2024/12/28

レコンキスタ(3)

アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国

718年、西ゴート王国の貴族を称するペラヨが、アストゥリアス地方でキリスト教徒を率いて蜂起し、アストゥリアス王国を建国した。多くの史家は、レコンキスタの開始をこの年に設定している。

 

722年(あるいは718年、724年とも)、ペラヨはコバドンガの戦いに勝利し、イスラム勢力に対するキリスト教国家として初めての勝利を手にした。これは実際には小規模な戦いに過ぎなかったが、イベリア半島のキリスト教徒にとっては象徴的な初勝利であった。

 

以降、アストゥリアスはレコンキスタの拠点となった。同じ頃、カンタブリアでも豪族のペドロ公がイスラム勢力を排除していた。両国は連携し、ペドロ公の息子のアルフォンソ1世は、ペラヨの娘と結婚した。間もなく両国は統合され、地盤を得たアストゥリアス王国は、徐々に南方への反攻を開始した。

 

732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール・マルテルが勝利を収め、ムスリム勢力のピレネー以北への進出を阻止した。その後の751年にメロヴィング朝からカロリング朝へ代替わりすると、フランクは拡張政策に転換し、イベリア進出を狙い始めた。

 

一方、ウマイヤ朝は分裂の兆しを見せていた。広大な版図の各地で反乱が頻発していたが、ダマスカスのカリフは何ら有効な手立てを打てなかった。750年、サッファーフがウマイヤ朝を滅ぼし、新たにアッバース朝を興した(アッバース革命)。ウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はイベリア半島へ逃亡し、756年、コルドバで後ウマイヤ朝を建国した。ただし、アッバース朝のカリフに対する配慮から「コルドバのアミール」を称した。

 

イスラーム支配の終焉と統一

レコンキスタは、アストゥリアス王国のペラーヨが722年のコバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行し、数百年続いた。キリスト教勢力の勝利によって、北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。

 

その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらく後にフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。

 

 

1212年のナバス・デ・トロサの戦い

アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。

 

13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。このころにヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212/1263年)とサラマンカ大学(1218/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した。

 

1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約では、ムスリムの信仰が保障されている。

 

この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスが、アメリカ大陸に到達している。また、この年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後、同じ条件でムスリムも追放された。

 

イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (España) が王国の総称として用いられるようになった。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。

2024/12/27

空也

空也(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも称される。

 

人物

観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本において記録上初めて実践したとされ、日本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評価される。摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層、ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。空也流の念仏勧進聖は、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされる。

 

俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。

 

踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。ただし、空也が創建した六波羅蜜寺(後述)には「空也踊躍念仏」が受け継がれており、国の重要無形文化財に指定されている。

 

門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。  

 

生涯

後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』(くうやるい)や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。

 

没年の記録から逆算して、延喜3年(903年)頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。なお、六波羅蜜寺のWEBサイトでは、「第60代醍醐天皇の皇子」と紹介されている。『尊卑分脉』によれば、仁明天皇の皇子・常康親王の子とされているが、常康親王は貞観11年(869年)に没しており、年代的にはやや無理がある。

 

延喜22年(922年)頃に尾張国分寺にて出家し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行う。

 

天慶元年(938年)、京都洛中の東市などを拠点にして、口称念仏を勧める活動を本格的に開始し、貴賤を問わず幅広い帰依者を得る。

 

天暦2年(948年)、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 

貴族や民衆からの寄付を募って、天暦4年(950年)に金字大般若経書写を発願する。さらに天暦5年(951年)には、十一面観音像および梵天・帝釈天像、四天王像を造立(梵天・帝釈天と四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。発願から足掛け14年後の応和3年(963年)、鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら公卿との関係も深める。

 

