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孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222~280)。首都は建業、現在の南京です。この国も、南方土着豪族の勢力を結集してつくられました。
劉備が現在の四川省を中心に建てたのが蜀(221~263)。首都は成都。この人は有名な『三国志演義』という物語の主人公。関羽、張飛などの豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍して、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主になる。物語も現実も、こういう筋書きは同じです。ですが、彼らの歴史上の実像よりも、物語での活躍の方が有名になってしまって虚像が一人歩きしている感じだね。中国でも古くから講談や演劇の題材になり、今でもテレビドラマや映画になっている。
特に劉備の武将関羽は人気があって、神様としてまつられています。関帝廟というのがそれで、蓄財の神様になっている。横浜の中華街にもあります。
軍師の諸葛亮は、物語の中ではもの凄い知謀の持ち主で、彼の立てた作戦や政策はピタリと的をついて、劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣にするのに、こんなエピソードがある。
「三顧(さんこ)の礼」というのです。
劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように、一国一城の主として自分の地盤をつくれない。あちこちの地方の太守の居候(いそうろう)、客将暮らしをしているのです。そんな時、諸葛亮という知謀の士がいると聞く。彼を部下にできれば、大きく発展することができるだろうというんだね。諸葛亮は田舎にこもって、誰にも仕えていない。
そこで劉備は、諸葛亮の隠遁場所に訪ねていく。ところが、諸葛亮は留守。劉備は諦めきれないので、もう一度自ら出向いていくんですが、またもや留守。普通ならこれであきらめるのですが、どうしても自分の参謀に迎えたいので、もう一回訪ねていきます。これが三回目。そうしたら、今度はいた。ところが諸葛亮は、お昼寝の最中だった。劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないといって、彼が目覚めるまでじっと待っているの。
やがて、諸葛亮目が覚める。三度も自ら訪ねて来てくれて、しかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたというので、すっかり感激して劉備に仕えることになった。
これが三顧の礼。三回訪ねて、隠遁している先生を引っぱり出してきたというのだ。
これは物語の山場のひとつなのですが、実際にもあった話らしい。
しかし、考えてみると変な話で、劉備は一度も会ったこともない諸葛亮をどうしてそんなに家来にしたかったのか。まだまだ勢力は小さいとはいえ、劉備はすでに有名人で、将来は大きな野望をもっているわけでしょ。軽々しく自分から無位無冠の、しかも年下の人間を腰を低くして迎えるというのは、自分の値打ちを下げるような行為なのです。特にメンツを重んじる中国的な発想ではね。
この三顧の礼の背景には、こんな事情があったんです。
劉備とは、一体何者か。彼は漢の皇帝家の血筋を引いているといっていますが、こんなのはだいたいハッタリで、なんの身分もない庶民出身です。田舎では、筵(むしろ)売りをやっていたという。黄巾の乱で、チャンスをモノにして成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。
後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのは、みな豪族だったでしょ。曹操も豪族。孫権も豪族。でも劉備はそうじゃない。だから、どうしても彼らの仲間入りができないのです。
諸葛亮は一体、何者だったのか。かれは大豪族の一員なんですよ。諸葛家というのは、中国全土に知られた大豪族だった。諸葛亮にはお兄さんがいるんですが、兄さんは呉の孫権に仕えているのです。大臣にまでなっている。又従兄弟(またいとこ)がいて、こっちは曹操に仕えている。つまり、魏や呉にとっても、諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族。諸葛亮は、そういう豪族の一員なんです。
つまり、劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「ああ、あの諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのか。ならば、劉備も豪族仲間の味方と考えてやろう」と全国の豪族たちが思ってくれる。豪族勢力に認知される、ということになるのです。例えていえば、私が銀行に行って一億円貸してくれといっても絶対ダメだけれど、ソニーかトヨタの社長さんが保証人になってくれれば、すぐに借りられるようなモノです。
実際、諸葛亮を迎えてからの劉備は、トントン拍子で蜀の国を建てます。蜀の地方の豪族たちが、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には、諸葛亮の存在は大きかったと思います。
これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから、中国が分裂したのでした。
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