、「圧倒的存在」じゃった。試合を前に、広島商の名伯楽・迫田は

 

「江川も疲れている。1人最低5球を投げさせろ。臭いコースは、総てカットだ。そして、ホームベースの50分の1の外角球をおっつけろ」という指示を出した。この試合、江川は疲労からかコントロールが悪く、四球を多く出した。しかし、江川は江川。肝心なところは三振を奪い、ヒットも許さない。そして、作新学院が4回の表に先取点を取った。これで、誰もが作新学院の決勝戦進出を確信した。しかし、ついに江川の無失点記録が途絶える時が来た。

 

それは5回裏だった。2死で、二塁に四球で出たランナーがいた。バッターは、エースの佃。やぶれかぶれで振ったバットにボールが当たると、ライト前へのポテンヒットとなり、ここに江川の「0」行進に終止符が打たれた。その後も投手戦が続き、迎えた8回裏。広島商は、二死ながらセカンドに俊足の金光を進めた。まともにいったら、江川から点は取れない。そこで広島商ベンチは、金光に3塁盗塁のサインを出した。そして金光が、サイン通り3塁盗塁を敢行。これに慌てた作新学院のキャッチャー・小倉が3塁に悪送球。キャプテンが小躍りしながら、ホームに還ってきた。これが決勝点となり、殆ど打たれないままに江川の選抜は幕を閉じた。

 

江川の甲子園の初陣は準決勝敗退で終わったが、4試合に登板し60奪三振という記録を残した。これは選抜大会史上最多奪三振記録として、40年経った未だに破られていない。

 

「怪物・江川の「一挙手一投足」は、もれなく日本中に配信されていた。決してオーバーな表現ではなく、江川は国民的な関心事じゃったんよ。じゃから、雨で試合が中止になった日も、マスコミが大勢で作新学院の宿舎に詰めかけた。江川は、対応に追われた。抜群のスタミナを誇る江川じゃったが、野球の体力とマスコミ取材に使う体力とでは、やっぱり違ったんじゃろう。取材に疲れて2階の控え室に入ると、ソファで30分ほど寝てしもうたんよ。このあたりは怪物と言われながらも、まだ18歳の高校生じゃもん。「仕方が無い」と言いたいところじゃが・・・これが、いかんかった。

 

この時、江川は首を寝違えてしまったんよ。寝違えた首は、回復しないまま・・・次の日、ワシらは対戦した。寝違えた状態でも、江川はさすがに怪物じゃった。江川はワシらから、12個の三振を奪っていった。しかし、ワシらは思っていた。

「凄いけど、何か違う」

 

その時、ワシらは、江川に起こった災難を知る由もなかった。ワシらは

「広商は打たないから、本気で投げていないのかな?

それくらいに、思っていたのよ。もっとも、それでもワシらにとっては、凄い相手じゃったんじゃが・・・広商は12個の三振を奪われたが「怪物」は、ワシらの前に力尽きた。

 

広商は作新学院を下し、その春、準優勝に輝いた。これが、ワシと江川の春の物語よ。ワシらは江川を倒したが、ワシらの誰一人として

「何故、江川を倒せたのか?

分からなかったと思う。

 

50歳を過ぎて、その真実を知った時、ワシは何故か納得した。そして、思うんよ。勝負とは「何と奥深いものなのか」と・・・偶然も必然も全てひっくるめて、勝負とは何と奥深いんだろう。あの時、雨が降らなければ・・・

 

春、準優勝したワシらは、広島に帰った。そして、何をしたかというと・・・夏に備えて、また「打倒・江川」の猛練習を始めたんよ。ワシらの世代は、今風に言えば「江川世代」 もしくは「怪物世代」・・・そんな感じじゃった。

 

こう呼ぶ事には当時の野球ファンは勿論、当時の高校球児も異論を唱える者はおらんじゃろう。それほどに江川は偉大で、圧倒的な力を持った選手じゃった。ワシは・・・いや、ワシらは、この圧倒的な男を倒す事だけを考えて命がけで練習した。今聞いたら、皆「またぁ、そんなオーバーに・・・ 」と言うと思うけど、これは脚色抜きのホンマなんよ。ホンマに、それくらい思い詰めてワシらは練習してたんよ。ワシらのチームだけじゃない。日本中の高校球児が、そうだったと思う。江川とは、それくらいにしないと勝てない相手(それでも勝てないかも・・・)じゃったし、ワシらをその気にさせる選手じゃった。

 

ハッキリ言おう。江川がいなかったら、ワシはプロ野球選手になってなかった。いや、より正確に言えば「プロ野球選手に、なれていなかった 」と思うんよ。高校時代、江川に勝つために死ぬ気で練習した・・・この練習こそが、ワシの野球選手としての体力や技術を作り上げた。江川がワシと同じ年に生まれなければ・・・そこに江川がいなければ・・・ワシは、あれほどに野球にのめり込んだだろうか? ワシにとって江川とは、そんな存在なんよ。そして江川が自分にとって、そんな存在だった高校球児は全国に沢山いたと思うんよ。

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