2015/03/29

そや、京都いこか!

待望の春の到来である。

一年を通して最も好きな季節は、なんといっても「春」である。

美しい花々が百花繚乱と咲き競う中にあっても、春と言えばまずは「桜」だ。

 

日本を象徴する美しくも清らかな桜とはいえ、短い春は待ってはくれない。今年も春を満喫せねばならぬ!

 

目指すは、ズバリ京都と姫路城だ。

ネット情報では、京都はまだ開花したばかりということだが、咲き始めの桜も情緒があるだろう。

 

上京後も隙を見つけてはちょこちょこ行っている京都も、花見となると実に9年ぶりとは、かつて毎年数度は訪れていた自分としてはビックリ。

 

一方の姫路城に至っては子供のころに行ったきりで記憶はすっかり忘却の彼方であり、メデタク蘇ったばかりの日本一の名城大天守とのご対面には胸が躍るではないか!

2015/03/25

別天神『古事記傳』

神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
別天神(ことあまつかみ)」は「こと」と読む。その理由は、書紀に幾つも伝承を挙げた中に、多くは国之常立神を最初の神に挙げ、この五柱の天つ神を挙げないのは、この国に生まれた神ばかり伝承して、天上の神を別の神として省いているからである。【なぜかと言えば、書紀は始めは高御産巣日の神を挙げないで、ある一書の中で初めて挙げている。この神がないとして、始めに挙げなかったのなら後でも挙げないのが当然だが、一書の中で登場しているのだから、省いたと見るべきではないか。】 また一書に、始めに国之常立の神を挙げ、次に「また曰く」として天上の神々を挙げているのも、天神を別の神としているのである。【天上神を先に挙げず、後になって挙げるのは、別の神としているからだ。「又曰」は「一曰」とは違い、異説ではない。同じ書の中に、また別にこうも書いてあるということだ。】だから「別」というのもその意味であり、天上の神々を別の神として分けたのである。【天照大御神以下の神たちも、天上なら天つ神のはずだけれども、この五柱の神は天地の始めに生まれ、その天神たちとは等しくなく違う性格の神だからこう言うのかとも思われるが、上記の意味と解すべきである。なお師は「別」の字を「ことごとに」と読んだが、それは良くない。また「わけ」と読むのも良くない。

○先代旧事紀には「別天八下の尊」、「別高皇産霊尊」などと言い、その「別」の意味はここで言う「別」と似ているようだが「別某の神」という名は古い書物にその例がない。何を根拠にしたのか分からないが、旧事紀は真書ではないので信頼しがたい。】

天神」は「あまつカミ」と読む。文武紀の詔の言葉に「天都神」、聖武紀の歌に「阿麻豆可未」、大祓え(祝詞)の言葉に「天津神」などとあるのが証拠だ。 【それを最近は「天神地祇」と並べて言うときにのみ「あまつかみ」と言い、その他の場合は「あめのかみ」などと読むのは間違いだ。いずれも「あまつかみ」と読むべきである。「あめのかみ」と言った例は、いにしえにはない。ここに挙げた例も、地祇と並べて言っているのではない。ただ、この記においては「あまつ」というところでは「津」の字を加えることが多いが、いにしえは「天神」と書き慣れており、それを「あまつかみ」と読むことは当時は誰でも知っていたので、ここでは「津」を書き加えなかったのである。】
ここで「高天の原になりませる神」というのは、この五柱全部に対して言っている。このように「天神」とあるので分かる。ここで特にことわっているのは、次の国之常立神以下の七代の神は天神とは言わないことも理解すべきだ。 このことは、下【神世七代】で詳しく述べる。

2015/03/15

天之常立神『古事記傳』




神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)新撰姓氏録【伊勢の朝臣の條】には、「天底立尊(アメのソコタチのミコト)」とある。また国之常立神を書紀の一書に「國底立尊」と書いてある。ということは、この名の「常(とこ)」は「底(そこ)」に通じ、同じ意味である。【今でも「そこ」を「とこ(床)」と言うことがある。だが底とは下の極みであるから「国の底」は分かるが「天の底」というのはどうか、と思う人があるだろうが】およそ「底」とは上だろうと下だろうと横であっても、そこに至れば極まるところを、どの方向についても言う。万葉の巻十五(3750)に「安米都知乃、曾許比能宇良爾(アメツチの、ソコヒのウラに)」【「うら」は内ということ。】とあり、これで天についても言うことが分かる。【『紫式部日記』に「そこひも知らず清らなる(底知れず清らかな)」と書いたのも「限りなく」と言うのと同じだ。源氏物語にもこの例がある。】