空也には、京都に疫病が流行したとき、空也自らが病魔退散を願って始めたとされる「空也踊躍念仏」が、現代まで続く踊り念仏として伝わっている。また、鹿に関する逸話も伝わっている。空也が鞍馬山に閑居後、その鳴声を愛した鹿を、定盛という猟師が射殺した。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったという。また鹿を射殺した定盛も、自らの殺生を悔いて空也の弟子となったという。

 

天禄3年(972年)、東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。

 

彫像

空也の彫像のうち、重要文化財として国が指定しているのは、六波羅蜜寺が所蔵する「木造空也上人立像」(運慶の四男 康勝の作)、荘厳寺(近江八幡市)所蔵「木造空也上人立像」、月輪寺(京都市右京区)所蔵「木造空也上人立像〈/(祖師堂安置)〉」、浄土寺(松山市)所蔵「木造空也上人立像」である。いずれも鎌倉時代の作とされる。

 

彫像の造形は非常に特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。これは、空也が「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。

2024/12/23

レコンキスタ(2)

711年、北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテ河畔の戦いで敗れて718年に滅亡した。この征服の結果、イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動:Reconquista))を始めることになる。

 

イスラームの支配下では、キリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた。

 

シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀ごろのアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになった。

 

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻して北部へ侵攻したものの、キリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。

 

レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動。レコンキスタの結果、グラナダはキリスト教国家の支配下に置かれることになり、アルハンブラ宮殿もキリスト教式に改変の手が加えられた。

 

ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。レコンキスタは、スペイン語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味し、ポルトガル語では同綴で「ヘコンキスタ」という。日本語においては意訳で国土回復運動や、直訳で再征服運動とされることもある。

 

ムスリム勢力のイベリア侵攻

ムスリム勢力のウマイヤ朝が711年にイベリア半島へと侵入した。ここでは侵入前後からレコンキスタの開始、ウマイヤ朝の後継である後ウマイヤ朝滅亡までを見る。

 

ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡

6世紀初頭、フランク王国との戦いに敗れ、国家の重心をイベリア半島へ移した西ゴート王国は、約1世紀をかけて半島全土を支配下におさめた。589年にキリスト教アリウス派からカトリックに改宗していた西ゴートは、イベリアのカトリック化を推進した。

 

一方、661年に建国されたイスラーム国家のウマイヤ朝は、積極的な拡張政策によって急速に勢力を拡大していた。8世紀初頭までに北アフリカの西端まで版図を広げていたウマイヤ朝は、710年、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に上陸した。この時は一部の都市を襲撃しただけだったが、西ゴート側の抵抗が弱いのを知り、本格的な遠征軍を組織しはじめた。

 

711年、ターリク・イブン・ズィヤード率いる遠征軍がジブラルタル海峡を越えた。同年719日、ターリクはグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート軍に壊滅的打撃を与え、国王のロドリーゴを戦死させた。王が死んだ西ゴートには後継者がおらず、その混乱に乗じてウマイヤ朝は支配領域を拡大していった。710年代の終わりまでに、ムスリム勢力はイベリア半島を北上し、カンタブリア山脈以北およびピレネー山脈以北までキリスト教勢力を追い詰めていった。この頃、イベリア半島南部はイスラムのアル・アンダルス(ヴァンダル人の地の意、アンダルシアの語源)と名前を変えた。

 

征服した土地では、新たな統治が始まっていた。ウマイヤ朝はイベリア半島のキリスト教化を推進した西ゴート王国に比べて、宗教に寛容だった。ムスリムは被征服者に対して改宗を強制しなかったが、その代わりにジズヤ(人頭税)を要求した。ユダヤ教徒、キリスト教徒の区別なく、ジズヤを納めれば信仰を保持できた。ただし、ある種の社会的格差は存在しており、そのためにイスラム教に改宗するものが相次いだ。また、高額のジズヤが納められずに北部へ逃亡する者や、反乱に加わる者も少なくなかった。

2024/12/22

空海(7)

