政治学
このような倫理学は、必然的に「人がそこに居て行為する社会」というものの考察を要請してきます。なぜならアリストテレスの倫理学というのは、今みましたようにポリス(社会)を良く正しくするというような所に、その目的が見られていたからです。
それゆえ、『ニコマコス倫理学』は、必然的な流れとして『政治学』へと移行するようになっています。しかし、この『政治学』という訳ですが、これは英語の「ポリティックス」に引きずられた訳で、日本訳として定着してしまっているものの、どの訳者もコメントせざるを得ないくらい下手でまずい訳でして、原語のポリィテイカというのは「ポリスに関することども」といったような意味です。
「ポリスに関することども」というのが元来だということは、ここには「政治そのもの、政治的支配、統治のあり方」が問題にされているわけではなく「ポリス(社会)の在り方」が問題にされているということを意味します。
さらに、この当時のポリスというのは、今日の国家とはまるきり違っているわけで、したがってここに書かれていることを今日の国家あるいは政治にあてはめたのでは、とんでもないことになってしまいます。それなのに、そういう誤解が非常に多いので注意してください。他方、ここには「人が生活すべき社会の在り方」について非常に鋭く深い洞察があって、その点で今日にまで生きているのであって、そのように読む限りにおいて、今日でも最高度の書物となっているのです。
さて「住民全員が互いに顔見知りで、相手を良く知っている」ということが、このポリスの性格として重要でした。それでは「ポリスは何のために形成されねばならないのか」、というと、それは「良く生きる」ためである、といわれます。これは経済的満足だけを意味するものではありません。先に見た倫理学のところにあった「幸福」を実現するためにです。ということは、人柄として有徳であり理性的な人間を実現し、善き人だからということで友愛の関係にある人々の社会になる、ということになってくるでしょう。
もっと言えば、理性の現実活動が実現して「最高善」が現れ出ることを目指すものとして成立する、という事です。もちろん、現実の社会が「こうなっている」ということを言っているわけではありません。そうではなく「ポリス(社会)というのはそれを目指してあるべきもの」という指摘です。
「ポリスの形成目的」としては、こうした性格を持っているわけですが、アリストテレスの具体的論は、ポリスの成立として先ず家の在り方から村の在り方へと進み、最後にポリス共同体へと考察が進められていきます。しかし、そうはいってもポリス共同体は、ただ家が大きくなって村になり、さらにそれが大きくなってポリスになった、などと単純に考えられているわけではありません。むしろ、もしそうだったならば家父長制度となり、その延長上に専制君主国家になってしまうだろうとアリストテレスは指摘し、実際アジアの国家はそうなっている、と言っています(もちろん、ここでのアジアとは中東を指し、具体的には「ペルシャ帝国」を考えていたでしょう)
ギリシャ・ポリスはそうはならなかったわけで、そうはならなかった特殊な在り方のところに、ポリスの性格を見ようとしているわけです。それが先に挙げた「善の実現」に向けられた「理性の自己実現」という目的なのでした(ただし、残念ながらギリシャ・ポリスはアリストテレスの期待を裏切り、没落していきましたけれど)
ともあれ、こうしてアリストテレスは先ず「理論上最善のポリス」を考察して、その上で具体的な社会体制を検討していくわけで、ここにたくさんのページが割かれます。 ここで言われるのが有名な「最善のポリスは君主制」(ここも訳語が恐ろしく拙劣で、非常な誤解を読んでしまう原因となっています。つまり「君主」と訳されてしまったギリシャ語原語は「“最善者の”支配制」といったところで、このように訳しておかなければ、アリストテレスの理論は全く理解できません。)、第二が「少数者制」(これも意味は「少数の“優れた人々による”合議制」です)、第三に「民主制」となり、第四にその民主制の堕落形態としての「衆愚制(といっても、人々は自分たちが「衆愚」だとは決して思わず、相変わらず「民主制」を主張します。
しかし、客観的に見るとそうなるということで、アリストテレスは「自分が生きている当時のギリシャ世界」をそう見ていたのですが、これは歴史的にも正しい判断であったと言えます)」、第五が少数者制の堕落形態としての「寡頭政治」が、そして「最悪なのが専制君主制」とされるのでした。
近代以降、民主制が「健康な政治の中で最低」とされていることでアリストテレスは評判が悪いのですが、これは「当時の民主制と名乗っている社会の実態を知らない」か、あるいはもっと言えば「民主制の何たるかの考察」すらしていない単なる中傷でしかなく、私達は「民主制を維持することの難しさ」をもう少し考えてみるべきでしょう。
それはともかく、アリストテレスは、そうした良きポリスを形成するための必須の条件として、結局、論は最善の国家を構成する市民の「教育」という問題になっていきます。ここにこそ彼の真の問題があったわけで、私たちは社会の善し悪しの問題とは教育の問題であるというアリストテレスの主張を(具体的内容は今日には、とても適用できませんが)、金と利得と効率のことしか考えない現在の社会を、もう一度振り返ってみる事も必要なのではないかと考えるわけです。
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