2014/03/01

五色不動

五色不動(ごしきふどう)とは、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称である。東京(江戸)のものが特に有名であるが、厳密に言えば四神や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものであれば、東京以外でも五色不動と称されることがある。

 

東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種六個所の不動尊の総称で「五眼不動」、あるいは単に「五不動」とも呼ばれる。五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、徳川家光が天海僧正の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。 史跡案内など多くの文献では、このような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。

 

一方、五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に『五色不動』という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。また名称を別とすれば、個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として『三不動』の名で知られる。

 

このうち目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。5色となっているのは、五行思想の五色(ごしき)からと言われる。

 

寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が天海大僧正の具申を受け、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされる。 最初に四神相応の四不動が先行し、家光の時代ないしは後年に目黄が追加された、として語られる場合もある。五色とは密教の陰陽五行説由来し、重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。現在の住所は明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので、本来の結界の役を失ったといってよい。ただし近年では風水と絡めて語られることも増え、五方を五街道と解釈する場合もあるなど、様々な説がある。

 

江戸時代以前に目黒・目白が存在している。「目黒」は、将軍家光の鷹狩りに関連して尊崇されていた。「目白」は将軍家光が目黒にちなんで命名したとも、目白押しから名付けられたともいう。また、江戸時代初期の動坂(後述)には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により「目赤」と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。以上3つの不動については、江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったく見られない。

 

教学院は元々青山にあり「青山の閻魔様」として親しまれていた。ここには、近くにあった廃寺から不動像が齎されている。明治40年代、この寺院は世田谷区太子堂に移転し、その頃から「目青不動」を名乗るようになった。

 

目黄不動」は2箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった「明暦不動」(後に訛って「メキ不動」と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から「目黄不動」とされたのではないかと推測される。いずれにせよ江戸時代には目がつく不動が3つしかなく、それをセットとして語る例はなかった。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたと考えられる。

 

東京には「目黒」、「目白」の地名が古くから実在する。夏山雑談では目赤・目青も地名であるかのように語られているが、現在の目赤・目青の各不動尊はいずれも引越しを機に名乗り始めており、移転先で地名を残すには至っていない。目黒の地名は目黒不動に因むという説もあるが、古い地名であり地名に由来して目黒不動となった可能性は高いとみられている。

 

目白の地名は文京区目白台と豊島区目白があるが、両者は近接した地域で目白台に因んで目白不動になったとも、目白不動に因んで目白の地名ができたとも言われる。目赤不動は、前述の通り伊賀国の赤目に由来する。また赤目不動の置かれていた不動堂は動坂の地名を残している。目青不動は、前述の通り青山の閻魔様を前身とする。

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