2019/02/20

報遺燕恵王書 ~ 楽毅(3)



報遺燕恵王書
※現代語訳は「中華名将録exit」様より転載。
私は不才にして、大王の命令を遵守する才なし。左右側近の方々は、おそらく私が英邁なる先王の徳を穢したと思うことでしょう。それゆえ私は国を辞し、趙へと逃れたのであります。

いま王は使者を遣わし、これを罪状に私を責め立てますが、王の左右の侍臣たちは私が先王の寵を受けたことをもってこれを憎み、認めることはないでしょう。ゆえにあえて、書簡をもってお答えしたします。

私が聞き及ぶところ、聖賢は信愛するものに私せず、功多きものはこれを賞し、能あればこれを位に置くと聴いております。
ゆえにこれを考察するに、才能あらば官職を授けるのは、これすなわち功業の君主たる人傑の行、論を行って交わりを結ぶのは、これすなわち立命の士。私は、ひそかに先王の挙動を拝見させていただきましたが、これまさしく世の主の心の上に立たれるお方。ゆえに私は魏の符節を借りて燕に入り、みずから燕王に見え考察するところを語ったのであります。

先王の過ちは私を幕下に加え、亜卿としたことであります。私は自らの明知の存量もわきまえず、ただ王命を奉じ教えを承れば、幸いにして罪無しというべき。ゆえに、あえて辞すことなかったのであります。

先王は、私に仰られました。
「余は斉に対して恨み骨髄、しかし彼我の国力差を考えるに、わが国はあまりに弱小。どうすれば斉を滅ぼすことが出来ようか」と。

私は、それに対して

「斉は桓公覇業の名残で常勝の名残り残っております。私兵は訓練が行き届き、軍旅のことに習熟しております。大王がこれを伐ちたいと望むのであれば、まず天下の諸侯と連合することが必須条件となりまましょう。まずは趙と結び、また淮北の宋の故地はかねてから楚、魏の狙うところでありますから、趙にこれと約定を結ばせて四国同盟を結ばせるに如かずであります。そうすれば、斉を打破することも可能となるでしょう。」

と答えました。

先王はこれを認めたまい、符節を準備して南は趙へ私を送り届けたまいました。かくして趙からの返事を持ち帰ったのち、先王は私を斉討伐の主帥として派遣し、斉を打たせたものです。天道と先王の霊威、黄河以北の軍は先王の霊威に従って済水ほとりに集まり、斉水ほとりで斉軍と激突のすえ、これを打ち破りました。私は精鋭を率いて長躯斉の国都に攻め入り、斉王を莒まで逃走させその命を脅かし、珠玉財宝車冑珍宝を奪い取って燕に送ったものです。

斉の器物は寧台に、大呂(鐘)は元英殿に陳列され、かつて斉に奪い取られた鼎も暦室宮に復旧され、斉の汶水(斉の一部にのみ生える竹)も薊丘に移植されました。春秋五覇以来、先王の功績は並ぶものはありません。

十分満足だったことでしょう。ゆえに、私のために土地を割いて私を諸侯に並べてくださったのですが、私が身の程をわきまえずそれを受け入れたため、左右にそれを忌む気風が出来上がったこと、これわが身の不徳のいたすところ。

また、私が聴くに賢明な君主とは

「勲を立て荒廃した土地をなくし、春秋にあるように、先見の明ある人は名を轟かせて瑕瑾なく、ゆえに後世の賞賛を受ける」

とあります。

先王は恥をすすぎ仇に報じ、万両の戦車を誇る大敵を平定なされて800年分の財宝を奪い蓄積し、そのご逝去なされた後も違令、政策が衰えることはありませんでした。政治は大臣が管理し、法令を明らかにし、嫡・庶の列をつまびらかにし、恩恵を民百姓にまで広くとどけたことは、すべて後世の模範とすべきことであります。

また聴くに

「よく創るものはまたよく完成を見ず、始めをよくするものは終わりをよくせず」

という言葉もあります。

かつて伍子胥の言葉は呉王闔閭に届き、伍の軍は楚の首都郢まで攻め入りました。
しかし夫差は伍子胥を認めず、剣を授けて自刃させたのち、その死骸は皮袋にくるまれて長江に鎮められました。

夫差は先王が子胥の言によって功業を為したことが理解できず、ゆえに子胥を長江深くへ沈めても、後悔することがなかったのであります。子胥は父子の器量の格差に気付くことができず、自分の言は夫差にも用いられると信じたゆえに、死を賜るまで言を曲げることがありませんでした。

これに対して、私は建業功業の災禍に見舞われることなく、賢明なる先王に仕えて功業に一臂の力を添えることが出来たこと、まさに人生の上策。しかし誹りにあって偉大なる先王の名誉を汚したことは、大いなる禍根であります。
思いもかけぬ罪で疑いを受けながら、僥倖を持って利を得ようとは道義的に出来ることではありません。

また古の君子は、交わりを立ってもその悪語を語らず、忠心は国を離れても自己の名を汚さず、と申します。
私は君子ではありませんが、しばしば君子に訓戒を受けております。
私が恐れるのは、王が左右侍臣たちの妄寧に心を曇らすことであり、疎遠な者を察せなくなるようになるのであります。これに関して返書をしたためますので、これを王が心に留め置かれるのであれば幸いです。

燕と趙の重臣へ
燕の昭王の厚遇に対して義を通そうとし、亡命したのは罪人にされると自らを抜擢した昭王の顔に泥を塗り、昭王の名を辱めることになるからと言う楽毅の思いを知った恵王は、楽毅が趙軍を率いて攻め込んでくることはありえない事を理解し、楽毅の子・楽間に昌国君の位を継承させた。

楽毅はその後、燕と趙の間を行き来するようになり、両国から政治顧問たる客卿の待遇を受け、趙にて没したと言われている。

楽毅、して燕の恵王の死後、燕は喜王の代となった際に、秦の白起の活躍と趙括大先生(笑)の大ポカで趙が国力を疲弊すると、燕の宰相の栗腹は「趙を討伐するなら今」と進言したが、楽毅の子・楽間は

「周囲を囲まれた趙は、士だけでなく民も戦争を習熟しているので侮れない」

として、趙への遠征に反対した。

しかし喜王は楽間の諌めを聞き入れずに趙に遠征し、秦もてこずった老将「廉頗」に撃退され、楽間も趙に亡命した。

父・恵王同様、楽間に帰還を願う手紙を送った喜王だったが、楽間は拒否し燕王二代で同じ過ちを繰り返した。

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