また万葉の巻六【藤原宇合卿の西海道節度使に行くときの、高橋虫麻呂の長歌】(971)に「筑紫爾至、山乃曾伎、野之衣寸見世常、伴部乎、班遣之(ツクシにイタリ、ヤマのソキ、ノのソキみよト、とものオを、アカチつかわし)」の「そき」も「極み」を言っており、同じことである。【もう少し詳しく言うと、「そき」は「そく」という言葉を体言形にしたものであって「そく」とは離れ遠ざかる意味である。「離居(つきオリ)遠ぞく」、「退く」などの「そく」だ。それを体言にして「そき」と言うのは「そきたる所」を言う。また「そこ」という言葉の「こ」は「彼處(かしこ)」、「此處(ここ)」の「處(こ)」であって「そき處(こ)」の意だ。 だから「そき」と全く同じ意味である。というわけで「そき」と「そこ」は同じ離れ遠ざかった場所を言うのであり、当然ながら、その離れ遠ざかった極みの場所についても、通じて言うわけだ。】

また同巻四(553)に「天雲乃、遠隔乃極、遠鶏跡裳(あまぐもの、ソキヘのキワミ、とおケドモ)」、巻九(1801)に「天雲乃退部乃限(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」【これらの歌の「遠隔」、「退部」については、今の読みは誤っている。次に引く歌で分かる。】巻十七(3964)に「山河乃曾伎敝乎登保美(ヤマカワのソキヘをとおみ)」、巻十九(4247)に「天雲能曾伎敝能伎波美(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」【「敝」は「へ」である。】また巻三(420)にも「天雲能曾久敝能極(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」とある。また「」を「そこ」と読むのも、国の極界(かぎり)の地を言う。常世の国と言うのも【字は借字】「常」は「底」であって、前記の例と同じである。【このことは少名毘古那神の段、伝十二の十葉に詳しく述べるのを参照のこと。】「」は「つち」である。 たとえば書紀に「国狭槌(クニのサヅチ)尊」を、また「国狭立(クニのサダチ)尊」とも言う、とのがそうだ。神名には「~つち」と言う例が多い。その意味は、野椎(のづち)神のところ【伝五の四十五葉】で述べる。

とすれば、この神の名の「常立」は借字で、本来は「天のソコツチ」である。【そもそも天は下から上へ騰(あ)がったのだから、阿斯訶備比古遲神はまだ天が低いところで生まれたので先だ。初め葦芽のようなものだった時に生まれたからだ。 天之常立神は、そのものが次第に上って上りきった極みに生まれたので、より上にいるけれども後である。とすると、この二神の生まれた順序は、この記のようになるのが当然だ。書紀ではこれが逆で、上で生まれた神を先に挙げ、下で生まれた神を後に挙げる。】

○註に「常を読んで『とこ』と言う」とあるのは、あるいは誤って『つね』と読まれかねないことを慮ってのことである。これは借字だが、いにしえから書き慣れた字をそのまま書いたので、こういう訓注を付けたのだ。【借字に訓注を付けた例は、神武の段で土蜘蛛を土雲と書いたところなどにある。】

天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神である。

独神であり、現れてすぐに身を隠した。

『日本書紀』本文には現れず『古事記』および『日本書紀』の一書にのみ登場する。

神代紀第一段第六の一書では「天常立尊」と表記され、可美葦牙彦舅尊・国常立尊に先立って最初に登場する。

天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。

『先代旧事本紀』では、天之御中主神と同一の神であるとしている。

その後に現れる国之常立神の方が古くから信仰されてきた神であり、国之常立神の対になる神として、後から創造されたと考えられている

古代の日本には「」という考え方が無かった。

天の考え方が、いつ入ったのかは分からない。

高天原という「天世界」が、大国主神を代表する「国世界」から「葦原中国」を譲り受ける「国譲り」(実際には恫喝して略奪か?)したことを考えると、大和朝廷が「」の思想を持ち込んだとも思えるが、国譲りの「史実」を「天」思想で脚色しただけかもしれない。

●出雲大社の客座神
出雲大社の本殿には大国主神が祭られているが、その大国主神は参拝客にはそっぽを向いている。

代わりに客座神として、5柱の神が参拝客に面している。

その5柱が、これまで紹介してきた「別天神」、すなわち天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遲神、天之常立神。  

五柱はどれもが日本書紀の神代に登場する神で、世界の根幹に関わる存在と言える。

この客座5神が、大国主神を見張っているとする説もある(井沢元彦の説)  

大国主神は国を奪われた恨みを持つ「タタリ神」であり、神々はこれを見張り抑えつけているともされる。
Wikipedia引用
http://nihonsinwa.com/ 引用 

