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張良は、戦国時代末期~前漢の人物。韓の人物で後に漢の留侯。姓は張、名は良、字(あざな)は子房。漢王朝を興した高祖・劉邦の功臣であり、その中でも最も著名な三傑に挙げられる。軍師として帷幄に控え、政戦両略の首謀を為した。
貴公子編
祖父である張開地と父である張平は韓の宰相を務め、五代の王に仕えた重鎮であり、召使は三百を数えた。また、淮陽というところで礼を学んだことがあった。そんな名門の嫡子として生まれた張良は、草莽から立身した劉邦の家臣では、屈指の出自である。
暗殺者編
韓が滅亡した時、張良はまだ年若く官には就いていなかった。祖国を滅ぼした秦の始皇帝に対する恨みは深く、全財産を費やして刺客を捜し求め、弟の葬式も出さない程であった。 やがて東の倉海君に会い、力に優れた士を紹介されたので雇い、百二十斤の鉄槌を手に入れる。
士を連れて、東方の地に遊幸していた始皇帝を博浪沙の地で狙撃するが、槌は副車に当たり暗殺は失敗。張良は天下のお尋ね者となり、一時は姓を変えて逃亡生活を送る事となった。
任侠編
下邳の地で、兵書を諳んじながら任侠の道に入り、世の情勢の変化を待つ。その間に楚の名門出身の項伯(纏)という人物が殺人を犯してしまい逃亡、張良に庇護を求めて来た事もあった。
やがて時は十年経ち、天下は始皇帝の死と奸臣の跋扈で混迷。陳勝・呉広の乱を契機に反秦の決起が世を覆う事となる。張良も再び志を遂げようと、百人の同志を連れて楚の地で自立した景駒という有力者の所に身を寄せようとした。
厩将編
その途中の留の地で、劉邦と出会う。劉邦は張良を厚く遇し厩将とし、張良の説く兵法を上策とし、常に聞き入れた。
今まで自身の策が世の人に受け要れられなかった張良は、劉邦を天授の英傑だと感銘し、これに従うことに決めた。景駒の所には参加しなかった。
劉邦もまた、出身地である豊の地を守っていた雍歯が寝返り、取り返すことができずに苦しんでいた。景駒に兵を借りに行ったのもそのためであったが、張良の参加の後に戦略を転換して碭の地を攻めて降伏させる。数千規模の勢力から一万人規模の勢力へと躍進した劉邦軍は、ようやく豊を奪還することが出来た。
司徒編
楚の大将、項梁が楚の懐王を擁立すると、張良は項梁に韓の公子である横陽君・韓成を立てて韓を復興させ、楚と連合させる事を進言した。項梁はこれを採り入れて成を韓王とし、張良を司徒に任じた。これで宿願のひとつである韓の再興に着手する事ができるようになる。
韓王との韓土の奪還戦は、数城を得てはすぐに秦に取り戻されるなど思わしいものではなかった。張良は潁川地方を遊撃することにしたが、項梁が秦の章邯に討たれると、韓王成は楚の懐王のいる彭城に逃げていってしまう。
楚の懐王は秦の主力には宋義と項羽を派遣して攻撃させ、劉邦には彼らを支援しながら、咸陽を目指させることにした。項羽は途上で宋義を斬り、章邯・王離率いる秦の主力軍を鉅鹿において破る。
客将編
この頃に張良は秦の咸陽を目指してきた劉邦と合流して、韓の旧領である十数城を降伏させる。一段落すると、劉邦は韓王成には韓の地の守備を任せ、張良を客将として受け入れて従軍させ、秦の経略の為に帷幕に詰めさせた。
張良のその後の献策は功を奏し、劉邦が宛城を陥落させずに撤退するところを説得して、引き返して急襲させて宛城を陥落させる。さらに関中を守る南の関所である武関を突破し、嶢関を守る秦軍の将も偽兵の計で兵力を増やして見せた上で、酈食其を派遣して贈賄して将軍を油断させた。その上で
