2021/12/18

イザナギとイザナミ ~ 古事記と日本書紀の神々(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

別天つ神(ことあまつかみ)

 これらの三柱の神々は「独り身」で「姿を隠した」と言われてきますが、これは「人間的姿」としては現れないということで「これ以下登場しない」という意味ではないことは「たかみむすび」の神や「かみむすび」の神の活躍をみれば明らかです。ところで、以下神々の名前は、すでに一般に漢字で知られる神々は別として、できるだけ「ひらがな」で表記することにします。

 

 さらにこれらの神々に続いて「うましあしかびひこじ」の神と「あめのとこたち」の神が生じたとされます。前者は、この大地が「水に浮かんだ油」のように「形態」を持たないところに現れた神で、「芦の芽」のように「形」を出した神ということでしょう。

 

 後者は「天の常立ち」と漢字で表わされるように「天を確立」したわけで「」のようなイメージでしよう。相当に理屈っぽいです。また、これらの神々も「独り身」で姿を隠したとされ、以上の五柱の神々を『古事記』では「別天つ神(ことあまつかみ)」と呼んでいます。

 

神世(かみよ)七代

 さらに神々の生成は続き、次に「国の常立ち(くにのとこたち)」と「豊雲野」の神が現れます。前者は当然「天の常立ち」に続いているわけで「国の柱」ということになり「国土形成の基」を建てているわけでしよう。

 

 豊雲野はいろいろ解釈されているのですが、どうもピンとくる解釈がありません。雲の下なる野原というイメージなのでしようか。「国常立ち」が「縦軸的柱」なら、こちらは「横的広がり」のようです。この神々も「独り身」でやはり「姿を隠して」います。

 

 この神々に続いては「ういじに」「すいじに」のペアーの神が現れます。そしてさらにペアーの神々が数代生じて、いよいよ「伊耶那岐(いざなぎ)」「伊耶那美(いざなみ)」の神々が生じてくることになるのでした。

 

ペアーの神々は五組で十柱になりますが、これらはやはりペアーで数えるとされ、そして先の独り身の二柱を併せて「神世七代」呼ぶ、と言われてきます。こんな風に「三柱の神々」、「別天つ神五代」、「神世七代」などと呼ばれて「三・五・七」とされるところなどは中国の影響をもろに表している、と言われています。

 

国生みの物語

 さて、「いざなぎ、いざなみ」のペアーは「天つ神」たちに「この漂っている国を直して固めなさい」と命じられます。そこで二人は、天の浮き橋に降り立って、両刃の刀のようなもので海をかき回して引き上げますと、その刀の先からぽたりと落ちた「塩」が固まって「島」になります。二人の神はここに降りて来まして、いよいよ結婚です。

 

そして非常に有名な語り合いをするわけで、それが

 

「あなたの体はどのように成っていますか」

 

「私の体は出来上がってはいるのですが、一カ所合わさっていません」

 

「私の方は出来過ぎて余ってしまっているところが一カ所ある。そこでですが、その余ったところをあなたの合わさっていないところに刺し入れて、そうして国を生んだらと思うのですがいかがでしょう」

 

というものでした。

 

 この場面で、この『古事記』の神というのがまったく「人間並」であるという印象がもたれてしまうのですが、その印象はまさに当たっているのであって、以下の物語も全く生々しい人間の物語となっていきます。この『古事記』の神というのは、全然「超人間的」とならないのです。

 

 ともあれ話を続けますと、この「国生み」の物語は以下、「女が先にものを言うとよくない」という話になり「男性上位」の思想を表明し、さらに日本国土の形成順序の話となって、淡路島から四国、隠岐島、そして九州、さらに長崎の壱岐の島と対馬、そして佐渡に飛んでやっと本州を生み出します。当時の朝廷の日本国土観が伺えて興味深いですが「西日本」が中心であることがよくみえます。この後も島を生んで行くのですが、現在の県名で言えば、岡山県にある半島、香川県の島、山口県の島、大分県の島、長崎県の島々となってしまいます。

 

