2019/02/19

楽毅(2)



楽毅とは、中国・戦国時代の武将で、燕の昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。

「真の君子は、友と絶交しても相手の悪口は言わず、忠臣は、国を捨てても我が身の潔白を弁解しない」

の結びで知られる著作「燕の恵王に報ずるの書(報遺燕恵王書)」は古今の名文として、諸葛亮の「出師表」と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われた、功を誇らず、自らを驕らず、忠節を貫いた姿勢から、同じく軍事の天才であった白起の様な最期を迎えずに天寿を全うした名将。燕においては「昌国君」、趙においては「望諸君」とも呼ばれる。

※「三国志」においては、諸葛亮が自らの政治力を管仲になぞらえた際に、軍事力は楽毅の名を挙げている。

※「三国志演義」では、徐庶が劉備の元を去る際に、諸葛亮を「古の管仲・楽毅よりも上」として劉備に推薦するシーンがある。

趙から魏へ
魏文候に仕えて中山国を征服し、その功により中山の首都霊寿に封じられた楽羊の子孫で、若い頃から頭脳明晰で兵法に通じるとの評判の高かった楽毅は、楽羊の頃よりすみ続けていた中山国を滅ぼした趙の武霊王に仕えた。

武霊王は、当時は蛮族の行為とされていた騎馬上から弓を放つ戦法「胡服騎射」を、周囲の反対を説得して取り入れる等、先見の明のある王だったが、太子や公子の事を哀れんで自ら退位した後の内部抗争により餓死すると、楽毅は趙を離れて魏の昭王に仕えた。

魏から燕へ
魏の使者として燕に赴いた楽毅は、客分として優遇された事から燕の昭王の家臣となり、燕の昭王は楽毅を亜卿に封じて厚遇した。

この当時の燕は、孟嘗君を宰相にして強勢を誇っていた斉の湣王からの攻撃を受け、王がいなくなると言う滅亡した期間があり、燕の昭王が斉軍を追い払う事によって復興したばかりで、まずは「隗より始めよ」と、郭隗を厚遇することで諸国に散らばる能臣を集めていた。

斉の湣王は、燕を一時的に滅亡させたほか、趙・韓・魏の三晋を破り、趙を援助して中山国を滅ぼし、三晋を率いて秦を攻め魯を属国とし宋を倒して広大な領土を獲得しており、一時期は「王」ではなく「帝」を名のった程だった。逆に斉の人心は疲弊しており、かねてから復讐の機会をうかがっていた燕の昭王は、軍事力的にはまだまだ斉に及ばない燕はどうすればよいかと楽毅に問うと、楽毅は、

斉は今、覇者桓公以来の余禄で盛強無比な存在です。土地は広大にして人は多く、今、燕一国の力でこれを攻めるのは、容易ではありません。それでも斉を討つというのであれば、三晋や楚・魏と結ばれるが良いでしょう。


と進言し、燕の昭王は趙に楽毅を送って密約を結び、韓・楚・魏とも連合し、趙を通じて秦にも協力を求め「燕」「韓」「魏」「趙」「楚」の五カ国連合軍(後に秦も加わる)を組織し、楽毅を総帥とした。

破竹の勢い
五カ国連合軍を指揮する立場となった楽毅は、済水の西で斉軍と戦い斉に大勝した。連合軍はここで一旦解散すると、楽毅は燕軍単独での追撃戦を開始し、斉の主都・臨淄を落して湣王を莒に逃亡させると、斉伝来の宝物を燕に移送した。

燕の昭王は、一度は滅亡させられた斉の首都を落したとあって大いに喜び、楽毅を昌国君に封じ、まだ降伏していない斉の城邑を平定するように命じた。破竹の勢いをもって、まずは斉の首都を陥落させた楽毅は、その後5年の短期間で斉の70余の城邑を攻略し、残るは湣王が籠もる莒と即墨の2都市を残すのみだった。

※この時、湣王は援軍としてきたはずの楚軍の淖歯に暗殺され、大混乱に陥っていた。また即墨では、斉の救世主となる元祖火牛計の田単が城内にいた。

燕から趙へ
斉へのチェックメイトまで後1手となった楽毅だが、ここで重大な事態が発生する。楽毅を厚遇していた燕の昭王が没し、恵王が後継いだのである。

恵王は太子の時代に、家臣の騎劫に吹き込まれて「楽毅は斉王になろうとしている」と父・昭王に進言したものの、楽毅に絶大な信頼をおいている昭王から逆に鞭打たれたことがあり、楽毅とは仲が悪かった。

楽毅と恵王の関係を知った斉の将軍・田単は

今度こそ楽毅は斉王になるつもりで、あと二城を残したままにして斉の国民の人気を得ようとしている。 

 と、無い事無い事を燕に送り込んだ諜報員を使って流言し、聞きつけた燕の恵王は、楽毅を召還して、騎劫を斉攻略軍の大将に据えた。

殺されるのを恐れた楽毅は燕に戻らず、以前、五カ国連合が組織された際に宰相の印綬を受け取っていた趙に亡命し、望諸君として燕・斉・趙の国境となる観津に封じられた。

こうして最強の敵を葬り去った斉の田単は、情報戦を駆使して騎劫の軍勢の気の緩みを誘い、必殺の火牛計をもって燕軍を大混乱に陥れて打ち破り、破竹の勢いで奪われていた70余の城邑を奪い返し、騎劫を戦死させて斉から燕軍を完全に駆逐した。

※しかしこの時の大ダメージが尾を引き、戦国時代は秦の統一へと進んでいく。

自らの采配ミスを後悔した恵王は、趙に亡命した楽毅が燕に攻め込んでくるのではないかと恐れ、可能であれば呼び戻したいと、

先王より兵権を与えられた楽毅将軍が、斉を破ったことは天下震撼せざるをえない功績であり、私は忘れる事はないだろう。私が将軍と騎劫を代えたのは、将軍が長く軍旅の任にあったため休息を与えようとしたのであって、更迭召し返してから暗殺しようとかいう意図はなかった。出来うるなら、先王の恩を思い返してもらい、燕に戻ってきてはくれないだろうか。それこそが、先王の恩に報いる行為ではないのか。

との弁解の手紙を書いて楽毅に送ったが、楽毅は先王への思いと心境を語った名文「燕の恵王に報ずるの書(報遺燕恵王書)」を送った。

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