2019/02/10

合従連衡

合従連衡(がっしょうれんこう)は、中国の戦国時代の外交である合従策および連衡策を併せていうもの。転じて、状況に応じて各勢力が結び、また離れるさまを示す故事成語となった。

春秋戦国時代、戦国七雄のうち強大になりつつあった秦と、周辺六ヶ国(韓・魏・趙・燕・楚・斉)の外交政策として、いずれも縦横家によって考えられた。

当初、六国は相互に結び、協力して秦の圧力を防ごうとした(合従策)。これに対し、秦は個別に同盟関係をもちかけて六国の協力関係を分断すること(連衡策)によって、合従策を封じた。こうして、最終的に合従策に参加した各国は、すべて秦によって亡ぼされ、秦による天下統一が実現することとなった。

合従
戦国七雄のうち、巨大な秦以外の六国が縦(たて、従)に同盟し、共同戦線で秦に対抗しようというのが合従説である。

その最大規模のものが縦横家の蘇秦によるもので、史記によると彼は鬼谷に師事した後に母国に帰った時すっかり貧乏であったため、兄の嫁や妻からさえ馬鹿にされた。このため、一念発起してこれに取り組んだという。彼は、まず燕の文公に各国をとりまとめて秦に対することを説き、承諾を得ると趙・韓・魏・斉・楚と各国を言葉巧みに説き伏せ、六国の合従を成立させたとされる。この時、蘇秦は同盟の総長となり六国の宰相をも兼ねた。蘇秦の後は、その弟の蘇代などによって継承された。

^ この蘇秦の活躍は、史実とは矛盾するものが多いとの指摘がある。それによると実際には秦以外の六ヶ国が連盟した事実は存在しないし、司馬遷は「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」として、乏しい情報の中から蘇秦の事績の復元を試みたのだが、それに失敗したとされる。史実としては、紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の五ヶ国が合従して秦を攻めたが、五ヶ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には、今度は燕・趙・魏・韓・秦の五ヶ国が合従して斉を攻撃している。蘇秦は、この時に活躍したというのが、この説である。この時代は秦・斉の二大強国時代であり、蘇秦は燕のために諸国を糾合し斉を攻撃すべく活動した外交官・間者であった(学研『歴史群像』 19972月号P44-45 合従連衡と蘇秦の正体)

秦以外の二ヶ国のみの場合も合従と呼び、屈原は楚の国内で斉との合従を唱える合従派であったことが知られている(彼は反秦派として『史記』に記述されている)。食客の毛遂が、趙の平原君の使者として楚に赴き、楚の頃襄王と合従した様子については平原君列伝に記載されている。

連衡
秦に対抗して合従する国に対し、秦と結んで隣国を攻める利を説いて、合従から離脱させたのが連衡である。連衡の論者は往々にして秦の息のかかったものであり、六国の間を対立させ特定国と結んで他国を攻撃し、あるいは結んだ国から同盟の代償に土地や城を供出させることを目指した。その代表的な論客は張儀である。

後に范雎は遠交近攻を唱え、遠方の国と手を組み近隣の国を攻撃する事で、秦の領土を拡張した。
出典 Wikipedia

蘇秦は、初め六国(りっこく)のいずれかと秦が連盟して、その後で各国を撃破させるという連衡の策を秦王に取らせようとして、秦の恵王(けいおう)に次のように説いた。

「大王の国は、(国土は地の利を得て、しかも豊かで、)中国全体の中で最も強大な国です。(王の知略と兵法の巧みさをもってすれば、)諸侯を併合し、中国を征服し、帝ということができるようになるでしょう。」

張儀は、秦王に向かって次のように説いた。

「中国では燕(えん)が小国、魏(ぎ)が大国で、楚(そ)と連合して、斉(せい)を固め、韓(かん)を巻き込んで、南北に連合し西のかた秦に当たろうとしております。」

解説
戦国時代、楚・斉・燕・韓・魏・趙の六国は、西から迫る強国秦との対応に苦慮していた。西の秦と東国が連盟することを説く連衡策と、六国が南北に同盟して秦に当たろうとする合従策が対立した。蘇秦は最初は連衡策を唱えていたが、後に合従策を主張した。張儀は初め合従策を唱えていたが、後に魏と秦との連盟を策し、連衡策の第一人者となった。

出典は「史記・孟珂伝」です。西暦四世紀の中葉、中国戦国時代の版図を示した地図を見ますと、最も北には燕という国があり、次に南下して趙、やや東南に斉があり、さらに、魂、韓と南へ並び、最南端の長江に近いところに楚が示されています。
そして、これらの国を西方から包み込むように、当時の最強の国であった秦の国土が画かれています。

『史記』は、この七国の確執、興亡の歴史であるといってよいでしょう。この諸国乱立の時代に活躍した論客に、蘇秦と張儀という人がいました。2人とも鬼谷先生という謎の人物の弟子ですが、弁論の巧みなことと知略に優れた点を諸候が重用したのでした。

まず、蘇秦が燕王に進言したのが「合従策」です。一つひとつの国では西の強国の秦に対抗することはできないが、南北に同盟を結べば十分戦えるというものです。張儀はこれに対抗して「連衡策」を説き、秦を中心として六国の利害をうまく利用して、横への連衡策を執るというものでした。この2つを合わせて「合従連衡」呼ぶことになったのでした。

「合従策」と「連衡策」の駆け引きは色々ありましたが、結局力で勝る秦が弱い国々の「策」を崩して、中国統一の道を歩むことになる訳です。

合従連衡」は政党間の対立、連立合併、さらに強大な政党と中小勢力の政党の駆け引きを面白く説明するには、もってこいの成語です。現代も中国の戦国時代も、あまり差はないように見えます。

さて、この史実をビジネスの社会にあてはめてみますと、やはり同様な現象をそれぞれの業界内部の問題の中に見ることができます。実業界は、弱肉強食の論理が働いており、強者の利害が業界全体に大きく影響します。自然な成り行きからすれば、中・小のグループは強者に吸収されてしまうでしょうから、それぞれの特徴を生かして対抗しなければならないでしょう。しかし、無策の連合であっては意味がないのであり、ここに知略のある人物の戦術・戦略が必要となるのです。つまり、上手の人の方が視野が広く、対局の全貌をよく掴んでいるといえるのです。

「合従連衡」の類語には「遠交近攻」(「史記・伝」)の策というのがあります。

これは、やはり同時代の魏国出身の策士である范雎の言葉で、秦の昭襄王に「遠い国と有効関係を結んで、近隣の国の攻略を画策する」というやり方です。この方法は、見事成功し、范雎は秦の宰相に任ぜられたのでした。

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