八正道(はっしょうどう、巴: ariya-aṭṭhaṅgika-magga, 梵: ārya-aṣṭāṅgika-mārga)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の8種の徳。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支とも。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の道であるから「聖道」(梵: ārya-mārga)と言う。
正見
正見(しょうけん, 巴: sammā‑diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi)とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。
業自性正見(ごうじしょう-)(巴:
kammassakatā sammā‑diṭṭhi)- 業を自己とする正見。
生きとし生けるもの(巴: sattā)は、
業(だけ)を自己の所有とする(巴: kammassakā)
業(だけ)を相続する(巴: kammadāyādā)
業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayonī)
業(だけ)を親族とする(巴: kammabandhū)
業(だけ)を依り所とする(巴: kammapaṭisaraṇā)
十事正見(巴: dasavatthukā sammā-diṭṭhi)
布施の果報はある(巴: atthi dinnaṃ)
大規模な献供に果報はある(巴: atthi yiṭṭhaṃ)
小規模な献供に果報はある(巴: atthi hutaṃ)
善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukkaṭānaṃ
kammānaṃ phalaṃ vipāko)
(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā)
(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā)
化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi sattā opapātikā)
現世は存在する(巴: atthi ayaṃ
loko)
来世は存在する(巴: atthi paro loko)
この世において、正しい道を歩み、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモン、正行者は存在する。(巴: atthi loke samaṇabrāhmaṇā
sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca
lokaṃ parañca lokaṃ
sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti)
四諦正見(巴: catusaccā sammā-diṭṭhi)
苦諦についての智慧(巴: dukkhe ñāṇaṃ)
苦集諦についての智慧(巴: dukkha-samudaye ñāṇaṃ)
苦滅諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhe ñāṇaṃ)
苦滅道諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya
ñāṇaṃ)
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。
この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。
正思惟
正思惟(しょうしゆい, 巴: sammā-saṅkappa, 梵: samyak-saṃkalpa)とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出離(離欲)」とはパーリの原文では「nekkhamma」で、世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。
出離思惟(巴: nekkhamma saṅkappa)
無瞋思惟(巴: abyāpāda saṅkappa)
無害思惟(巴: avihiṃsā
saṅkappa)
正語
正語(しょうご, 巴: sammā-vācā, 梵: samyag-vāc)とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。
正業
正業(しょうごう, 巴: sammā-kammanta, 梵: samyak-karmānta)とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。
この二つは正思惟されたものの実践である。
正命
正命(しょうみょう, 巴: sammā-ājīva, 梵: samyag-ājīva) 殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。
正精進
正精進(しょうしょうじん,
巴: sammā-vāyāma, 梵: samyag-vyāyāma)とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。
正念
正念(しょうねん, 巴: sammā-sati, 梵: samyak-smṛti) 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」である。
正定
正定(しょうじょう, 巴: sammā-samādhi, 梵: samyak-samādhi) 正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。
出典 Wikipedia
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