戦いの影響
ギリシア艦隊は、この戦闘が終わったとは思わなかったが、クセルクセスは完全に戦意を喪失し、戦闘継続の構えを見せつつも、マルドニオスに陸上部隊を預け、自身はペルシア艦隊とともに撤退した。ギリシア艦隊はペルシア艦隊の後退を知るとアンドロス島まで追撃したが、ここで軍議を行い、今後の対応について協議を行った。
テミストクレスは直ちにクセルクセスを追ってヘレスポントスに急行すべきことを主張したが、エウリュビアデスはクセルクセスの帰路を阻害すれば、かえってペルシア側が死にもの狂いで反撃にでる可能性を示唆し、これを諌めた。テミストクレスは追撃にはやるアテナイ艦隊を制止し、クセルクセスに対しては、伝令に走らせた部下に、自らがペルシア艦隊の追撃を阻止したと告げさせた。
サラミスの海戦でのギリシア海軍の勝利により、ペルシア遠征軍の進撃は停止し、ペルシア戦争は膠着状態に陥った。ペルシア軍が北方へ後退したとは言え、その勢力は健在で、翌年には再びアテナイが占拠されることになる。しかし、クセルクセスの戦意が削がれ、地の利も持たないペルシア遠征軍は、次第に苦しい立場におかれることになった。その意味でサラミスの海戦は、ペルシア戦争の決定的な転機であった。
この戦闘の牽引役となったアテナイにとっても、この勝利は強力な海上国家に成長する重要な出来事であった。ヘロドトスによると、当時のアテナイにおいて指導的な立場にあり、この戦闘の勝利に大きく貢献したテミストクレスは、評定が開かれたアンドロス島を包囲して占領し、ここを根城にしてペルシア側に靡いた他の島嶼部のポリスからも金品を巻き上げたとしている。
さらにプルタルコスによると、ギリシア艦隊は越冬のためにパガサイに停泊していたが、テミストクレスはこれを焼き払い、アテナイ艦隊のみを残そうと計ったとしている。
テミストクレスは、アテナイ艦隊の建造の提唱者であり、また、この戦闘の後は外港となるペイライエウス(現ピレウス)を整備し、これとアテナイ市街を城壁で結ぶなどの功績を残したが、その独善的な態度が僭主への欲望と見なされ、警戒したアテナイ市民によって陶片追放、さらに国家反逆罪で告発されることになったため、敵国であるペルシアに逃亡した。テミストクレスの追放によって、高潔な人物として知られるアリステイデスがアテナイの指導者となり、ペルシア来寇の備えとしてポリスの連合体であるデロス同盟を成立させることとなった。彼は艦艇を提供できないポリスに対して、その代わりとなる上納金の査定を行ったが、やがてその上納金はアテナイの独占するところとなり、その台頭の資金源となるのである。
出典 Wikipedia
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