2019/01/03

黒田の宮の巻【孝霊天皇】

口語訳:大倭根子日子賦斗邇命は、黒田の廬戸宮に住んで天下を治めた。この天皇が十市の縣主の祖、大目の娘、細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命<一柱>である。また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。<一柱>また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。<四柱>またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼を娶って生んだこが日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。<二柱>この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>

この天皇の漢風諡号は孝霊天皇という。

 

○夜麻登々母々曾毘賣命(やまととももそびめのみこと)。この名の「夜麻登々(やまとと)」は、書紀では「倭迹々日百襲姫(やまとトトビももそひめ)命」とある。また妹の「倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはわかやひめ)」というのも、書紀では「倭迹々稚屋姫(やまとトトわかやひめ)命」とある。それぞれ少しずつ違いがあるが、おそらく本来「倭登々(やまとトト)」だったのを、「と」を一つ省いて「やまとと」と言ったのだろう。【この記は省いた方を書いてある。】妹の名を見ればそうと分かる。【これも書紀では「やまとトト」になっている。】

 

書紀の崇神の巻【三丁】(七年八月)に「倭迹速(やまととはや)云々」と言うことがある。これも同名なのだが、「と」を一つ省いのだ。同音が重なるときは、一つ省いて言う例が多い。【「とどまる」を「とまる」とも言うのと同じ。この名を書紀と比べて「と」が一つ脱けたかと思うのは、かえって不正確である。】また書紀でもこの記の妹の名にも「と」の次に「び」が付いているから、これもそうあるべきところを「び」が脱けたのかと思われるだろうが、そうではない。「び」は称え名だから省いて言うこともあり、ここでは本来なかったのである。妹の名の「倭飛」を書紀では「倭迹々」と書いて「び」がなく、上記の崇神の巻でも「倭迹速」は妹の名と同じように「はや」と続いているが、これにも「び」がない。これらの例で知るべきである。名の意味は、「とと」は【「と」を一つ省いても意味は同じだ。】上記の「千々」と同じく、【通音である。】「もも」は、「ももそ」は勤功(いそ)を意味する。【「いそ」は「いさお」が縮まったのである。】

 

この姫命は、書紀の崇神の巻に「五年、国内に疫病が起こり、民の半数以上が死んだ。六年、百姓が土地を離れてさすらい、反乱を企てる者もいた。・・・七年、天皇は神浅茅原(かむあさじはら)に行幸し、八十萬神を集えて卜った。このとき神が倭迹々日百襲姫命に乗りうつり、『天皇、憂うることはない。私を敬い祭るなら、国は平和になるだろう』と言った。天皇は『そうおっしゃるあなたはどの神ですか』と訊ねた。すると『私は倭国の域(さかい)の内にいる神だ。名は大物主神という』と答えた。・・・すると疫病の流行が止み、国内が静まって、五穀がよく実り、百姓の生活も潤った」、また「十年・・・この天皇の叔母、倭迹々日百襲姫は聡明で叡智があり、よくその歌に現れた怪しいところを予知し」とあって、武埴安彦が謀反を謀っていることを予知したという。こうして朝廷のために数々の勲功があったため、百勤功(ももいそ)と称えられたのだろう。

 

ところで同年の続きに

「その後、倭迹々日百襲姫は大物主神の妻となった。その神は、昼は姿を見せず、夜ごとにやって来た。倭迹々日百襲姫は『あなたは、昼はいらっしゃらないから、お顔がはっきり見えないわ。お願いだから明日の朝まで暫く留まっていてください。お顔を拝見したいわ』

と言った。

 

大神は

『それもそうだな。では朝には、あなたの櫛笥(くしけ)の中に隠れていよう。だが私の姿を見て驚いてはいけないよ』

と答えた。

 

倭迹々姫は『妙なことを言うのね』と思いながらも、朝を待って櫛笥を開けて見ると、きれいな小蛇が入っていた。その大きさは衣の紐ぐらいだった。姫は驚き叫んだ。大神は恥に思い、すぐに人の形になってその妻に

『よくも私に恥をかかせたな。私もお前に恥を見せてやる』

と言うと、大空に駆け上がり、御諸山に登ってしまった。倭迹々姫はそれを仰ぎ見て、後悔の念に駆られ、急居した(どしんと尻もちをついて座り込んだ)。そのため陰部に箸が突き刺さって死んだ。大市に葬ったところ、世人はそれを『箸墓』と呼んだ。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。云々」とある。【訓注に「急居、これを『つきう』と読む」とあるのは、言葉の基本形を書いたのだ。ここは活用形だから「つきい」と読む。中古の物語文などで「ついい賜う」などとあるのはこの言葉だ。大市は大和国城上郡の郷である。この墓は天武紀にも「箸陵」とある。その地を今も箸中村と言い、墓も大道の西面にあり、甚だ大きな塚山である。箸中というのは、「箸の墓」が縮まった名のように聞こえる。

 

ところで、この崇神の巻の倭迹々日百襲姫命をある人は疑って

「これは孝霊の皇女の百襲姫命でなく、孝元の皇女の倭迹々姫命のことだろう。孝霊の皇女は、崇神の頃にはもう百歳を超えているから、大物主神の妻になることは似つかわしくない。また彼女は崇神の大叔母なのに、ここでは叔母と書いている。孝元の皇女ならまさしく叔母だから、ここによく合うだろう。それにこの記事で、初めには倭迹々日百襲姫命と書きながら、後には三箇所まで倭迹々姫命とある。すると、最初の「日百襲」が衍字であって、孝元の皇女の倭迹々姫命が正しい」

と言った。

 

これは一見もっともな説だが、さらによく考えると、孝元の皇女の倭迹々姫命は、書紀にはあるがこの記にはない。孝霊の皇女と同じような名だから、実は同一人物が紛れて、孝霊の皇女とも、孝元の皇女とも伝わっていたのが、書紀では二説ともに採用したのだろう。そういう例も多い。また父の姉妹を「おば」と言い、祖父の姉妹を「おおおば」と言って分けるのは、やや後のことでこそあれ、非常に古い時代には、どちらでも同じように「おば」と呼んでいた。これは子孫をすべて「子」と言い、先祖をすべて「オヤ」と呼んだのと同じだ。とすると孝霊の皇女を崇神の「おば」と呼んでも間違ってはいない。また孝霊の皇女が崇神の時代にはもう百歳を超えているのは確かだが、こうした上代のことは年紀があれとこれと合わないことも多く、その一点を捕らえて深く疑うべきではない。

 

この大物主神の妻となった話にも異伝があったらしく、この記では生玉依毘賣のことであり、時代も崇神の頃よりはるかな昔のことだ。だからこの話は、百襲姫命のことであったにせよ、それは崇神の御代よりも前のことであり、箸で陰部を突いて死んだというのは、その時ではないだろう。というのは、箸は物を食うときに使うものであるが、上記の物語では夜が明けるのを待って櫛笥を開けて見たとなっていて、食事をしていたのではないから、箸を持つ理由がない。それを紛れて、あのことと、このこととが同時に起こったように語り伝えられたのは、崇神の御代に大物主神を祭った故事があるのに引かれて、その妻になった話が混同されたのだろう。そうでないなら、この話は他人の事件か。それは定かでない。】


口語訳:大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。

 

口語訳:この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>

 

口語訳:天皇は百六歳で崩じた。御陵は片岡の馬坂付近にある。

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