2015/03/05

宇摩志阿斯訶備比古遲神

神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかにひこじのかみ)は、書紀に「可美葦牙彦舅尊、可美、此云2于麻時(うまし)1、彦舅、此云2比古尼(ひこじ)1」とある。「うまし」は美称である。【「あしかび」のみに係る美称でなく、全体に係っている。】

この言葉は心にも目にも、耳にも口にも、すべて美いことを賞めるには「うまし」と言ったので【今の世では食べ物の味が良いことだけを言うが、いにしえはそうではなかった。【書紀に「可怜小汀(うましオバマ)【可怜、此2于麻師(うまし)1。】」とあり、「可怜美路(みち)」、「可怜国」などの用例もある。人の美称としても、白檮原の宮(神武天皇)の段に「宇摩志麻遲(うましまじ)命」、堺原の宮(孝元天皇)の段に「味師内宿禰(うましうちのすくね)」、書紀の崇神の巻に「甘美韓日狭(うましカラヒサ)」などの例がある。【万葉の巻三に出ている「吉野の人味稲(うましね)」を、懐風藻では「美稲」と書く。「宇摩志」を「美」と書くのがよく当たっている。】

阿斯訶備(あしかび)」は、前述の「」について述べた通りである。「比古(ひこ)」は男の美称。【「比」は産巣毘の「毘」と同根、「古」は子である。】 「遅(じ)」も男の美称である。老人を「じ、おじ」と言うのも、尊んで言うのだろう。「意富斗能地(おおとのじ)神」、書紀の「鹽土(しおつち)の老翁(おじ)」、【「老翁此云2烏膩(おじ)1」とある。皇極記の歌に「歌麻之々能烏膩(カマシシのオジ)」、万葉の巻十一に「山田守翁(ヤマダもるオジ)」、同巻十七に「佐夜麻太乃乎治(さヤマダのオジ)」など。】の「じ」もこれである。

ところで「ひこじ」、「おじ」などの「」は言うときは濁るが、元は清音で明の宮(應神天皇)の段の国栖人(くずビト)の歌に「麻呂賀知(まろがち)」とある「ち」、また父の「ち」もこれである。また「八千矛の神」、「火遠理(ほおり)命」も「ひこじ」と言うことがある。そのことは、そこ【伝十一の三十二葉】で言う。
この神は「葦芽のごときもの」によって生まれたから「宇摩志阿斯訶備比古遲神」と名付けている。【この神の名の読み方は「うまし」と読んだ後「あしかびひこじ」を一息に読んで「あしかびノひこじ」という意味合いに読む。】


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『古事記』では、造化三神が現れた後、まだ地上世界が水に浮かぶ脂のようで、クラゲのように混沌と漂っていた時に、葦が芽を吹くように萌え伸びるものによって成った神としている。すなわち4番目の神である。

ただし『日本書紀』では本文には書かれておらず、第2・第3の一書では最初に現れた神、第6の一書では天常立尊に次ぐ2番目に現れた神としている。
独神であり、すぐに身を隠したとあるだけで事績は書かれておらず、これ以降日本神話には登場しない。

神名の「ウマシ」は「うまし国」などというのと同じで「良い」、「美しい」、「立派」なものを意味する美称である。

アシ」は、「カビ」は黴と同源で醗酵するもの、芽吹くものを意味する。  
ここでは「アシカビ」で「葦の芽吹き」のことになる。
すなわち、葦の芽に象徴される万物の生命力を神格化した神である。
一般的に活力を司る神とされる。

「ヒコヂ」は男性を表す語句であるが、この神は独り神であり性別を持たない。  
葦が芽吹く力強さから、チャイナから伝わった陰陽思想の影響により「陽の神」とみなされ「ヒコ」という男性を表す言葉が神名に入ったものと考えられる。  
植物の葦が勢いよく生育する様子を表しているとされる。

ある学者によれば「」は「事(実)」に基づいて発せられるもの、とのことで、これから敷衍すれば、このような複雑な名前が付けられたからには、やはり実在したと考えるべきである。

ヒコ」は「日子」とされ「太陽の子」という意味も持つ。
ちなみに女性の「姫(ヒメ)」は「日女」から来ている。
ヒコジ」は、元々は「コヒジ」だったとも言われる。
コヒジは「」を表し、葦が泥の中から生える様子を表している

