出典http://ozawa-katsuhiko.work/
このはなさくやひめ
「ににぎのみこと」が美しい女性「このはなさくやひめ」に会い結婚したいと思い、その父「大山津見」の神に申し込んだところ彼は承知しましたが、その姉の「いわながひめ」までくっつけてきました。ところが、この「いわながひめ」は非常に醜かったので「ににぎのみこと」は彼女を送り返してしまいます。
ところが「大山津見」が言うには、自分が二人一緒に送ったのはわけがあったので、この「いわながひめ」は「永久に石のように存続する」という性格を持っていて、一方「このはなさくやひめ」は「花のように栄える」けれど花のように「儚い」という性格を持ち、両方を妻にしていれば「栄えて永久」ということになったのに、「いわながひめ」を送り返した以上は、「寿命が短い」ということになってしまう、というわけでした。
ここに天皇の短命なことの理由が述べられているわけですが、実際この時代、天皇家は短命であったことが、こうした話しを作らせているのでしょう。一方「このはなさくやひめ」はすぐ妊娠してしまいまして、そのため「ににぎのみこと」は別に男がいたのではないかと疑ってしまいます。そこで彼女は「天の神の子供なら無事に生まれるでしょう」と言って「産屋」に入り、それに火をつけてしまいます。そして彼女は「ほでり」「ほすせり」「ほおり、またの名をひこほほでみ」という三人の子供を生んできます。彼女の運命は不明です。
「海彦と山彦」
ここから、話しはこの子供のうち「ほでり」と「ほおり」の話しになっていきます。すなわち、「ほでり」は「海幸彦」と呼ばれ、「ほおり」は「山幸彦」と呼ばれることになりました。この「山幸彦」たる「ほおり」は、兄である「ほでり」に向かって、互いの道具を取り替えてみないか、と持ちかけます。「ほでり」は三度も断りますが、あまりにしつこいのでとうとう承知します。こうして「山幸彦」が海にいくわけですが、うまくいかず大事な「釣り針」までなくしてしまいます。
そこに「ほでり」が、やはり獲物は自分の道具でしかとれない、と言って道具を元に戻そうとしてくるわけですが、「ほおり」は「釣り針」を返せません。困って自分の刀で釣り針をつくって返そうとし、五百、千とつくるのですが、「ほでり」はやはり元のものでなければ、といってきます。困った「ほおり」が海辺で泣いておりますと「しおつちの神」が出てきて事情を聴き、助けてあげようということになり、まるで「浦島太郎」の話しの原型のような話しになって、竜宮城のような「海神の宮」に行き歓待され、「とよたまひめ」と結婚して三年経ちます。しかし、かつての事情を思いだしため息をついていると、海神が事情を聴いて、魚を集めて「はり」を探しだしてそれを持たせ、「ほでり」をやっつける方法を授けて送りだします。
かくして「ほおり」は「ほでり」をやっつけて支配者となり「ほでり」は「従者」となったがその一族が「隼人」となった、といってきます。このあたり朝廷がどんな部族であったのかをよく物語っており、「海の民」に対する「山の民」の優位が語られています。つまり「山幸彦」が海へと入りそこで歓待され、そこから「海幸彦」を支配下においた、という物語になっているわけです。
「とよたまひめ」
ここから話しは「とよたまひめ」の妊娠となり、彼女は「もとの姿」で子供を産まなくてはならないが「決して覗き見しないように」と言い置いて「産屋」に入っていきます。しかし、そう言われるとのぞきたくなるのが凡夫の常で「ほおり」は覗いてしまいますが、そこに見たのは「鰐がのたうちまわっている姿」であったとなります。
こうして「とよたまひめ」は恥をかかされたことで、海へと戻っていってしまいます。こうした、禁止されればされるほどそれを侵犯したくなるという「タブーの侵犯」の説話は日本ばかりでなく、世界中にある説話のパターンです。
一方、子供は無事生まれていまして、その子は「うがやふきあえず」の尊といいました。一方、「とよたまひめ」は、その妹の「たまよりひめ」を送り、その子の養育にあたらせました。こうして成長した「うがやふきおえず」の尊は、そのまま乳母であった「たまよりひめ」と結婚してしまいい四人の子供をもちますが、その中に「かむやまといわれひこ」の尊がおりました。この尊が「神武天皇」となるわけで、『古事記』は、ここから「中の巻き」となっていくのでした。
『古事記』の「神代の物語」はこんな具合になっているのですが、さて、ここでも「神々」と言われていたので、ついうっかり「神」についての物語であったのだと思ってしまいますが、これを世界の神話の代表ともいえるギリシャの神々と比較してみますと、とてもではありませんが「神」などとはお世辞にもいえないということに気づかれるでしよう。
ギリシャの神らしい超人的能力の発揮があったのは、「いざなぎ、いざなみの国造り」はともかくとして、他にはたった一人「すさのう」くらいのもので、それも「八股の大蛇」の話しがあったから何とかなったので、それがなかったら彼も危ういことになってしまいます。
つまり、ギリシャの神々は、第一に「不死」であって、これはプラトンが言っているように「神であることの証明」みたいなものですが、『古事記』の神は不死ではありません。
第二にギリシャの神々は「雷を落としたり、地震を起こしたり、風を吹かせたり自然現象を操作」してしまいますが
、そんな力も持ち合わせていません。また強大な力を持ち、怪物を倒したり、人間に様々な能力、気力を与えたり奪ったりもしてきますが、『古事記』の神は、そんなこともしてきません。
いや、一番大事なことなのですが、ここには「人間」が現れてはこないのです。つまり『古事記』というのは、もともと「天皇」とその周りの貴族の位置づけ、職能を描くのが目的であり、初めから「人間のこと」を描いていたのです。「人間に対する神」を描いていたのではないのです。「神」という呼び名に騙されていただけなのです。「国造り」が終わった後、つまり「天照大神」の以降は、むしろ人間的に「何々様」と読み替えて読んだ方が分かり易いのです。
こんな具合に「人間の」物語だったのですから「他に」人間が出てくるわけもなかったのでした。天とか海とかの「場所」も単なる「地域の別」と読めばよかったのです。もちろん、ここに出てきたいわゆる「神々」が、後に神社の主神となっているということはその通りなのですが、その神と言われるものの実体は、以上のようなものなのでした。
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