2019/01/31

開化天皇

開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7 - 開化天皇6049日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇571112 - 開化天皇6049日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

 

漢風諡号である「開化」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

和風諡号である「わかやまとねこひこ-おおひひ」のうち、「わかやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統・文武・元明・元正の諡号に類例)、末尾の「ひ」は神名の末尾に付く「ひ」と同義と見られる。このことから、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測されている。

 

系譜

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

父は第8代孝元天皇。母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)。

第二子であり、同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。

 

妻子は次の通り。

    皇后:伊香色謎命 (いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。

    第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) - 10代崇神天皇。

    皇女:御真津比売命 (みまつひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。

    妃:丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。

    第一皇子:彦湯産隅命 (ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)

    妃:姥津媛 (ははつひめ、意祁都比売命) - 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。

    第三皇子:彦坐王 (ひこいますのみこ、日子坐王)

    妃:鸇比売 (わしひめ) - 葛城垂見宿禰の娘。

    皇子:建豊波豆羅和気王 (たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。

『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』など中世編纂の史書には、以上の后妃のうち鸇比売のみが見えず、代わりに吉備津彦命の女の包媛(色媛?)が挙げられている。

 

『日本書紀』『古事記』とも、開化天皇の事績に関する記載はない。

『日本書紀』によると、孝元天皇22114日に立太子。孝元天皇5792日の父天皇の崩御を受け、崩御の同年1112日に即位した。そして翌年の開化天皇元年1013日、宮を春日率川宮に遷した。

その後、開化天皇6049日に在位60年にして崩御した。時に『日本書紀』では115歳、『古事記』では63歳という。開化天皇60103日、遺骸は「春日率川坂本陵(または坂上陵)」に葬られた。

 

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮。

宮の伝説地は、現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される。同地では、率川神社境内が宮跡にあたるとされる。この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある。

 

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、奈良県奈良市油阪町にある春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ、位置)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「念仏寺山古墳」(前方後円墳、墳丘長約100m)。

 

陵について『日本書紀』では前述のように「春日率川坂本陵(坂上陵)」、『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年あてる旨とともに遠陵としている。近世には近隣の念仏寺の墓地になったため墳丘は削られたが、幕末に墓地の移転と陵の修補がなされて現在に至っている。

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において、他の歴代天皇・皇族とともに開化天皇の霊が祀られている。

2019/01/30

マウリヤ朝(1)

マウリヤ朝(梵: मौर्यसाम्राज्यम् Maurya-sāmrājya、紀元前317年頃 - 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。しかしアショーカ王の死後国家は分裂し、紀元前2世紀初頭、シュンガ朝の勃興により滅亡した。

成立
いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国では、ナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことから、バラモン教の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は、将軍バドラシャーラ(Bhadraśāla)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダを殺し(ナンダ朝の滅亡)、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタは、インダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると、彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世が、インダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタは、その兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争)、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせて、インダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのか、セレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり、判然としない。

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は、記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に、史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。

アショーカ王
紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。しかし、これは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカ王は、国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。

アショーカ王による最大勢力範囲
ギリシア人メガステネスの記録によれば、カリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば、多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。
カリンガ国の征服によって、マウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。

誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼は、ブッダガヤの菩提樹を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するため、領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の仏教徒に重要視され、多くの仏典に記録されている。

滅亡
アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しく、その最後はよくわかっていない。チベットの伝説によれば、タクシラで没した。アショーカ王には、数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたが、その多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから、王朝が分裂していたことが想定されている。

いくつかのプラーナ文献によれば、アショーカ王の次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって、目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって、容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝は、やがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サンヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。

…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
『ガールギー・サンヒター』

マウリヤ朝最後の王は、仏典によれば沸沙蜜多羅(プシャミトラ)、プラーナ聖典によればブリハドラタであった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害して、パータリプトラに新王朝シュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は、紀元前180年頃であったと考えられている。

