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フラウィウス朝 (A.D. 70 - A.D. 96)
この王朝は、カエサルあるいはアウグストゥスに始まるユリウス・クラウディウス朝との血縁関係がなく、要するに「ユリウス・カエサル家」の縁者によるものではなかった。しかし、初代皇帝のフラウィウス・ウェスパシアヌスが善政をしいたことから、民衆の支持は厚かったようである。
諸改革
いわゆるコロッセオ。初代皇帝ウェスパシアヌスは簡素な生活をしつつも、新税を導入して財政再建に尽力した。都市再建にも腐心し、内戦で焼失したカピトリウムの神殿や民衆のための巨大闘技場を再建、新築していった。75年から工事され始めたこの巨大円形闘技場こそが、かの有名な「コロッセウム(コロッセオ)」である。正式名称は「フラウィウス闘技場」とあり、このことからもフラウィウス朝の都市再建がうかがえよう。
ウェスパシアヌスの改革は、属州ヒスパニアにも見られた。彼はヒスパニアの住民にラテン権を与え、さらにイタリア式の自治制度を導入した。このウェスパシアヌスの英断は、後に有能な元老院議員たちを生むという形で実を結ぶ。
ウェスパシアヌスは、後に元老院決議により神格化された。彼の最後の言葉は
「皇帝は立って死なねばならぬ」
鎮圧と災厄
79年、初代皇帝ウェスパシアヌスが死去すると、その長氏ティトゥスが後を継ぎ、第2代皇帝として即位した。70年の頃から、ユダヤ反乱の再鎮圧に加わっていたティトゥスは、すでにエルサレムを陥落させるという武勲を有していた。
彼が即位して間もない79年8月、ウェスウィウス山が大噴火を起こし、ポンペイやヘルクラネウムの町が焼失した。特に、ポンペイのそれは有名である。すかさずティトゥスは、被災地の救援にあたった。
しかし81年、ティトゥスは皇帝となってから、これといった功績を残すことなくこの世を去った。民衆は、有能な彼の死を嘆いたという。ティトゥスの威光は、今もなお輝く「ローマの凱旋門」として後世に形を残した。
ちなみに父から子へと帝位を継承させたのは、ウェスパシアヌスと彼が初めてである。
対ゲルマニア
3代目の皇帝には、ティトゥスの弟であるドミティアヌスが就いた。
この辺りのローマ帝国は、対外的に見て攻勢に転じていた。83年にはカレドニア人とカッティ人に勝利し、とくに後者は皇帝自らが軍を指揮していた。85年にはダキア人が猛攻し苦戦、しかし88年のタパエの戦いの戦勝により講和に持ち込んだ。89年には、またもカッティ人に対し勝利し、この際もドミティアヌス自身が軍を率いていた。
しかしローマ帝国といえど、何事もうまくいくわけではない。89年は、またゲルマニア総督アントニウス・サトゥルニヌスが皇帝として担がれ、反乱が勃発した。ゲルマニアといえば現在のドイツ、すなわちローマの北であったから、ドミティアヌスはこれを鎮圧すべく、北上する必要があった。サトゥルニヌスは、お膝元のゲルマニアを活用し、ゲルマン諸部族を従えドミティアヌスと連戦した。反乱の代表者サトゥルニヌスは元老院貴族であったが、それ故にドミティアヌスは元老院と溝を深めるようになったのだった。
96年、その元老院との対立が災いし、ドミティアヌスは暗殺された。これにより、ローマ帝国に再び安定期をもたらしたフラウィウス朝が断絶するが、奇しくも、その直後に空前の最盛期が帝国に訪れる。
ネルウァ・アントニヌス朝 (A.D. 96 - A.D. 192)
元老院が政敵であるドミティアヌス帝を打倒すると、マルクス・コッケイウス・ネルウァが彼らによって次期皇帝に指名され、即位した。ネルウァは元老院貴族の一人であり、軍務経歴のない老いた法学者であったが、それ故に元老院を第一に尊重する姿勢であった。
最盛期 - 偉大なる五賢帝の時代
96年から180年を一般に五賢帝時代と呼ぶ。これはローマ帝国が最も輝いた時代であり、地中海を完璧に、欧州をほぼ完全に支配(ないし勢力圏下)した時期である。
五人の皇帝は、以下の通り。
ネルウァ
(マルクス・コッケイウス・ネルウァ・カエサル・アウグストゥス、在位:96年 - 98年)
トラヤヌス
(マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス、在位:98年 - 117年)
ハドリアヌス
(プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス、在位:117年 - 138年)
アントニヌス=ピウス
(ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス、在位:138年 - 161年)
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
(カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス、在位:161年 - 180年)
最初のネルウァ帝は、帝国の全盛期を開始させた重要人物。しかし、それ以外はあんまり取り上げられない。先のネロ帝と友人関係にあったという。また、先代の皇帝とはゲイ友。
トラヤヌス帝は「至高の皇帝」と称され、帝国領の最大を実現した。その領域は地中海、北アフリカはもちろん、西欧・中欧・シリアにも達し、現イギリスであるブリタニアにも及んだ。ローマ風の都市が各地に建設され、文化もまた各地に波及した。現在のロンドン・パリ・ウィーンなどは、彼の業績を無視できない。
ハドリアヌスの長城ハドリアヌス帝は、ブリタニアに「ハドリアヌスの長城」を立てた。彼もまた異彩を放つ存在で、具体的には男色で詩に長けており、ギリシャ文化への傾斜も強かった。ローマ全体の統合を果たし、防衛面についても尽力した。娘さんが大好き。
アントニヌス=ピウスは軍事上の功績はこれといって無かったものの、政治上においては辣腕を誇り、主に財政での活躍が見られた。実は、一番名前が長い人。
最後のマルクス・アウレ(ryは「哲人皇帝」と称され、『自省録』を著した。彼の時代には帝国にも陰りが生じていたためか、その著書もどこか暗く重いものがある。名前の長さからか、高校生などに悪い意味でよくネタにされる。
斜陽の前兆
180年、マルクス・アウレリウスが亡くなると、その実子コンモドゥスが帝位を継ぐ。ウェスパシアヌス帝がティトゥス帝を後継者して以来、実に約1世紀ぶりの「父から子」の継承であった。
コンモドゥスはアントニヌス=ピウスを祖父にもち、哲人皇帝マルクス・アウレリウスを父にもつ上、トラヤヌスやハドリアヌスとの血縁上の繋がりをも有していた。ゆえにコンモドゥスは、軍隊からの厚い忠誠を受けることとなる。
亡き父マルクス・アウレリウスの意思を継ぐコンモドゥスのもと、ローマ帝国はマルコマンニ族との闘争に力を注ぐ。帝国は、制していった異民族を講和条約のもと統合していき、比較的寛容な方法で防衛と拡大が促された。
一方、内政では、腐敗する寸前の軍を縮小させ、後のセウェルス朝で起こる改革の土台を作られていた。
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