東方系民族の移動
ゲルマニア東半分(現在のポーランド・チェコ等の地域)や、サルマティア(現在のベラルーシ南部からウクライナ)には、スキタイやサルマタイの影響を受けたスラヴ人の文化圏が形成されていた。彼らはPrzeworsk文化やZarubintsy文化などの主体をなし、周辺のケルトやゲルマンの諸族と相互に影響を与え合っていた。彼らも、またフン族に押される形で東ヨーロッパ全土に進出し、スラブ系がこの地域の支配していくことになる。
近年では、古代のケルト系民族の研究に影響されてか、プロト・スラブ人についての研究も深まりつつある。その最たる例はヴァンダル人で、彼らは元々はPrzeworskに属する部族である事が判明しており、何らかの理由(恐らくは近隣のゴート族との交流)でゲルマン系言語を用いるようになったと考えられているが、しかし実際のところヴァンダル語についてはほとんど資料がなく、彼らの日常言語が本当にゲルマン系言語であったかどうかでさえも定かではない。
語彙の上でゴート語の影響を受けていることははっきりしているが、スラヴ語も語彙においてゴート語の影響を強く受けた言語であり、ゴート語の影響をもってヴァンダル語がゲルマン語であったとは言えない。ヴァンダル人は南欧や北アフリカに侵入していくが、このころまでには彼らがゲルマン語を話していたことがわかっている。(彼らが古い時代からのリンガ・フランカとしてゲルマン系の言葉、新しい時代のリンガ・フランカとしてラテン語、伝統的な民衆語としてスラヴ祖語を使用していたならば、この謎は解決され、当地の考古文化の変遷の仕方がその有力な傍証となっているが、ヴァンダル人がプロト・スラヴ人であることを示す決定的証拠は見つかっていない)。
また同地には、サルマタイと呼ばれるイラン系の諸族も定住していた他、古代末期にはフン族やアヴァール族などの騎馬民族が侵入し、スラヴ系・ゲルマン系の諸民族を次々と征服していった。彼らの出自は明らかではないものの、推測される使用言語からテュルク系に属するという意見や、匈奴との関係を論じる意見が一般的である。アヴァール族はチュルク系とされるが、その共通言語としてスラヴ祖語が広く使用されていたという説もある。
フン族
フン族(Hun)は、4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民である。ヨーロッパの伝承によれば、彼らはヴォルガ川の東に住んでおり、当時スキタイの一部だった地域で初めて報告された。フン族の到来は、イランの人々、アラン人の西方への移住に関連している。
370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立し、ローマ国境の外に住むゴート族や他の多くのゲルマン民族を征服し、他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こした。フン族は、特に彼らのアッティラ王の下で、東ローマ帝国に頻繁に破壊的な襲撃を行った。
451年、フン族は西ローマ帝国のガリア州に侵攻し、カタラウヌムの戦いでローマ人とゴート族の連合軍と戦い、452年にイタリア半島に侵攻した。453年のアッティラの死後、フン族はローマにとって大きな脅威となることは無くなり、ネダオの戦い
(454? )で帝国の領土の大部分を失った。フン族の子孫、または同様の名前を持つ後継者が、約4〜6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部を占領したとする記録が、南、東、および西の近隣の住民によってなされている。フン系の名前の変種は、8世紀初頭までコーカサスで記録されている。
18世紀、フランスの学者であるジョセフ・ド・ギーニュは、フン族と、紀元前3世紀に中国の北の隣国だった匈奴族との繋がりを最初に指摘した。ギーニュの時代以来、そのような関係を調査するために、かなりの学術的努力が注がれてきた。この問題には、依然として議論の余地がある。イランのフン族やインドのフナ族として知られている他の民族との関係も論争になっている。
フン族の文化についてはほとんど知られておらず、フン族と結びついた考古学的な遺物はほとんどない。彼らは青銅の大釜を使用し、頭蓋変形を行ったと信じられている。アッティラの時代のフン族の宗教についての記述はないが、占いなどの慣行が明らかになっており、シャーマンも存在し得たとされている。フン族は独自の言語を持っていることも知られているが、それを証明するのは3つの単語と個人名だけである。経済的には、彼らは遊牧を実践したことが知られている。
ローマの世界との接触が拡大するにつれて、彼らの経済は、貢物、襲撃、貿易を通じてますますローマと結びついた。彼らはヨーロッパに入った時に統一政府を持っていなかったらしく、むしろローマ人との戦争の過程で統一部族としてのリーダーシップを発展させたとされている。フン族は、様々な言語を話す様々な人々を統治し、その一部は独自の支配者を維持した。彼らの主な軍事技術は騎射であった。
フン族は、西ローマ帝国の崩壊の大きな要因である大移動を刺激した可能性が指摘されている。フン族に関する記憶は、フン族が敵対者の役割を演じる様々なキリスト教の聖人の生活や、フン族がゲルマンの主要人物の様々な敵対者または同盟者であったゲルマン英雄伝説でも生き続けた。ハンガリーでは、中世の年代記に基づいて発生した伝説で、ハンガリー人、特にセーケイ人はフン人の子孫とされている。しかし、主流の学術界では、ハンガリー人とフン族の密接な関係を否定している。近代文明は、一般にフン族を極端な残酷さと野蛮さに結びつけている。
出典 Wikipedia
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