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戦略能力
将帥や官僚の資質よりも、王者の師として君側に侍り、中原に指図することに優れ、東洋の軍師の一典型として、最もシャープな形を取った。太公望と彼が、東洋における軍師の「テンプレ」になったとも言われる。後世、彼の名は、智者に対する褒め言葉として用いられた。曹操の参謀である荀彧も、曹操に「我が子房」と呼んでおり、これは最上級の誉め言葉である。
劉邦も
「謀(はかりごと)を帳の中でめぐらし、勝ちを千里の外で決することでは、わしは子房に及ばない」
と評している。
史書には触れられていないが、韓の貴族の子弟であったことと遊侠であったことを利用して、非常に正確で緻密な情報収集網を作りあげていたのではと推測される。景駒や項梁の動きを把握していたり、嶢関を守る秦軍の将軍が商人の子弟であることを知っていたりした上に、中国全土の情勢を把握し、戦略を組み立てていた。
また、劉邦の部下が恩賞目当てであることを把握して劉邦に伝えて進言し、嶢関を守る秦軍や講和を結んだ項羽軍の攻撃を進言するなど、その策略は現実的なものであった。
張良の献策は、到底、机上の空論から生み出されるものではなく、相当根拠が確かなものである。
張良の戦略について
張良が主導し、漢軍が採用したと考えられる楚漢戦争における戦略は史書では明確な記述はないが、実際に行った漢軍の軍事行動によって推測できる。その評価は、かなり高い。
その戦略は、彭城の戦い以前は武力と外交を使い分けて、諸国を楚から漢の味方にするというもので、項羽に助けられた趙すら漢の味方となり、楚を攻める同盟国となった。
そのため、項羽が封じた十八王のうち、燕(王は臧荼)・九江(王は黥布)・衡山(王は呉芮)・臨江(王は共敖)以外の国は漢に降伏するか、漢の同盟国となった。また、斉や趙の楚への反意を示すことで項羽は斉攻撃を優先し、その間に各国から援軍を受けて彭城を落とすことに成功している。この戦略は、項羽の有した高い戦術能力による彭城の戦いにおける敗北により破綻したが、項羽へ与えた打撃は大きく滎陽まで漢軍は領土を得ることに成功している。
また、彭城の戦い以後は、劉邦が項羽を引き付けて防衛にあたっている間に、韓信が楚の同盟国を滅ぼし兵力を補充しつつ、彭越に楚軍の補給を攻撃させ後背を攻めさせるもので、後には黥布や盧綰・劉賈にもこれに当たらせ、楚軍を弱らせることに成功している。最終的には、弱らせた上で盟約を結び背後を見せた楚軍を攻撃し、漢の全軍で項羽を包囲するように攻めることで、高い戦術能力を持つ項羽の討伐に成功している。
この戦略を打ち破るために、楚軍がとりえる戦略はほとんど無かったと考えられる、
戦術と政治について
病身で将軍として指揮したことがないと史書に伝えられており、劉邦から離れて韓の司徒として韓のために戦った時も、別に将軍となる人物がいたと考えられる。韓での戦歴も数城奪っては数城奪われ、その後は遊撃を行っていたというものであり、用兵が本領でもなかったことが推測できる。
しかし、劉邦と合流した時は、張良の助けによって韓の地にあった十数城を奪っており、守勢は不得手でも攻勢と遊撃には、それなりに強かったと考えられる。また、張良が戦った韓の土地は、項羽や劉邦の戦った楚の地より西側であり、秦の勢力が強い場所であった。
さらに、張良加入後の劉邦が率いる軍は、項羽との戦いを除けば基本的に勝利を重ねており、戦略家としてだけではなく、太公望の兵法について劉邦に語ったとされる通り、軍事関係の参謀としても優れていると考えられる。
劉邦が当初、張良に与えようとした恩賞は三万戸であり、これは最終的に一位となった曹参の一万六百戸、蕭何の八千戸を圧倒的に上回るほどのものである。しかも、劉邦の功臣たちからの不満は記録されておらず、その功績が莫大なものと評価されていたことが立証される。
なお、彼に比肩する知略家である陳平は丞相として天下の権を掌握したが、張良はそれ程実権のある官職には就いていない。顧問としては重んじられたが、政治や行政の実務能力は不明なところが多い。本人も病身で、仙人修行の方に興味をもっていたようである。
