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この時代の文化の担い手は貴族です。代々続く豪族を貴族といってよい。とくに華北の戦乱を逃れて南方に逃れてきた貴族たちによって、成熟した貴族文化が発達します。中国南部の王朝で発展したので六朝(りくちょう)文化と呼ばれることが多い。
後漢の末から豪族=貴族たちの間で逸民的な雰囲気が流行ったといいました。どろどろした政治の世界から身をひいて、儒学的な道徳にとらわれず精神的な自由を守ろうという風潮です。例の諸葛亮も、劉備に引っぱり出されるまでは田舎にこもっていたわけで、彼も逸民的な生き方をしていたんでしょう。
儒学の代わりに人気が出てきたのが老荘思想、道家の系統の思想です。西晋の頃から、貴族たちの間で老荘思想に基づく弁論合戦が流行ります。貴族のサロンで、奇をてらった面白い議論を展開できれば人物の評判が高まりました。こういう議論を「清談」といいます。今のみんなが暇があったらカラオケにいくように、彼らは暇があったら「清談しようぜ」となる。
とくに清談で有名になった貴族が七人いて、かれらのことを「竹林の七賢」といいます。竹林が茂る別荘に集まって、清談して遊んだんだ。阮籍(げんせき)なんていう人がとくに有名だけど、彼らの名前を覚える必要はありません。
竹林の七賢は、みんな政府の高官でもありました。だから彼らは、現代風にいえば国家の発展や人民の生活の安定のために一所懸命働かなければならない立場だよね。でも、浮き世離れした清談にうつつを抜かしている。悪い言い方をすれば「清談」は貴族たちの現実逃避の手段のひとつであったかもしれません。そういう意味で、「清談」には国家から半分そっぽを向いている当時の貴族=豪族の生き方がよく出ていると思う。
貴族階級には、麻薬も流行ったのですよ。五石散(ごせきさん)という麻薬を利用している記事が多くあります。やりすぎて死んでしまった人も、かなりいたみたい。貴族のサロンは麻薬で陶酔しながら、浮き世離れした哲学論を戦わせる場であったのです。
代表的な文化人と作品を見ていきます。
陶潜(とうせん)。詩人です。陶淵明(とうえんめい)ともいう。東晋の人。「帰去来辞(ききょらいのじ)」という詩が有名。これは「帰りなん、いざ」という一文からはじまる詩で、役人を辞めて田舎に帰るときに作ったという。この詩の一節に「五斗米のために腰を折らず」という言葉がある。五斗米とは役人として陶潜がもらう給料を指しています。腰を折るというのは、ようするにお辞儀をすること。つまり、わずかばかりの給料をもらうために、上司にペコペコお辞儀してへつらうような役人仕事はもうごめんだぜ、俺は仕事を辞めて田舎へ帰って、のんびり好きなように暮らすぜ、という詩なのです。 陶潜も当時の貴族の逸民的な雰囲気の中にいるのです。
謝霊運(しゃれいうん)。南朝宋の人。詩人です。超一流の名門貴族でもありました。官僚をやっているんだけれど、傲慢な性格だったので左遷されて田舎に飛ばされた。そこで美しい自然に心を癒されて、山水詩を書きました。自然の風景の中に自分の精神をとけ込ませて安らぎを得る、という感覚。わかるでしょ。仙人みたいになりたいわけです。
昭明太子。南朝梁の王子。即位せずに死んでしまいますが。この人が編集した本が「文選(もんぜん)」。古今の名文を集めたもので、貴族たちが文章を書く時に参考にしたものです。日本にも輸入されて、奈良・平安の貴族たちが漢文を書く時の手本にしたので日本でも有名です。
王羲之(おうぎし)。東晋の人。この人も名門貴族。名前の「羲」という字は注意してください。義務の義とは違う字ですよ。書聖と呼ばれる書道の名人です。というよりも、筆と墨を使って書くという行為を芸術にした人といった方がいいですね。代表作が「蘭亭序(らんていじょ)」。名門貴族たち40数人が蘭亭という風光明媚な場所に集まって宴会をした。いかにも「清談」的な雰囲気の集まりです。みんなで作った詩を集めたものに、王羲之が序文を書いた。これが「蘭亭序」。傑作だったらしいんですが、後の時代、唐の太宗という皇帝が自分の墓に一緒に埋めてしまった。だから実物はありません。
その他の作品も、王羲之本人が書いた真筆は伝わっていません。現在、わたしたちが見ているのは臨書(りんしょ)といって、後の時代の名人が書き写したものです。私、高校時代芸術選択は書道でした。美術を選択したんですが、どういうわけか書道にされてしまった。書道の教科書には王羲之の臨書があって、これを書きまくっていました。1600年後の高校生にも影響を与えている人ですな。
顧愷之(こがいし)。この人も貴族ですが謝霊運や王羲之ほど一流ではありません。役人としてもぱっとしませんが、画家として有名だ。肖像画が得意でした。代表作「女史箴図(じょししんず)」。資料集にありますね。貴族女性の日常生活を描いています。
わたしが見ても、この絵の芸術的価値はよくわかりません。ただ、当時の貴族たちの暮らしがわかって面白い。たとえば、これは貴族の婦人が召使いに髪をとかせているのですが、彼女の前に円盤が掛けてある。これ、なんだかわかりますか。銅鏡です。
日本列島では、古墳からじゃかじゃか出土します。宗教的な呪力を持つものとして埋めてしまうのですが、これが本来の使い方。中国では、鏡としてちゃんと使っている。
それから、彼女が座っているのはなんですか。これ、畳ですね。部屋の全面に畳を敷き詰めるのではなくて、自分が座るところにだけポンと畳を置いている。これが、そのまま日本に伝わる。百人一首の絵。あの天皇や貴族の座り方と、まったく同じなんですよ。日本では畳はどんどん普及して、部屋全体に敷くようになって現在に至る。一方、本家の中国では唐の時代くらいから、椅子とテーブルの暮らしが一般的になってきて、現在では畳は使っていません。
「古い時代の文化は、辺境地域に残る」という文化伝達の原則があるんですが、その実例だね。この場合、辺境とは日本のことね。絵画資料として、顧愷之の絵は面白いです。
以上が華南の貴族文化、六朝文化の代表者たちです。