王朝名の由来
マウリヤ朝という王朝名の由来は、正確には分かっていない。幾つかの伝説やそれに基づく学説が存在するが、現在の所結論は出ていない。

・チャンドラグプタが、パトナ地方のモレ(More)又はモル(Mor)の出身であったことから。
・孔雀を意味する語(マユーラ〈梵: Mayūra〉、モーラ〈巴: Mora〉)から。
・チャンドラグプタの母の名、ムラーから。

この他にも様々な説があるが、いずれも問題が多い。出身地名に基づくという説については、チャンドラグプタの出身地を証明する証拠が何も存在しない。別の伝説では、チャンドラグプタの出身地はヒマラヤの丘陵地帯であるとするものもある。孔雀を意味するという説は後世様々な仏典で採用され、中国語名の孔雀王朝もこれに由来するが、マウリヤ朝が孔雀に何らかの特別な意味を持たせていた証拠はない。単に音声の類似によった俗説である可能性が高い。そして、母名についてもチャンドラグプタの母名が本当にムラーであったか、どうか確認する手立てがないのである。
出典Wikipedia

2019/01/29

十二因縁(釈迦の思想17)



釈迦の時代には、バラモン教の教えとしての「輪廻の論」がありました。これは人間世界での生のあり方、つまり人間の「身分世界での輪廻」に限られていましたけれど、後代になって仏教的に「六道輪廻の説」として体系化されました。釈迦自体はバラモン教のレベルのものであったでしょうが、後世の輪廻論は有名ですので簡単に紹介しておきます。

それによると、この世界は六つの世界からなり、上から「天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄」となっています。

」は、人の世界にあって正しい生活をしたものが行く世界で、平安・安楽な世界でしかも人間世界の何十、何百倍も長いとされます。しかし問題は、やっぱりここも終りがあるということでした。一説によると、その死の苦しみは人間界での死なんかとはくらべものにならない苦しみであるという。つまり、ここにも「本当の平安」はなかったのです。

」の世界は知っての通り苦難の連続で「四苦八苦」の世界です。

阿修羅」の世界は、この地上で自分の正義だけを主張し他者を顧みることをしなかったものが落ちる世界で、結局血で血を争う「血の世界」です。

畜生(動物)」の世界も知っての通り、弱肉強食の世界です。

餓鬼界」は一種の地獄で、欲望深かったものが落ちる所です。ここにあっては絶え間ない飢えと渇きに、腐ったものや糞などの汚物を食らいまた飲むが、決して飢えや渇きが止まることがないという世界です。

地獄」は言わずもがなで、長い長い時をただ苦しみもがくことのみの世界です。

こんなんではたまったものではないわけで、仏教の基本の問題はこうした悲惨な輪廻の世界にあってどこに「真実の平安」を見出だすか、にあったのです。仏教の始祖「お釈迦様」の問題は、そういう性格を持っていたのです。

仏陀
仏陀というのは、こうした問題において、苦しみ・悲惨の原因を悟り、真実を悟り、結果として輪廻の世界の実相を悟って、これを「苦しみの世界としない境地」に至った人のことを言います。つまりは「悟りを開いた人間」ということでした。したがって、本来「」のような超越的存在ではないのです。それが後に「仏の世界」にあって人間を救いとってくれる「超越的存在」にされていった、というのが経緯であり、この段階で「輪廻の世界」対「仏の世界」と対置され、あたかもこの世界の「外側」に超越的世界(仏国)が在ると考えられ、「極楽浄土」とか「浄瑠璃世界」とかが想定されていったのです。

こうしてまた、本来「悟りを開いた人」のレベルにあった「仏陀」が「超越的存在」という位置付けになってしまい、「仏による世界構成」「仏による仏国への救済」という思想や「人間と仏との関係」「仏への道のありかた」とかの様々な思想が構築されていくことになったのです。
 
なお、当初は当たり前の話ですが、仏陀は釈迦しかいません。それが後になって、永遠の真理を悟ったものが一人だけというわけはない、という変な理屈からたくさんの仏が想定されていき、ついには「釈迦を中心としない仏教」までが生ずるに至るわけです。