アシ」の発音が「悪し」と同じなのを嫌い(言霊信仰)、通常は「ヨシ」と呼ばれる。
葦は水辺の植物で、日本人の生活に馴染んだ植物である。
生育スピードが速く、半年で2mか3mまで生育する。
温帯から熱帯の川の浅瀬で群生し、生育スピードが速いだけでなく、魚が集めた泥が堆積し非常に豊かな環境を作る。
日本人はこれをヨシズにしたり、屋根の材料にしたりとして豊かな環境が生活を支えていた。

そのなかで「」を特別な植物と考えるようになり、日本のことを「葦原中国(または「豊葦原中国」」)(とよあしはらのなかつくに)」と呼んでいた。
※「中国」は「ちゅうごく」ではなく「なかつくに」と読み「我が国」といった意味である。
Wikipedia引用
http://nihonsinwa.com/ 引用

2015/03/03

普茶料理(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(12)

ベジタリアン料理としての現代の精進料理

海外からの外国人観光客や日本に滞在する外国人の中にはヴィーガンやベジタリアンも多いが、精進料理は日本では高価な料理であることが多いこと、一般の日本料理では肉や魚が使用されていないように見えても、出汁に動物性材料を使っていることがあることなどから、ベジタリアン向けの、より気軽に低価格で毎日楽しめる精進料理も生まれてきている。しかし、これらは精進料理という名前こそ付いてはいるが、仏教的な意味は薄れてしまっている。

 

また近年では、アメリカを中心にグルテンの摂取を控えるブームがあり、それに対応して麸を使わないなどグルテンフリーを謳った精進料理も見られる。

 

献立例


図は京都にある臨済宗の禅寺・天龍寺の精進料理である。朱塗りの折敷は、臨済宗天龍寺派において、来客をもてなす際の正式のものである。

 

御飯

汁(白味噌)

平(湯葉、麩、椎茸の炊き合わせ)

木皿(胡麻豆腐)

木皿(紅葉麩、こんにゃく、栗、ごぼうなどの盛り合わせ)

壺(しめじと青菜のおひたし)

香の物

 

普茶料理

普茶料理は、江戸時代初期に中国から日本へもたらされた料理で、日本の精進料理とは異なり葛と植物油を多く使った濃厚な味、一つの卓を4人で囲む形式が特徴である。代表的な普茶料理に胡麻豆腐、精進うなぎがある。

 

江戸時代初期の1654年、中国(現在の福建省)の禅僧隠元隆琦が来日。1661年には山城国宇治(京都府宇治市)に萬福寺を開き、禅宗の一つである黄檗宗の開祖となった。

 

隠元はチャイナ式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、様々な品を日本へ齎した。その時に一緒に伝わった、当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆるチャイナ式の精進料理)を「普茶料理」という。

 

「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、煎茶などを飲みながら重要事項を協議する「茶礼」に出された食事が原型となっている。基本的に一つの長方形の座卓を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式が非常に珍しがられた。

 

料理においてもチャイナ風のものが多く、巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたもの)や雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)などがある。炒めや揚げといったチャイナ風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めた。

 

こうした普茶料理は、異国情緒を味わうものとして黄檗宗の寺院ばかりでなく、料理屋や文化人など民間でも広く嗜まれた。特に民間で行われた普茶料理は、長崎の卓袱料理とも影響し合い、テーブルクロスや貴重なガラス製のワイングラスや水差し、洋食器が用いられる事もしばしばあった。

 

1772年には『普茶料理抄』という専門の料理書も著された。料理は次第に変化していき、見た目が鮮やかな独特のものとなっている。黄檗宗の開祖・隠元隆琦ゆかりの京都府宇治市の萬福寺などの黄檗系寺院や、その周辺で供されるほか興福寺がある長崎市には、普茶料理が食べられる寺院がある。また普茶料理専門の飲食店は、神戸市や東京都などにもある。

 

比較対象となりやすい卓袱料理が、現在は長崎県の郷土料理に留まるのに対し、普茶料理は各地の黄檗宗の寺院を中心に、沖縄や北海道を除く全国に普及しているのが特徴である。

 



画像は、京都府宇治市の白雲庵の普茶料理(4人前)である。白雲庵は、もと黄檗山萬福寺の塔頭であった。

 

画像中央の大皿は「笋羹」(シュンカン、煮野菜の盛り合わせ)、その左は「果菜」(クォツァイ、果物)、以下時計回りに「行堂」(ヒンタン、御飯用の手付桶)、「醃菜」(エンツァイ、香の物)、干菓子、「油糍」(「油𩝐」とも書く。ユジ、野菜の揚げ物)、「雲片」(ウンペン、細切り野菜の葛とじ)。手前には「澄汁」(スメ、蘭茶)、「冷拌」(ロンパン、和え物)、「麻腐」(マフ、胡麻豆腐)。[要出典]

出典 Wikipedia