なお、この場合「いざなぎ」たちに代表されている一番若い神が、天なる神に命じられて地上に降臨するというパターンは「天孫降臨」の物語にもあらわれてくる重要な形式であって、「祭り」というのはこうした「神招来」の儀式かもしれないとも考えられています。

 

いざなみ、火の神を生み、大やけどをする

 一方、「いざなぎ、いざなみ」の神は国土を生んだ後、「自然物」となる子供作りに励まなければなりませんでした。それは、海やら川やら風や木や山、野原から霧やら谷やら思いつく限りといえるほどで、とてもここに列挙できるような数ではありません。

 

 そして、その最後に「火の神(ひのかぐつち)」を生むのですが、火なんか生んだものですからたまったものではないわけで、「いざなみ」は女性の陰部に大やけどをしてしまい、床につき、苦しみの中にもどしたり大小便を流してしまいます。しかし、もどしたものから「鉱山・鉄の神」たる「かなやまひこ」など、大便からは「粘土の神様」、そして小便からは「水の神」、つぎに「わくむすひ」という神様を生みますが、その子供が食物の神「とようけひめ」といい、大事な神様となります。つまり、「とようけひめ」は食物の神となって、後「天孫降臨」の際「ににぎのみこと」に従い、そして現在「伊勢神宮」の外宮に祭られています。                       

 

殺された「ひのかぐつち」

 ところで、「いざなみ」の神は、それがもとでついに死んでしまいます。「いざなぎ」の神は嘆き悲しんで涙を流し、そこからも「泣きの神様」なんかを生んでいますが、一方、怒りにまかせてなのでしよう、火の神たる「ひのかぐつち」を刀で斬り殺してしまいます。そして殺された「かぐつち」の体や血から、またたくさんの神々が生まれ出ました。

 

いざなぎの黄泉の国訪問

 そしてまた「いざなぎ」は「いざなみ」を恋しと「死者の国」たる「黄泉つ国(よみつくに)」へと追いかけていきます。そして「いざなみ」に、まだ国土造りは終わっていないから一緒に戻ろうと誘うわけですが、「いざなみ」はすでに「黄泉の国」の食物を食べてしまったのですんなり戻るわけにいかず、「黄泉つ国」の神々と相談しなければならない、と言ってきます。

 

 そして「決して中を見ないこと」という約束で、扉の中に入ってしまいます。しかし、あんまり長いので「いざなぎ」は待ちきれなくなり、火をともして中へ入ってしまいました。そこには「うじ」にたかられ、恐ろしげな雷の神がその体にとりついている「いざなみ」がおりまして、「いざなぎ」はびっくり仰天して恐ろしく、あわてて逃げ出していきます。

 

 「いざなみ」にしてみれば「恥をかかされた」格好になったわけで、「追いかけさせる」わけですが、「いざなぎ」は「山ぶどう」の実やタケノコを生やしたりして時間をかせいだり、剣をぬいて振りかざして逃げたり、やっと「境界」近くの「黄泉つひら坂」のふもとまで逃げ、そこに生えていた「桃」の実を三個投げつけると追ってきた「雷の神」たちはひきあげます。そこで「いざなぎ」は桃を祝福し、人々が苦しんでいる時には助けてやってほしい、と告げたりしていますが、そこについに「いざなみ」自身が追いかけてくることになります。 

 

 そこで「いざなぎ」は「千引きの岩」を引っ張ってきて「黄泉つひら坂」をふさいでしまいました。こうして「岩」をはさんで「向かい合う」形になり、「いざなぎ」は「縁切り、つまり離婚」をいいわたします。

 

こうして「いざなみ」は

 

「そんなことを言うのなら、私はあなたの国の人々を一日に千人殺してしまいますよ」

 

と言ってきますが、それに答えて「いざなぎ」の方は

 

「それじゃ、私の方は千五百の産屋をたてることにしょう」

 

言いまして、ここに一日に千人死んで千五百人生まれることになったと告げてきます。一方、この「黄泉つひら坂」は「出雲」にあると語られており、この『古事記』の世界は「出雲」を中心とすることが早くも示され、そして実際そうなっていくのでした。

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