アングロサクソン七王国(英語: Heptarchy、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が、同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。
「ヘプターキー」という言葉は、古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ(ἑπτά)」と「国」の「アーキー(ἀρχή)」を足した造語である。最初にこの語を記したのは、12世紀の史家ヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀には用語として定着した。
これらの王国が覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、エランダンの戦い)であると考えられている。実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人の小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。
7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。この王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。
七王国
主なアングロサクソン王国
上記の7つの大国として、以下の7つの国が挙げられる。
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ノーサンブリア王国: イングランド北東部を支配したアングル人の王国
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マーシア王国: イングランド中央部を支配した。7世紀ごろ勢力を誇ったアングル人の王国
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イースト・アングリア王国: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配したアングル人の王国
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エセックス王国: イングランド南東部を支配したサクソン人の王国、現在のエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス周辺を支配した
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ウェセックス王国: イングランド南西部を支配したサクソン人の王国、最終的にドーセット、ハンプシャー周辺を中心に王国として形成されたが、前期の支配区域は最も北部であった
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ケント王国: イングランド南東部、現在のケント周辺に形成されたジュート人の王国。最も早い時期にローマ系キリスト教を受け入れた地域である
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サセックス王国: イングランド南部を支配したサクソン人の王国、現在のサリー、イースト・サセックス、ウェスト・サセックス周辺を支配した
歴史
アングロサクソン人の登場は5世紀くらいだと伝えられているが、実際のところは分かってはいない。伝承では南サクソンのエール、西サクソンのチェルディッチ、キュンリッチ父子、または史書『ブリトン人の歴史』に登場するヴォーティガンの宿敵ジュート人(ケント王国)の長ヘンギストなどが挙げられるが、どれも伝説的な人物像であり、ブリテン島に上陸した年月も考古学から出た年代の整合性が合わないでいる。しかし、それぞれが5世紀中頃から覇権を争ったものとは考えられている。
彼等サクソン人は西進を続けるものの、ブリトン人の反撃を受け「バドン山の戦い」と呼ばれる激戦で大敗北、数世代に渡って膠着状態となった。この戦いはどこでなされたかは分かってはいないが、劣勢のブリトン人を指導したと伝えられる者がアーサー王のモデルとなったと考えられている。とくにサクソン人は壊滅的な打撃を受け、再び進攻が始まったのは西サクソンのチェウリンが王になった頃からだと言われている。
王国が形成されつつある当初は、アングル人の建てたノーサンブリアとマーシアが隆盛を誇り、ノーサンブリア王のエドウィン、オスワルド、オスウィ、そしてマーシア王ペンダなど非常に強力な王が存在した。彼らはしばしばブレトワルダと呼ばれ、イングランドの覇を競ったと伝えられるが、この覇王の称号が実際使われたものなのか、それとも後世の年代記者の創作の賜物かは分かってはいない。また、この時代ローマ系キリスト教が再上陸し、ケント王エゼルベルトを最初にイングランド各地に広まった。同時にウェールズ、コーンウォールのブリトン人が保持してきたケルト系キリスト教は劣勢となった。
ウェセックスが台頭し始めたのは、キャドワラ王となってからである。数世代前に父祖の地をマーシアに獲られたウェセックスは東に進撃、サセックス、ケントを侵略した。同時に、この時代から大陸よりノルマン人の一派であるデーン人がブリテン島に定住し始め、東沿岸部のノーサンブリア、イースト・アングリアは、この侵略の前に守勢になる。その中で、ウェセックスはデーン人に対抗するアングロサクソン人の求心力を得て、825年のエランダンの戦いでエグバートの率いるウェセックスがマーシアに勝利してイングランドを統一した。
同じころ、デーン人の侵入が活発化しておりイングランドを侵略、ノーサンブリア、イースト・アングリアが滅亡する中で、ウェセックスは唯一生き残ったアングロサクソン王国となる。878年5月、劣勢の中でアルフレッド大王がエサンドゥーンの戦い(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン付近)でデーン人に勝利、同年末にウェドモーアの和議が締結され、デーン人の支配地域をデーンロウとして認め一種の均衡状態による和平を築いた。
この時代、彼の元で古英語文献の集大成が行われ、ウェセックス王国はアングロサクソン文化の伝統を築き上げる。このことがデーン人の侵略という困難の中でかえってアングロサクソン人の求心力を呼び、後に全てのアングロサクソン諸国を統一し、スコットランド王国の恭順を受けたウェセックスは、後のイングランド王国の母体となった。
その後デーン人、ノルマン人とイングランドの支配階級が変わることになっていくが、デーン人は支配階級として政治に参加する者はアングロサクソンの出自であっても「デーン人」と呼ぶのを慣わしとしており、また後世11世紀に数多くのノルマンディー公国出身のノルマン人貴族が支配者として入ってきた際に、イングランドにある数多くの階級制度に驚いていることから、七王国時代の社会制度はこの時まで温存されていたものと思われる。
出典 Wikipedia
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