釈迦は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教の開祖である。シャーキャ(サンスクリット語: शाक्य, Śākya)は、元来、釈迦の出身部族であるシャーキャ族またはその領国であるシャーキャ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキャを漢訳したものであり、旧字体では釋迦である。シャーキャムニ(サンスクリット語: शाक्यमुनि, Śākyamuni)はサンスクリット語で「シャーキャ族の聖者」という意味の尊称であり、これを漢訳した釈迦牟尼(しゃかむに)をさらに省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。
釈迦の本名はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)、またはガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語: गौतम सिद्धार्थ, Gautama Siddhārtha)であり、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。ゴータマはアンギーラサ族(パーリ語: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナはバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がゴータマであることは不可解であり「先祖が養子だった」など諸説ある。
ブッダ(サンスクリット語: बुद्ध, buddha)は、「悟った人」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は仏陀、旧字体では佛陀である。「仏教」という名称や「仏像」などの呼称はこの尊称に由来する。
他方で、タターガタ(サンスクリット語: तथागत, tathāgata)は、「そのように行きし者」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は音写の多陀阿伽度と意訳の如来があり、釈迦如来ともいう。
バーガヴァーン(サンスクリット語: भगवान्, Bhagavān)は「この世で最も尊い」を意味する釈迦の尊称で、漢訳は世尊である。仏教では、これらの呼称・尊称と敬称を組み合わせて、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼如来としたり、またそれらを省略して、釈迦尊、釈尊や「仏様」、「お釈迦様」と呼ぶ。
釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学・仏教学の権威であった中村元は、パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。
釈迦は、インド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身がパセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている。アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で「ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する」と刻まれている。
ルンビニ
1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー、がネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。
カピラヴァストゥ
シャーキャの都であり、釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。その後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家では釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
ネパール中南部のティロリコートと、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になっている。
1898年、イギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている。この壺は、当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。
出典
Wikipedia
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