2020/08/15

暴君の再来 ~ ローマ帝国(9)


このようにコンモドゥスの治世は、特別狂おしいわけではなかったが、姉の一人ルキッラがその野心のゆえにコンモドゥスの暗殺を試みるようになると、ローマ帝国の軌道は一変した。姉による暗殺未遂により、コンモドゥスは友人であり執事長でもあるクレアンデルを重用、帝国は汚職と賄賂で腐敗する。

190年、首都ローマにて穀物供給が停滞し、暴動が勃発。後に民衆の鬱憤はコンモドゥスから腐敗したクレアンデルに移ると、コンモドゥスは手の平を返し、クレアンデルが処刑された。以後、ローマ帝国ではクレアンデルに関係するものの多くが処刑され、また無数の要人、特にコンモドゥスを咎めるものが粛清されていった。

コンモドゥスは、時にギリシャ神話の英雄ヘラクレスを自称した(その際の名は、ルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘラクレス・ロムルス・エクスペラトリス・アマゾニウス・インウィクトクス・フェリクス・ピウス)。 趣味と娯楽に溺れに溺れ、自らの剣術に陶酔し、あろうことか剣闘士として闘技場に出場。ヘラクレスを模すべく、狼の毛皮を纏って棍棒を振り回したという。

191年には、首都ローマが落雷による大火災に苛まれたが、その際コンモドゥスは帝国の再建を計画し「新たなるロムルス(ローマを建国した伝説上の人物)」と自称。さらに再建予定地のほか、各月の呼び名、軍隊の名称、元老院、全ローマ人の家名は、コンモドゥスに由来する名称へ改めるよう強要された。

これが最後の引き金となったのか、192年、コンモドゥス帝が剣闘士に暗殺された。剣闘士皇帝が剣闘士にやられるとは当然なのかもしれないし、皮肉なのかもしれない。しかし何にせよ、帝国史の絶頂期を体現したネルウァ・アントニヌス朝が、これを機に断絶したのである。

五皇帝の年 (A.D. 192 - A.D. 197)
外敵の脅威が和らぐ中、常備軍と政治力の肥大化は深刻な問題として、ローマ帝国に近づいていた。そんな折、ネルウァ・アントニヌス朝の第6代皇帝コンモドゥスが死したことで、同王朝の断絶が避けられぬようになった。第4の王朝を打ち立てるべく、諸侯が軍事力を背景に相争うようになり、ローマ帝国は再び内乱期に陥った。

帝位は巡る
1931月、騎士階級から昇格した将軍ペルティナクスが次期皇帝となる。しかし彼は立場を安全なものとすべく軍縮を行ったため、近衛隊と盟友ラエトゥスの不評を買い、結果、反乱が勃発し、即位して83日目に亡くなった。

次期皇帝に、名門貴族のディディウスが選ばれる。ペルティナクス亡き後、近衛隊は「給与を保証するものを皇帝としよう」と考えていたため、ディディウスはこれを利用し即位したのである。

ところが、この近衛隊による物理的な即位は、元老院と民衆のよしとするところではなく、すぐさま彼らの離反を誘発した。この不安定な政局に統治の稚拙さが加わり、結果としてニゲル、アルビヌス、セプティミウス・セウェルスら将軍の反乱を呼ぶに至る。ディディウス本人もさることながら、彼の軍隊もまた腐敗していたため、将軍セプティミウス・セウェルスの軍により徹底的に叩きのめされ、最終的に近衛隊の裏切りにより没する。193年、元老院は次期皇帝をセプティミウス・セウェルスとした。

帝権死守
すると「ニゲル(黒)」と渾名される、シリア総督が皇帝を僭称する。先のディディウスが没した時、元老院は彼を追いやったセプティミウス・セウェルスを新皇帝とした(193年)が、このニゲルは依然として「我こそが皇帝である」と主張したのである。