「将軍は従っても、兵は従わないかもしれません。油断したところを攻撃しましょう」
張良の策略は秦滅亡の一助を成し、遂に劉邦は秦都咸陽を落とす事に成功したのであった。秦王子嬰は、劉邦に降った。
咸陽の秦宮は、天下の贅が結集した楽土であった。劉邦はここに留まって、おおいに逸楽したいと思ったが、まずいと感じた古参の義弟・樊噲は、劉邦を諌め、ここを去るべきだとしたが、女と財宝に目がくらんだ劉邦は聞き入れない。張良は樊噲の諫言を是とし、彼の言葉を理非を揃えて補完し、劉邦を翻意させた。そこで劉邦は覇上に宿営する。
時に劉邦は張良の意見を聞き入れずに、失策を犯す事もあった。秦を落としたのは良いが、その後、関中を支配しようとして、函谷関を閉じて項羽をはじめとする他の諸侯が関中に入ることを阻止する処置を取ってしまう。秦の領土を私物化すると捉えかねない処置は、当然項羽の逆鱗に触れる。
項羽は、歴戦の名将である。その兵も多く精強であり、40万人の兵力を有していた。劉邦の軍勢は10万人程度であり精強であるとも言えず、とても及ぶものではなかった。
項羽は劉邦に対する殺意に燃えた。劉邦に討秦を先んじられた事も不愉快であり、劉邦が門を閉じて自身に叛意を見せている事も不愉快であった。軍師范増も項羽の考えを支持した、むしろ項羽より熱心であった。
こうして天下の耳目が項羽と劉邦に集められる中、ただ一人、張良を見ている男がいた。かつて張良に命を救われた項伯である。彼は項羽の叔父であり、項羽の軍中にいたのだ。このままでは旧友が劉邦と束ねられて、処斬されてしまう。
彼は夜中に劉邦軍の陣地にやってくると、全てを捨てて張良に共に逃げようと提案した。
項伯の義に対して、張良は劉邦に味方することで義を返して欲しいと頼む。項伯は承知し、劉邦と義兄弟の契りを交わし、助力を約束した。そして両雄の落とし所を決めるべき会見が設けられた。
鴻門の会である。表面は宴の体裁をとっていたが、その実、被告である劉邦の罪を鳴らす裁判であり、即死刑を執行する準備が整えられた窮地の席であった。
だが、張良の機転、樊噲の乱入と雄弁、項伯の義侠、項羽の不断もあって范増の謀は不首尾に終わり、張良は最後まで会に残って項羽と范増への釈明に務め、遂に劉邦は項羽の鋭鋒をかわしきる事に成功したのであった。この会見を機に、項羽と劉邦の緊張は一時緩和した。
劉邦は漢王となり、巴と蜀の地を得る。張良に財を下賜し労を労ったが、張良はほとんどを項伯に献じた。張良は項伯を通じて、劉邦を漢中に封国させる事を打診し、項羽もこれを認めた。
劉邦は漢中に赴任する事となり、張良は韓に戻る事となった。別れる前に劉邦に、桟道を焼いて東上する意思を無くしたと見せかけて、項羽の警戒を解くようにと献策を残した。
だが韓王成は、項羽に殺されていた。韓王成の司徒である張良が劉邦と懇意である事を疑っていたとする説もある。なお、主君を殺された張良の態度については、史書は触れていない。そのため張良の、後の劉邦を助け、項羽を討つための活動が韓王成の復讐のためかどうかは、史書には記されていない。
こうして張良は劉邦の元へ奔った。すでに劉邦も決起しており、韓信を大将に迎え、三秦の地(関中)を平定していた。劉邦は張良を成信侯に取り立てた。
その後、彼がした事は、項羽に書簡を送り、劉邦に野心は無い事、斉と趙が謀反を企てている事を知らせ、項羽の眼を劉邦から逸らさせる事であった。項羽はこの策略により、斉を討伐することに決めた。
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