それは後の問題として、先のような問題がお釈迦様の問題であったのですから、この探求はひどく「哲学的」でした
ところが、宗教というのは本来そんなにも「哲学的」である必要はなく、「信仰」の問題として「祈り」に主体があるものです。そして「神」は「始めから」存在していたものであり、この世界の存在の「原因・根拠」という性格をもっています。「哲学」が宗教の中にでてくるのは、その教理を確立する必要が生じた時からのことであり、「後のこと」むしろ「付帯的なこと」なのです。

しかし、仏教はどうも逆だったようで、始め「哲学」としてあったものが(もちろん、かなり宗教的色彩は強いですが)、それが確立して後、その哲学者が「特別視」され「超越的」にされ、その彼が「信仰の対象」となって、そして「宗教」となっていった、といったような具合になっています。

釈迦の思想
 その釈迦の思想は、大きく二つに分けて考えることができます。一つは「縁起の説」でありもう一つは「四諦(したい)の説」です。かなり哲学的ですが、それは上に指摘した事情からです。

縁起説
 この思想の基本的な考え方は、「物事はそれ自身によってそうあるのではなく、他者との関係において、そうなっている」という考え方でした。

イメージ的には、稲の穂を三角錐の形に束ねておいてある図を思ってください。その中の一本たりとも「自分の力」で立っているわけではなく、他のものを取り除けたら必ず倒れます。どの一本も、他のものに支えられて始めて立っているのです。このように、すべてのものは「他者によって支えられて、そういうものとして立っている」、というのがこの縁起の思想であって「茶柱が立って縁起がいい」というのとは違います(もっとも、この茶柱云々も縁起の思想から由来はしています)。

例えば、我々自身にしたって「自らで存在している」わけではなく、まずは両親によって生み出され、衣服、食べ物、住居に支えられ、さらにそれらを供給してくれた太陽、雨などの自然、海や川、山によって支えられて存在しているわけです。

あるいは、「大きいもの」という判断も「小さい」ものがあるからそう判断されているのであり、「重い」というのも「軽い」があるからです。「美しいもの」も「醜いもの」があることによってそう判断されるのです。
結局、あらゆるものは「他者との関係によって、そうある」のです。こうして、この宇宙には「実体(何ものによっても支えられず、自らの存在の根拠を自らのうちに持っているもの)」などない、「無実体」というのが宇宙の在り方だ、とされました。この思想を「」と言います。カラッポということではないので注意してください。
 
こうした縁起の考え方を一つの思想的な形にまとめたのが「十二因縁」の説です。それは次のようになります。

.老死:人間、老いて死ぬ。苦しみの極みである。こんな苦しみの原因はどこにあるか、それは「」にある。
. では、なぜ生まれるのか。それは「」の世界たる輪廻の世界にあるからである。
. では、なぜ輪廻の世界の中を流転するのか。それは、この世界に執着する心「」があるからである。
. では、なぜ執着するのか。それは「欲望」の心、つまり「」があるからである。
. では、なぜ欲望するのか。それは、ある対象を「感受」するからである。
. では、なぜ感受するのか。それは、ある対象と「接触」するからである。
. では、なぜ接触するのか。それは眼・耳・鼻・舌・身体・意識という感覚器官としての「六入」のためである。
.六入 :では、なぜ六入を持つのか。それは人間が精神たる「」と肉体たる「」をもつからである。
.名色 :その人間存在は何に由来しているのか。それは「意識」である。
10. :では、その意識とは何に由来するのか。それは過去、現在の行為によってである。
11. :では、その行為は何に基づいているのか。それは無知・幻想たる「無明」によっている。
12.無明:明らかなるものの無い、無知、幻想。これがすべての原因である。
 
 かくして、無明を滅すれば順次上のものは消えていき、苦しみたる老死もなくなる、という段取りとなります。

この無明を滅するということが「悟る」ということに他なりません。悟りの内容は上に示した「無実体」という宇宙の在り方ということになります。