出典 http://timeway.vivian.jp/index.html
ガンジス川流域に生まれたいくつかの小王国の中から、強国が成長してくるのが前5世紀頃です。代表的な国が、コーサラ国とマガタ国。
前4世紀の末になって、はじめて北インド全体を統一する王朝が登場します。これがマウリヤ朝(前317~前180)。首都はパータリプトラ。建国者がチャンドラグプタ。この人は、インド史では非常に大事。何が大事かというと、年代確定のキーパーソンなんですね。
インドの人たちは輪廻を信じているから、あんまり歴史記録に関心がない。どんな事件がいつ起こったかなんていうことを、あまり熱心に書き留めておきません。だから、インド史は難しい。ブッダの生没年にしても諸説あることは前回も言いました。
ところが、このチャンドラグプタはいつの人かハッキリ分かる。なぜかというと、ギリシア人の記録にでてくるのです。例のアレクサンドロス大王が東方遠征に出て、インドに侵入したときにかれを迎え撃ったのが、このチャンドラグプタだったのです。で、いつの人かハッキリ分かるので、かれを基準としてインドの古代の歴史は編まれています。
チャンドラグプタはインダス川流域からギリシア人勢力を追い払い、その勢いでマガタ国に取って代わりマウリヤ朝を建て、北インドを統一した。
マウリヤ朝の三代目の王が有名なアショーカ王(位前268~前232頃)です。かれはインド全土をほぼ統一。インド亜大陸の南端だけは領土になっていないので、ほぼ統一という。
仏教との深い関係でも有名です。アショーカ王は、南方のカリンガ王国という国を滅ぼしたとき、数十万人を虐殺した。それをあとで後悔して、仏教に帰依したと伝えられています。政治も暴力ではなく、ダルマによる支配を行うようになった。このダルマというのは「法」と訳していますが法律ではなく、道徳的な徳目と考えて下さい。このダルマは、仏教の教えに影響されているようです。
アショーカ王は、このダルマを刻んだ石柱碑、磨崖碑(まがいひ・崖に刻んだ碑文)を各地に作りました。この石柱碑が発見されると、アショーカ王時代にマウリヤ朝の領土だったことが確定するわけです。写真の石柱碑見て下さい。丸い円柱で、てっぺんに獅子の像が刻んであるね。この獅子の台座に注目。これは車輪ですね。クルクル廻る車輪は、輪廻の象徴です。この車輪は現在のインド国旗の真ん中にも描かれています。インド人の世界観が見えてくるようですね。
また、アショーカ王は第三回仏典結集をおこなった。結集は「けっじゅう」と読みます。伝統的な読み癖です。仏典結集というのは、ブッダの教えが時とともに食い違っていかないように、各地の仏僧が集まって、それぞれのグループが伝えているブッダの教えを確認しあうのです。
第一回仏典結集はブッダの死後すぐにおこなわれ、第二回はそれから約100年後、そしてアショーカ王が主催したのが第三回です。
面白いことに、当時はまだブッダの教えを文字に記録していないんですよ。だから、口伝えでブッダの教えが伝えられていて、その教えを確認するためにやはり、ずーっと誰かが暗唱する。それを聞いて他の僧たちが、「それでいいのだ」と確認するわけ。ブッダの教えが文字に記録されるのが、一世紀くらいからだそうです。口伝えの伝統はお経に残っていて、すべての仏典は「私はこう聞いた」という意味の言葉から始まっているんです。日本に伝えられている大乗漢訳仏典もそうです。ブッダの弟子が、「師の教えをこんなふうに聞きました」と確認している結集の口調が、そのままなんですね。
アショーカ王は、また南のセイロン島に王子を派遣して、仏教を伝えさせたともいわれている。 アショーカ王は仏教がらみの話題が多いのですが、実際にはジャイナ教も保護しています。バラモンの権威に反対する宗教なら、すべて応援したんでしょう。
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