○天之常立神(あめのとこたちのかみ)新撰姓氏録【伊勢の朝臣の條】には、「天底立尊(アメのソコタチのミコト)」とある。また国之常立神を書紀の一書に「國底立尊」と書いてある。ということは、この名の「常(とこ)」は「底(そこ)」に通じ、同じ意味である。【今でも「そこ」を「とこ(床)」と言うことがある。だが底とは下の極みであるから「国の底」は分かるが「天の底」というのはどうか、と思う人があるだろうが】およそ「底」とは上だろうと下だろうと横であっても、そこに至れば極まるところを、どの方向についても言う。万葉の巻十五(3750)に「安米都知乃、曾許比能宇良爾(アメツチの、ソコヒのウラに)」【「うら」は内ということ。】とあり、これで天についても言うことが分かる。【『紫式部日記』に「そこひも知らず清らなる(底知れず清らかな)」と書いたのも「限りなく」と言うのと同じだ。源氏物語にもこの例がある。】
また万葉の巻六【藤原宇合卿の西海道節度使に行くときの、高橋虫麻呂の長歌】(971)に「筑紫爾至、山乃曾伎、野之衣寸見世常、伴部乎、班遣之(ツクシにイタリ、ヤマのソキ、ノのソキみよト、とものオを、アカチつかわし)」の「そき」も「極み」を言っており、同じことである。【もう少し詳しく言うと、「そき」は「そく」という言葉を体言形にしたものであって「そく」とは離れ遠ざかる意味である。「離居(つきオリ)遠ぞく」、「退く」などの「そく」だ。それを体言にして「そき」と言うのは「そきたる所」を言う。また「そこ」という言葉の「こ」は「彼處(かしこ)」、「此處(ここ)」の「處(こ)」であって「そき處(こ)」の意だ。
だから「そき」と全く同じ意味である。というわけで「そき」と「そこ」は同じ離れ遠ざかった場所を言うのであり、当然ながら、その離れ遠ざかった極みの場所についても、通じて言うわけだ。】
また同巻四(553)に「天雲乃、遠隔乃極、遠鶏跡裳(あまぐもの、ソキヘのキワミ、とおケドモ)」、巻九(1801)に「天雲乃退部乃限(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」【これらの歌の「遠隔」、「退部」については、今の読みは誤っている。次に引く歌で分かる。】巻十七(3964)に「山河乃曾伎敝乎登保美(ヤマカワのソキヘをとおみ)」、巻十九(4247)に「天雲能曾伎敝能伎波美(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」【「敝」は「へ」である。】また巻三(420)にも「天雲能曾久敝能極(あまぐもの、ソキヘのキワミ)」とある。また「塞」を「そこ」と読むのも、国の極界(かぎり)の地を言う。常世の国と言うのも【字は借字】「常」は「底」であって、前記の例と同じである。【このことは少名毘古那神の段、伝十二の十葉に詳しく述べるのを参照のこと。】「立」は「つち」である。 たとえば書紀に「国狭槌(クニのサヅチ)尊」を、また「国狭立(クニのサダチ)尊」とも言う、とのがそうだ。神名には「~つち」と言う例が多い。その意味は、野椎(のづち)神のところ【伝五の四十五葉】で述べる。
とすれば、この神の名の「常立」は借字で、本来は「天のソコツチ」である。【そもそも天は下から上へ騰(あ)がったのだから、阿斯訶備比古遲神はまだ天が低いところで生まれたので先だ。初め葦芽のようなものだった時に生まれたからだ。
天之常立神は、そのものが次第に上って上りきった極みに生まれたので、より上にいるけれども後である。とすると、この二神の生まれた順序は、この記のようになるのが当然だ。書紀ではこれが逆で、上で生まれた神を先に挙げ、下で生まれた神を後に挙げる。】
○註に「常を読んで『とこ』と言う」とあるのは、あるいは誤って『つね』と読まれかねないことを慮ってのことである。これは借字だが、いにしえから書き慣れた字をそのまま書いたので、こういう訓注を付けたのだ。【借字に訓注を付けた例は、神武の段で土蜘蛛を土雲と書いたところなどにある。】
天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神である。
独神であり、現れてすぐに身を隠した。
『日本書紀』本文には現れず『古事記』および『日本書紀』の一書にのみ登場する。
神代紀第一段第六の一書では「天常立尊」と表記され、可美葦牙彦舅尊・国常立尊に先立って最初に登場する。
天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。
『先代旧事本紀』では、天之御中主神と同一の神であるとしている。
その後に現れる国之常立神の方が古くから信仰されてきた神であり、国之常立神の対になる神として、後から創造されたと考えられている。
古代の日本には「天」という考え方が無かった。
天の考え方が、いつ入ったのかは分からない。
高天原という「天世界」が、大国主神を代表する「国世界」から「葦原中国」を譲り受ける「国譲り」(実際には恫喝して略奪か?)したことを考えると、大和朝廷が「天」の思想を持ち込んだとも思えるが、国譲りの「史実」を「天」思想で脚色しただけかもしれない。
●出雲大社の客座神
出雲大社の本殿には大国主神が祭られているが、その大国主神は参拝客にはそっぽを向いている。
代わりに客座神として、5柱の神が参拝客に面している。
その5柱が、これまで紹介してきた「別天神」、すなわち天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遲神、天之常立神。
五柱はどれもが日本書紀の神代に登場する神で、世界の根幹に関わる存在と言える。
この客座5神が、大国主神を見張っているとする説もある(井沢元彦の説)
大国主神は国を奪われた恨みを持つ「タタリ神」であり、神々はこれを見張り抑えつけているともされる。
※Wikipedia引用
※ http://nihonsinwa.com/ 引用
0 件のコメント:
コメントを投稿