特徴
政治や社会における特徴としては、エトルリア人や古代ギリシアから受け継ぎ、独自に発展させたものや、今日の西洋にまで遺ったものが見受けられる。全体的にヘレニズム(ギリシア文明圏)寄りで、エトルリア人から影響を受けた建築技術にさえギリシア的色彩を確認できる。そのほか、政治や宗教、そして文化もまた古代ギリシアからの影響が強いみたいだ。ところどころが、後の西洋の母体となっている。
キリスト教の受容と発展
領土や軍事面においても、古代地中海の諸国家と共通点が多い。ローマ帝国の場合は、それらを遥かに超えている点が大きいといえよう。こちらも後の西洋へ、おもに歴史的に強く影響している部分がある。
※共和制から元首政にかけて、ローマでは執政官(コンスル)などの官職が設けられたが、これらの多くは軍務との兼ね合いであり、元老院貴族もまた同様だった。つまり古代ローマでは、統治の力以前に軍事上の栄誉が重要視されたのである。
そしてその傾向は、執政官の究極系である「皇帝(インペラトル)」にも強く表れている。ローマ皇帝(後述)には男性の健全性が求められたが、その由来が執政官がもつ「軍の最高司令官」としての役割だったのである。元首政が崩壊し、専制君主制が始まりつつあった軍人皇帝の時代においても、皇帝の「軍の最高司令官」としての像は鮮烈に表れていた。
ローマ皇帝の権限
そのローマ皇帝についてだが、これは紀元前27年に、オクタウィアヌスが「アウグストゥス」の尊称を元老院から贈られたことにより誕生したとされる。
といっても元首政の冒頭で後述するように、オクタウィアヌス本人は「ローマ皇帝」ではなく「市民の中の第一人者(プリンケプス)」と自称するにとどまった。つまり当時、ローマ皇帝という役職は存在しなかったのである。よくオクタウィアヌスからのローマの元首は「ローマ皇帝」と呼称されるが、これは共和政期から続く様々な要職を独占し、事実上国のトップになったから「ローマ皇帝」と呼ばれているだけのことである。だからこそ(元首政期の)ローマ皇帝は、共和制の役職を一手に引き受けた、合法的な半独裁者という位置にある。
ローマ市民は、エトルリア人による王政を打倒した頃(前509年)より、自分達が勝ち取った誇りとして「共和政」を重んじ独裁を嫌ったが、それ故にオクタウィアヌスは「あくまで共和政の一元首」という形でトップに立ったのだと推測できよう。
つまり、社会主義にみられる独裁者よりも、現代の大統領の方が、これに近いのである(ただし元首政に限る)。
権力
絶対権力で何でも好き放題、というわけではなかった。カリグラやネロにコンモドゥス、カラカラやエラガバルスをご覧いただければ分かる通り、元老院、ひいてはローマ帝国を軽んじる皇帝は皆、あんな感じで終わっている。
ローマ皇帝の権限は
・執政官(コンスル)、あるいは執政官に対する命令権保有者
・イタリアの最高政務官
・属州総督に命令でき、皇帝直轄の属州の総督を任命することもできた
・ローマ帝国内の、あらゆる決定や提案に拒否権をもつ
・立法権を持つ平民会の召集が可能
・属州アエギュプトゥス(現エジプト)の私有
・エジプトは穀物供給地であったため、財産的にかなりおいしい
・神聖不可侵
・最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)
が挙げられる。
一番最後の最高神祇官だが、これはローマの神々に対する司祭のような官職である。
皇帝にとって最大の副産物は、穀倉地帯であるエジプトの私有化であろう。エジプトを掌中とすることにより、皇帝は市民から人気を得るため穀物をばら撒くことが可能だった。
元老院
「元老院」とは書くが、年寄りの集まりというわけではない。30歳以上の優秀な成人男性らによる機関である。
共和政ローマにおいて、元老院は執政官の諮問機関であったが、実際は財政や外交上の決定権を有する統治機関であった。また戦地に赴く精神が非常に強いものが多く、この点が後世のローマの後継国家における上院と違う。
内乱の1世紀では、ルキウス・コルネリウス・スッラ(通称スッラ)により実質的な権限を得た上、騎士階級を取り込むことにより、300人の定員が600人にまで膨れ上がった。その後ユリウス・カエサルが独裁官として元老院体制の打破を試みるが、彼の養子オクタウィアヌスは、その遺志を継ぎつつも元老院を存続させた。
帝政期
帝政期に入ると、元老院の立場は皇帝の支配下に含まれた。
元老院は「皇帝に対し承認を行う機関」という性質を強め、それが五賢帝の時代まで続いた。皇帝の即位も皇帝の決議も、元老院の承認がなければ非正統とされた。ローマ史上「正帝」とされる皇帝は皆、この元老院の承認を受けたものばかりである。
また、元老院は属州総督の任命も行い、とくに経済力のある属州を統治した。このため帝政期前半の元老院は、しばしば利潤を得るおいしい立場にいたのである。
軍人皇帝の時代になると、各地で自称皇帝が元老院の承認もなしに僭称したため、元老院の皇帝位に対する影響力は低下した。一方で、内乱のせいで皇帝らが首都ローマに不在になると、かえって首都ローマやアフリカ属州における支配力は向上したとされる。
ディオクレティアヌスが専制君主制(ドミナートゥス)を開始して以来は、元老院の影響力は再び低下した。ディオクレティアヌスが、属州総督の元老院議員の権限をバッサバッサと切っていったからである。コンスタンティヌス1世の時代には定員が2,000名にまで膨れ上がったが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)のローマ奪還事業を機に、都市ローマが荒廃したため、ローマの元老院は7世紀に消滅した。
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