2018/08/20

第一次シケリア戦争

紀元前483年、テロンがヒメラの僭主テリルスを追放した。ゲロンとテロンの同盟は、全シケリアを制覇しかねないため、カルタゴはこれを無視することはできなかった。またテリルスはレギオンのアナクシラスを頼ったが、アナクシラスとカルタゴ王ハミルカル1世は賓客関係にあった。このため、紀元前480年にカルタゴはシケリアへ遠征軍を派遣した。

カルタゴの決断は、アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世がギリシア本土を攻撃したことも影響していると思われる。フェニキアはペルシアの属国となっていたが、カルタゴとペルシアの間に同盟関係があったかは議論の対象となっている。カルタゴは大きな理由なくして自身の戦争に外国勢力が介入することも、外国の戦争に介入することも好まなかったからである。しかし、シケリアの支配権を得ることは十分な価値があった。

カルタゴは戦争を望み、ハミルカルの下、カルタゴ史上最大の軍隊が編成された。従来カルタゴ軍の兵力は300,000とされていたが、実際にはこの数字は疑わしく、現実には50,000から100,000程度であったと思われる。もしカルタゴがペルシアと同盟していたとすれば、ペルシアはカルタゴに傭兵部隊を提供したと思われるが、しかしそれを裏付ける証拠はない。

シケリアへの航海途中、おそらくは荒天のためにカルタゴは多くの艦船を失ってしまった。パノムルス(カルタゴではジズと呼んでいた)に上陸した後、ハミルカルは第一次ヒメラの戦いでゲロンに敗北した。この戦いは、サラミスの海戦と同日に発生したとされている。

ハミルカルは戦死したか、敗北の責任をとって自決した。この敗北は、カルタゴの政治的・経済的形勢を変えた。それまでの支配層であった富裕貴族の力が低下し、共和政が導入された。王政は維持されたが(名目上は、紀元前308年まで王政が続いた)、その権力は極めて限定され、元老院が権力を握った。カルタゴはギリシアに2,000タレントの賠償金を支払い、以降の70年間シケリアに介入しなかった。

但し、この敗北にも関わらず、カルタゴはシケリア西部の領土を失わず、ギリシア側も領土の拡大はできなかった。ゲロンはカルタゴの同盟都市であるレギオンとセリヌスを攻撃しなかった。戦利品からの利益はシケリアにおける公共建物の建設に使われ、結果としてギリシア文化が広がった。交易によりギリシア殖民都市は繁栄し、アクラガスの富はシバリス(en、イタリア半島の有力なギリシア殖民都市)に匹敵するものとなった。紀元前478年にゲロンが死亡すると、続く20年間の間に各都市は僭主制を停止し、シュラクサイ・アクラガス同盟は寡頭制・民主制を採用する11の反目する連合体に分裂した。これらの都市間の紛争と一部都市の拡張主義が、第二次シケリア戦争の原因となった。
出典Wikipedia

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