もちろん、正統な皇帝位に就いたセプティミウス・セウェルスからすれば、皇帝と僭称するニゲルは逆賊に他ならない。というわけでセプティミウス・セウェルスは同僚のアルビヌスと結託し、193年、ニゲルを攻撃。一進一退の攻防が続いたが、194年、ニゲルは徐々に追いやられていくに至り、戦死した。

こうしてセウェルスは帝権を固持したが、まだ問題は残されていた。先ほどセウェルスに味方した同僚のアルビヌスである。彼はセウェルスの味方となる代償に、副帝の地位を得ていた。

結局、アルビヌスの野心はそこで収まらず、正帝セウェルスが権勢を振るうようになると、これに危機感を覚える。ついに196年、副帝アルビヌスは正帝の位を請求した。彼は軍をガリアへ進めたが、ルグドゥヌムの戦いでセウェルス軍に敗れ自決した。

これにて五皇帝の年、ローマ内乱が決着。セプティミウス・セウェルスは、見事に正帝の座を護りきったのである。

セウェルス朝 (A.D. 193 - A.D. 235)
初代皇帝のセウェルスは長男をアントニヌス家の養子とし、帝位を正統化した。形式上はネルウァ・アントニヌス朝が続いている、と言外に主張していたのである。

軍拡
唯一無二の正統な皇帝となったセプティミウス・セウェルスは、対外的に攻勢に出、パルティアの深くへ侵攻した。また北アフリカ、ブリタニアにおける帝国領も拡大させた。

セウェルスは、軍事力の拡大に腐心した。腐敗した近衛隊を解体し、ドナウ軍から選抜して新たな近衛隊を編成。首都ローマ付近に1個軍団を増設し、皇帝の常備軍を配置した上、さらに2個の軍団を増設した。

それら3個軍団の指揮と、拡大した北アフリカとブリタニアの指揮は騎士将校に任せる。これは元老院ではなく、騎士階級が軍政を握り始める、明確なローマ帝国の変化だった。

暴虐帝登場
211年にセウェルスがこの世を去ると、息子のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルとプブリウス・セプティミウス・ゲタの兄弟2人が皇帝になった。

ところが同年、セウェルスの息子2人は首都ローマに着いてからというものの、非常な仲違いを起こした。マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル、通称(渾名)カラカラは、弟ゲタと統治方法やその価値観で軋轢を生んだのである。二人はローマ帝国を分割統治しようかと画策したが、母の反対によりそれは実行されなかった。

母はまた和解させようと二人を呼ぶが、なんとこの時カラカラは弟ゲタを殺害する。信じられないことに、カラカラは和解の場で弟を殺したのである。ゲタにとり、それは不意打ちに他ならなかった。しかも、この時カラカラは「弟から身を守った」と正当防衛を主張したのである。どう見てもカラカラから仕掛けたのに、である。

それを皮切りに、カラカラの粛清が始まった。彼のプライドはゲタを殺すだけでは納得せず、ゲタを記録抹殺刑(ダムナティオ・メモリアエ)に処し、あらゆる像や貨幣からゲタの姿を削り取らせた。さらに、ゲタと友好のあった者たちを徹底的に抹殺してさえいる。

では統治はどうであったかといえば、それもまさしく暴政であった。銀貨の銀含有量を下げ、結果としてインフレーションを誘発した。また「アントニヌス勅令」で知られる全属州民へのローマ市民権の付与により、属州税を失う。この勅令の結果、「国庫収益を期待したのに、むしろ臨時税収を頻発させる」ほどに後世のローマ帝国は苦しむこととなる。ただし愚帝というわけではなく、軍からは絶大の信頼を得ていた。

213年からは、帝国の東方で略奪と虐殺を繰り返した。特にエジプトのアレクサンドリアにおけるそれは凄まじく、「油断して集まった2万人を殺す。飽き足りないからまだまだ殺す」というものだった。狂気の沙汰。

暴君の例に漏れず、彼もまた暗殺された。217年のことである。これにて1度、セウェルス朝が断絶した。

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