2020/06/06

ローマ帝国(1)



ローマ帝国は、都市国家ローマが地中海の大半、あるいは全域にまで領域を拡大した姿。また、共和政ローマの領域拡大期や、紀元前27年からの帝政ローマを指す用語でもある。

翻訳前の「Imperium Romanum」はローマの支配権や支配領域を示す語であり、本来ならば、「ローマ皇帝が統治する国」という意味ではない。したがって、本項では共和政の領域拡大期についても記述する。

概要
一都市国家であったローマが、しだいに他地域にまで拡大し、地中海を統一した姿である。

この古代ローマが、いわゆる「帝国」になるのは、一般に、オクタウィアヌスが内乱を制し「アウグストゥス(尊厳者)」となった紀元前27年とされる(帝政ローマ)。しかしそれは狭義の帝国像であり、帝国とは本来、「多文化・多民族を支配する国家」である。その限りでいえば、古代ローマは紀元前242年にシチリア島を属州(非イタリア本国の領土)として支配した段階で帝国化したといえる。

しかし「ローマは一日にして成らず」である。

509年にエトルリア人の王を廃したローマだったが、前390年にはガリア人(現フランスに位置した)に大敗し、イタリア南部のサムニウム人とも死闘を繰り広げていた。そんな中で、国内では重装歩兵として活躍した平民が政治の一翼を担うようになり、ローマは民主政へと変質。前272年には到頭イタリア統一を果たし、同盟市による連合国家になった。

264年にカルタゴ(現チュニジア)との間に起こったポエニ戦争を機に、ローマの「地中海帝国」としての方向性は決定的となった。戦争の過程で初の属州を獲得し、コルシカ・サルデーニャ両島を併合、さらには現スペインにまで版図を広げた。

一方、ローマ国内では相次ぐ戦役により農民が没落、富裕層はその際に生まれた空き地を次々と買い取った上、海外からもたらされる捕虜を使った大土地所有を進めていった。没落した市民は生活保護のため、富裕層は更なる利益のために戦争をなお求めていく。

そういった背景により、戦後、西地中海の覇者となったローマは東方への拡大を目指し、古代ギリシア・マケドニアをはじめとするヘレニズム圏(東地中海)を下していき、前1世紀の中頃には、地中海のほぼ全域を統一した。

帝政の概略
このようにローマは「帝国化」したが、国内の階級間では利潤を巡り腐敗と闘争が繰り返された。前31年になって、ようやく内乱に終止符が打たれたが、それにより共和政の皮を被った元首政、すなわち帝政ローマが始まるのである。

以後、後180年までの約200年間、ローマ帝国は空前の繁栄を謳歌する。後9年にゲルマン人に大敗したため、現ドイツ方面への拡大は断念せざるを得なくなったが、1世紀の末ごろからは名君が続き(五賢帝の時代)、117年には最大版図を実現した。その際の領土は西欧、イタリア半島、バルカン半島、アナトリア半島、シリア・パレスチナ、そして北アフリカにおける地中海沿岸の全域に至る。

しかし絶頂とは、すなわち衰退の始まりである。

2世紀末以降、ローマ帝国は内乱、暗君、財政、外敵、敗戦など様々な要因に苦しめられ、その国力を大幅に低下させた。260年にもなると、帝国内部ではガリア帝国とパルミラ王国が独立し、領土の大半を事実上喪失する。274年になって、ようやくこれら失地を回復するが、外敵は健在であった。中でも、現イラン・イラクあたりに栄えていたパルティアの後継ササン朝ペルシアは脅威であり、必然的にローマ帝国は重点を東方へと移すことになる。

それゆえ東方からの影響が強まり、285年には独裁制である専制君主制へと移行した。また広大過ぎる国土と多方面からくる様々な外的に瞬時に対応するべく、複数の皇帝が帝国の防衛を担わざるをえない状況へと追い込まれていく(テトラルキア)。この時点でローマ市は首府ではなくなり、各皇帝が軍と共に構える拠点都市が、それぞれ首府とされた。

324年にはコンスタンティヌス帝により、再び一人の皇帝による帝国支配の時代となり、またキリスト教に対しては従来の迫害路線から一転、帝国の支配機構として受け入れ利用していった。くわえて、東方の重要性から都はバルカン半島の東端・コンスタンティノポリスへと遷っていた(330年)。

しかし、やはり広過ぎる帝国の統治と防衛は、単独皇帝だけでは不可能であった。それ故、再び複数の皇帝が出現、最終的には395年にて東西に二分された。以後、東西の帝国はひとつの「ローマ帝国」として苦境に耐えるが、5世紀に入ると異民族を制御できず、西ローマ帝国が滅亡。残る東ローマ帝国は6世紀に大ローマ帝国を一時再現するが、7世紀を境にシリアからエジプトの東方を失い、ギリシア化していき、じわじわと衰退していった。

東ローマ帝国の主要な国土はバルカン半島の東部とアナトリア半島に限られていき、またイタリア南部や地中海の島々を除き、大半の旧西ローマ帝国領域を喪失。800年にはフランク王国が西ローマ帝国を僭称したため「ローマ」としての権威を西欧にて失ってしまう。

9世紀後半~11世紀半ばには、国力を回復させ地中海最大の強国に返り咲き、東欧および東地中海において、政治的にも文化的にも比類なき覇権国として君臨した。また周辺諸国や特に現在のウクライナやロシアに当たる国々を文化的傘下に加えるなど、大国としての存在感を堂々と放っていた。

が、1071年、ついに最後のイタリアにおける領地を失い、12世紀に奪還を試みるも頓挫したばかりか、多くの西欧諸国を敵に回してしまう。1202年になると元は属国であったはずのローマ教皇庁やヴェネツィア共和国らによって、第四回十字軍が起こされ、その2年後にコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国は実質滅亡した。

その後1261年に亡命政権によって帝国は首都コンスタンティノポリスを奪還し一度だけ復権するが、売国奴とも言うべき暗愚な皇帝らの内紛と諸外国の介入を多々招くにいたり、凋落の一途を辿った。西欧諸国に助力を請うも実らず、1453年、元々は東ローマ帝国の辺境にいたテュルク民族を源とするオスマン帝国により、とうとうとどめを刺された。

0 件のコメント:

コメントを投稿