史書での評価
『史記』において、司馬遷は
「高祖(劉邦)はしばしば困苦にあったが、そのたびに留侯(張良)は力量を発揮し、功績をあげた。まさに、天が高祖に留侯を授けたというべきである。高祖も「計略を帷幄の中でめぐらし、勝利を千里の外で決することに関しては、子房(張良)に及ばない」と話している」
と評している。
史記では、諸侯として世家に立てられ、曹参の下、陳平の上に位置し、漢書では陳平、王陵と同位で三者では筆頭に立てられる。
張良、韓信、蕭何の三傑の語源は、宴席にて劉邦が参謀、元帥、政治家として自身を上回る代表的人物として言及している者達で、兵権、封土、官職上での最高の三人というわけではない。
功臣として王となった韓信は別格であり、張良は蕭何に比べては一枚落ちる。また、唐代には、武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣。右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、孫武・呉起よりも上位となっている。
ただ、中国では、嶢関を守る秦軍や講和を結んだ項羽軍の攻撃を進言したことに対する非難や、朱子のように「劉邦を利用して、秦や項羽に復讐した」という評価も存在する。
創作における張良は、多くは女性のような容貌をした美形として描かれ、復讐者としての影を持つとともに、優れた智謀を有して戦略・謀略にすぐれ、劉邦のために貢献する忠実な参謀とされることが多い。また、史実では年齢は劉邦より年上か同世代の可能性が高いが、比較的、若い姿で描写されることが多い。
人物
知性に優れたが、儒学的な知識人ではなく、矯激な侠客的な性格を帯びていた。始皇帝の暗殺に成功していれば、もしくはその時に闘死していれば、刺客列伝に名を連ねたであろう。その行動原理は義侠の行いに傾いており、功を成し遂げた後の身の処し方を知っており、明快である。
張良の義侠の精神は、鴻門の会の直前において、劉邦が張良への相談なしに勝手に函谷関を封鎖して苦境におちいったにも関わらず、韓の臣であった張良は脱出を勧めた項伯の誘いを断り、劉邦への個人的な関係のためだけに項伯にとりなしを依頼し、鴻門の会に出席したことで証明される。劉邦を無事帰還させた後も、ただ一人とどまり劉邦とその部下たちを守った。張良はあくまで韓の臣であり、劉邦のために項羽や范増に斬られる危険を犯す必要はなかったにも関わらずである。
また、劉邦からの三万戸という恩賞を辞退する無欲さもあった。これには、将来の危険を察知する保身にも長けていたという評価もある。
なお、復讐については、始皇帝への復讐を図り、秦への反乱を起こした時には韓の復興を企画しており、秦への復讐の意図があったことは本人も明言している。しかし、劉邦の咸陽進出に反対するなど、その復讐は秦への民に対する無差別なものではなかった。
また、劉邦の参謀となり項羽を倒すことを図ったことについては、韓王成の報復の意図であったかは史書に明記されていない。韓は韓王成の死後、韓王信が韓王となったが、史書には張良と韓王信が会話する場面はなく、親密さは窺えない。
また、いつも部下に対して傲慢無礼である劉邦すら、張良を「子房」と字呼びにし、敬意を払っていた。三傑の評価の時ですら、蕭何・蕭何は名前呼びなのに対して、張良だけは字呼びをしている。また、終始、劉邦の味方であるとともに、呂雉からも深い信頼を得ており、多くの功臣が疑われたにも関わらず、張良はそのような疑惑をもたれることはなかった。
「張良經一卷」、「張氏七篇七卷」という兵法書を著したというが詳細は不明。特に機警の才に富み、劉邦に危機が差し迫った時、もつれた糸を解くように対処した。多くの困難な問題を簡単な対処で済むように計らい、大事なことを些細なうちに処理した。
おおよそ物事に動じる事はなく、体は弱いが、胆力に秀でた漢であり、史家の司馬遷は彼を壮大魁偉な姿と予想した。しかし、面貌は美しい女性のように優しげであったと伝わる。これにより、後世の作家の筆致が冴え渡る事となった。
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