2020/08/22

荘子(1)

荘子(そうし、Zhuang Zhou、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが中国文学、中国哲学関係者の習慣となっている。史記には、「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている。

荘子が生まれた蒙の領地である宋は、当時弱小国の一つであった。荘子が生きていた時代に、宋王剔成は弟の偃に追われ亡命し、偃がそのまま王位に就いた。しかし偃は暴逆により前286年、斉、楚、魏の連合軍により殺され、宋は分割され滅亡してしまう。

『史記』のある挿話には、楚の威王が荘子の評価を聞き宰相に迎えようとし、礼物を持って荘子を訪ねた。すると荘子は

「千金は大したもの、宰相は最高の地位でしょう。しかし郊祭の生贄になる年をご覧なさい。長年、美食で養われ、錦繍で飾られ、最後には祭壇にひかれていく。その時いっそ野放しの豚になりたいと思うも、手遅れなのです。わたしは自由を縛られるより、どぶの中で遊んでいたい。気の向くままに暮らしたいのです。」

といい断った。

人物
荘子については複数のテキストや説が存在するが、それらの信頼性には様々な疑義があり、また相互に矛盾する記述もあるため詳らかでない。たとえば『史記』巻63には荘子の伝があるが、これは司馬遷が当時の寓言を多く含む『荘子』から引いたものと推定されており、池田知久は「司馬遷が思想家たちの作ったフィクションを材料にして書いた荘子の伝記」と述べている。その他、『呂氏春秋』や『荀子』などにも記述が見られるが、いずれも『荘子』の影響を強く受けている。

思想
荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ、無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。

軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や、意義に対して批判的である。

こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、従来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想を神秘主義思想の応用展開として読むことになる。他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。

荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。

「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。

この説話の中に、無為自然一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。

近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれている。

著書『荘子』
著書とされる『荘子』(そうじ)は、西晋の郭象が刪訂した内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の構成のものが、現在に伝わっている。

内篇は逍遙遊、斉物論、養生主、人間世、徳充符、大宗師、応帝王

外篇は駢拇、馬蹄、胠篋、在宥、天地、天道、天運、刻意、繕性、秋水、至楽、逹生、山木、田子方、知北遊

雑篇は、庚桑楚、徐無鬼、則陽、外物、寓言、譲王、盗跖、説剣、漁父、列禦寇、天下

この現行『荘子』は、晋の郭象が注釈を加えた際に刪定したものだが、史記には「荘子十余万字」とあり、現行より多いことがわかる。また漢書芸文志には「五十二篇」あったと記録されている。しかし郭象の刪定したもの以外は、現在見ることはできない。これらのうち、内篇のみが荘子本人の手による原本に近いものものされ、外篇・雑篇は弟子や後世の手によるものと見られている。


荘子「内篇」は、逆説的なレトリックが随所に満ち満ちており、多くの寓話が述べられ、読者を夢幻の世界へと引きずり込む。

孔子と儒教
荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。白川静は、孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。

道教
老荘思想が道教に取り入られ、老荘が道教の神として崇められる様になっているが、老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説[?]もある。

後世への影響
老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐代は、皇帝玄宗により神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになった。『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は、荘子を指している。
出典 Wikipedia

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