1973年、江川3年夏。
春の選抜で敗れはしたものの記録的な成績を残した江川は、ケタ外れの人気に沸いた。1973年春の選抜大会を席巻した江川の人気は沸騰し、選抜大会から帰ってきた作新は全国各地へ招かれ、年間300試合を超えるという大量の招待試合をこなさなければならなかったのであった。江川人気を当て込んだ全国各地の高校への、所謂「巡業」という事なのだが、これによって江川と作新のメンバーは、すっかり疲弊してしまったそうである。こんな無茶なスケジュールには、当時の作新の監督も反対の意向だったが、高野連のたっての頼みとあって、なかなか断れなかったという事情も有ったようだ。
第55回全国大会栃木県予選で、作新学院の試合がある日は遠地から見物に来る車が5000台以上にもなり、球場周辺の一帯の道路は朝から大渋滞で完全に交通マヒとなり警備には40人以上の警察官が動員された。皇太子(現天皇陛下)ご夫妻が来県した以上の警備体制。車で来客する台数が約5000台にも膨れ、隣接する軟式野球場を解放して急遽臨時駐車場にするなど、まさにケタ外れの江川人気であった。
が、この時期の作新には、もう一つの大きな問題が起こっていた。この時期、江川人気は過熱する一方だったのだが、江川の人気が上がれば上がる程、江川以外の選手達は冷めて行ったという。いくら勝っても、マスコミから注目されるのは江川ばかりであり、他の選手達は全くと言って良いほど無視されていた。これは他の選手達も、当然面白くはない。江川はそんな状況でも、他の選手達に気を遣い自ら積極的に彼らの輪に入って行こうと努めたが、江川と他の選手達の間には隙間風が吹く一方だったという。これは、江川があまりにも突出しすぎていたが故の悲劇、という事が言えるのではないだろうか。
江川は「何十年に一人」という逸材であった。その実力が有りすぎたために、却って周囲から浮き上がってしまったのである。おまけに先に記したように、作新は凄まじい量の招待試合もこなさなければならなかった。これでは「何としても勝とう」という気力が萎えてしまっても、ある意味では仕方がない状況ではあった。夏の甲子園の予選を前に、作新ナインの気持ちはバラバラで、モチベーションの低下も著しかったと思われる。しかし、そんな状況においても江川は1973年夏の栃木県予選で圧倒的な力を見せた。
準決勝では徹夜組約100人、決勝戦当日は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上。甲子園大会ではなく、地方の県予選で徹夜組が出るなんて前代未聞! 球場周辺の道路は朝から3キロ渋滞で完全に交通マヒし、隣接する軟式野球場を解放して急遽、臨時駐車場とするなど関係者は対応策に追われた。屈指の好カードとなった準決勝の対小山戦は徹夜組約100人、決勝の対宇都宮東戦は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上となるなど、地方の県予選としては異例の事態となった。
江川は初戦の真岡工、続く氏家を2試合連続ノーヒットノーランに封じ込めると、鹿沼商工相手に1安打完封勝利。準決勝では、強豪小山高校を8回1安打無失点に抑え勝利した。そして決勝では、宇都宮東を相手に何とまたまたノーヒットノーランを達成し、夏の甲子園出場を決めた。ノーヒットノーランのうち、3回戦の氏家戦と決勝の宇都宮東戦は、無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。このように江川が完璧に抑えながら、野手のエラーで「完全試合」を逃すケースが多かったが、野手の
「江川が投げれば常に完全試合の可能性があるだけに、異様な緊張を強いられた」
という証言もあるくらいだ。こうして、江川は(練習試合も含めて)140イニング連続無失点、という凄まじい記録を残し、1973年夏の甲子園に登場する事となった。どんなに疲弊していても、ナインとの軋轢が有っても、やはり江川は凄いといった所である。 しかし春の選抜と比べれば、これでも決して本調子ではなかった。
いずれにしても5試合のうちノーヒットノーランが3度、残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)も1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を被安打2、70奪三振無失点、練習試合を含めると140回無失点という驚異的な成績で夏の甲子園出場を決めた。専門家によると、これでも「六分の力」だというのだ。
そうして迎えた最後の夏の大会。今度は145イニング無失点という凄まじい記録を引っ提げて、江川は甲子園に乗り込んできた。当然のことながら、作新学院は優勝候補の筆頭。春に江川を倒した広島商、関東大会の雪辱を期す銚子商、打倒江川に燃える北陽、強打の静岡ら他にもズラリ強豪が顔を揃えたが、いずれの高校も「打倒江川」がそのスローガンであった。
しかし、高2秋の関東大会当時の怪物性は失われていた。それは江川を徹底的に走らせた監督が辞め、江川がランニングを手抜きするようになったからだ、と言われている。そして、それが1回戦から影を落としたのだった。
初戦は、柳川商から23奪三振。48年夏の選手権1回戦は、柳川商(福岡)に対江川用の奇策「プッシュ打法」作戦で6回に予選以来の初失点(練習試合含むと146イニングぶり)を奪われるが7回に追いつき、試合は1対1のまま延長戦に突入する。延長15回に柳川商外野陣の中継ミスで、作新学院が2対1でサヨナラ勝ちした。この試合を完投した江川は、15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録。
1位の板東英二(徳島商)が18回=25奪三振だから、1イニングの奪取率は江川(1.53)、坂東(1.39)と江川が勝っている。江川は一人で15回を投げ切り、23奪三振を取っていたが疲労の極地に達していた。作新としてみれば、初戦でいきなり延長15回の激戦というのは、誤算といえば誤算であっただろう。江川も、「最後は、早く終わってくれと思いながら投げていた」というのが本音だったという。
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