1年皇帝
同年4月、カラカラを暗殺した近衛隊長、マクリヌスが次期皇帝となった。セウェルス朝の特色か、マクリヌスは元老院議員ではなく騎士から正統な皇帝になった初めての人物である。しかし題にもあるように、マクリヌスの治世は短かった。
パルティアに勝てず貢納金を支払い講和したために、軍の信頼を喪失。それを見たセウェルスの妻の妹マエサが、14歳の孫バシアヌスをセウェルス朝再興の証として担ぎ、反乱を起こした。少年バシアヌスは、兵士に人気のあったカラカラの落胤として宣伝されたため、熱狂的な支持を得る。闘争に敗れたマクリヌスは逃亡するが、後に捕らえられ処刑された。
最低最悪の暗君
218年、少年バシアヌスが、エラガバルス(ヘリオガバルス)の渾名とともに即位した。少年とある通り、彼は男である。しかし即位当初から、その問題性は発露していたという。彼の暗君っぷりは、以下の通りである。
・家庭教師の提言「自制心をもって慎重に生きなさい」に対し「殺害」で応じる
・仲間が早くも、ヘリオガバルスの味方についたことを後悔
・愛人(※男)の奴隷を共同皇帝にしようと企てる
・しかも、彼(※男)に自分を「妻」として求婚した
・別の愛人(※男)を執事長に任命
・彼にも、ちゃっかり求婚
・銀貨の銀含有量を下げる
・処女信仰を否定し巫女と再婚
・(男なのに)神の巫女を自称、自らの舞を元老院のお爺様方に見るよう強制する
・徹底した女装癖
・男を漁る為に、酒場に入り浸る
・化粧と金髪の鬘をつけて売春(※相手は男)、これに夢中になる
・宮殿を売春宿に改(悪)築
・性転換を行える医者を募集
というわけで暗殺されました。221年。よくそれまでもったな……
元首政の臨界点
222年、わずか13歳の少年アレクサンデル・セウェルスが即位。
以後、軍との対立を抱えつつも、穏やかな時代がローマ帝国に訪れた。アレクサンデルはいわゆる優等生で、元老院を尊重する穏健な皇帝だった。そんな君主を戴くからこそ、帝国は緩やかな時代を享受できたのかもしれない。実権は母が握っていたが、先代のアレよりは遥かにマシであろう。しかしペルシャ帝国との対決を機に、アレクサンデルにも、そしてローマ帝国にも凋落の兆しが見え始める。
226年当時のペルシャ帝国は、アルダシール王によってパルティアから取って代わった、重装騎兵を主力とする中央集権国家ササン朝であった。その戦力は強力で、時のローマ帝国が相対するには苦戦必至の相手であった。
少年皇帝の苦悩は、そこに限らない。東方ではササン朝が厄介なのだが、西方でも実に鬱陶しい勢力が形成されていた。ゲルマン戦士団である。彼らゲルマン民族は、すでに帝国領内に侵入を繰り返しており、アレクサンデルは貢納金で講和する他なかった。
そこで、軍との決別が決定的となる。アレクサンデルの対外的屈服に不満を抱いた軍は、しだいに強い将軍に指揮されることを望むようになる。それが235年、騎士将校マクシミヌスを推戴した反乱、そして少年皇帝の死に繋がった。
帝政ローマ第4王朝、セウェルス朝が断絶したのである。これは単に一つの王朝が途絶えたという話ではなく、元首政(プリンキパトゥス)の限界と終焉を意味し、軍人皇帝時代、すなわち帝国の内乱期を迎えることをも意味していた。その混乱期こそ、ローマ帝国衰退の直接的な原因となるのである。
軍人皇帝の時代
世は波乱の世紀末!
我こそ真のローマ皇帝、自称皇帝死すべし!
哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世期末期ごろから、財政上での行き詰まりはすでに見え始めていた。「ローマ皇帝」の選出は、共和制期の執政官と違い明確な規定がなかったが、そこにセウェルス朝の断絶が加わることで、内乱の引き金が引かれたのである。
各地では、数多くの皇帝が乱立した。彼らは軍事力によって元老院と対立し、出てきては死に立候補しては退位、の繰り返しを体現した。この間登場した皇帝は、26人といわれる。
この時期には、北方のゲルマン人やササン朝ペルシャ帝国の侵入も目立ち始め、帝国は分裂の危機に陥った。内憂外患の絶体絶命に陥ったこの時代を、後世の我々は「3世紀の危機」と呼ぶ。
六皇帝の年 (A.D.235 - A.D. 244)
235年、マクシミヌス・トラクスは、セウェルス朝最後の皇帝アレクサンデルを暗殺し、この内乱期で最初の軍人皇帝となった。初の兵卒上がりの皇帝である。
マクシミヌスのもとローマ帝国はマルコマンニ人に戦勝し、サルマティア人やカルピ人とも対決する。しかし、マクシミヌスが1度も首都ローマに行くことがなかったために、元老院、そして戦費として穀物を供給する大土地所有者は、マクシミヌスに反発するようになる。
238年、大土地所有者らが反乱を起こす。反乱軍は、アフリカ総督マルクス・アントニヌス・ゴルディアヌスと、その息子を皇帝として推戴、首都の元老院もこれを支持。ところがアフリカ正規軍は、軍人皇帝マクシミヌスに忠実であったことから、反乱のゴルディアヌス父子を逆に死に追いやった。皇帝マクシミヌスは、首の皮一枚が繋がったわけである。
激化する内乱
元老院のプライドは、軍事皇帝への敗北を許さなかった。ただちに2人の元老院議員、プピエヌスとバルディヌスを皇帝とする。そして、亡きゴルディアヌスの孫に「カエサル」と名付け、後継者まで用意したのだった。
軍人皇帝マクシミヌスは、この新皇帝らを認めるわけにもいかずイタリアへと南下を開始。しかしアクィレイアの要塞を陥落させることができず、包囲戦を続行するも補給の不足からジリ貧となり、兵士たちは飢えに苦しんだ。そしてあろうことか、空腹の兵士たちは自ら選んだはずの軍人皇帝マクシミヌスを裏切り、殺害したのだった。
これで、先述の元老院に選ばれたプピエヌスとバルディヌスが、名実ともに皇帝となった。元老院が軍に勝利したかと思われたが、しかしここでバルディヌスが求心力を失ったことを皮切りに、新帝の2人は近衛隊に殺害されてしまう。元老院は軍に対し妥協するしかなく、次の皇帝を13歳のゴルディアヌス3世とした。
ところが241年、ティメシテウスが近衛隊長になると、ゴルディアヌス3世に代わり実権を掌握し始める。実質帝国を支配するティメシテウスだったが、ペルシャ軍を撃退し遠征を続けていくうちに、戦死したのだった。
再び実権を得たゴルディアヌス3世はペルシャ遠征で快進撃を成し遂げ、首都クテシフォンにまで迫るも、244年、遠征の途中で戦死した。これにて6人の正帝の時代、「六皇帝の年」が終焉を迎えた。
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