弘法大師の伝説

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概要

弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あり、歴史上の空海の足跡をはるかに越える。柳田國男は、大子(オオゴ)伝説が大師伝説に転化したという説を提出している。中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖が弘法大師と解釈されたことも根拠となっているが、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられてはいない。寺院の建立や仏像などの彫刻、聖水、岩石、動植物など多岐にわたり、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼる。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている。

 

謀書の疑い

真言宗の祖かつ三筆に数えられる能書家であることから、後世、謀書も作られたと言われている。例えば、天長3年(826年)35日に、高弟の真雅に唯授一人の印信(いんじん、奥義伝授の証明書)を授け、その『天長印信』というものが中世まで真言宗醍醐派の醍醐寺の至宝として伝わっていたが、後の研究では『天長印信』は謀書の一つと考えられている。

 

南北朝時代の延元4/暦応2年(1339年)には、空海に帰依する後醍醐天皇が筆写しており、その作品『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』は国宝に指定されている。

 

開湯伝説

弘法大師が発見したとの伝承のある温泉は、日本各地に存在する。具体的には以下のとおり。

 

ü  あつみ温泉

ü  大塩温泉

ü  芦ノ牧温泉

ü  出湯温泉

ü  瀬戸口温泉

ü  清津峡温泉

ü  関温泉

ü  燕温泉

ü  川場温泉

ü  法師温泉

ü  修善寺温泉

ü  伊豆山温泉

ü  湯村温泉

ü  鹿塩温泉

ü  海の口温泉

ü  赤引温泉

ü  龍神温泉

ü  関金温泉

ü  湯免温泉

ü  千羽温泉

ü  清水温泉

ü  東道後温泉

ü  杖立温泉

ü  熊の川温泉

ü  波佐見温泉

 

これ以外にも後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの温泉もある(高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわれている)。

 

伝説・伝承

以下は、弘法大師が由来とされる伝説や伝承があるものである。

 

ü  平仮名

ü  いろは歌

ü 

ü  讃岐うどん

ü  手こね寿司

ü  九条葱

ü  曜日

ü  水銀鉱脈の発見

ü  ダウジング

ü  見附島 (石川県)

ü  橋杭岩

ü  小倉あん

ü  エツ - 日本では筑後川のみに生息する魚、絶滅危惧種

 

四国に狐がいないのは、弘法大師が鉄の橋が掛かるまで渡ってはならないと狐に命令したからという伝説。20世紀になると、海底ケーブルや瀬戸大橋という「鉄の橋」ができたから狐が来るようになったかもしれない、との後日談が加わった。

 

ü  ことわざ・慣用句

ü  弘法も筆の誤り

 

空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになったが、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに、筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。

 

弘法筆を選ばず

文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないという意味のことわざ。ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかったという、全く逆の意味の言及がある。良い道具の選択が重要であることも世には多く、「弘法筆を選ぶ」のように全く逆に転じた言い回しもある。

 

真にその道に秀でた人物ならば、どんな道具を使おうとも優れた成果をあげると言うことを意味する。このため仕事をする場合に道具にこだわっている人は、真に腕前のある人ではないということを意味する。この言葉での弘法というのは、空海という書道の名人である。空海のような書道の名人となれば、作品を書くにあたっては筆の良し悪しを問題にしなくても良い作品を仕上げることができるということである。このことを意味する言葉は、明治時代前期までは「能書筆を選ばず」が一般的であった。それが明治時代後期から次第に弘法筆を選ばずという形で使われるようになっていく。

 

弘法筆を選ばずという言葉が広まっているのであるが、実際の空海は筆を選んでいた。榊莫山の著書によると、空海は81267日に嵯峨天皇に狸の毛で作った筆4本を差し出して、毛筆は時と処に応じてよく選ばなければならないというようなことを言っていた。性霊集の第4巻に「筆を奉献する表」という一文があり、ここでは空海自らが唐で学んだ筆についての事柄を筆職人に伝え、それによって作られた筆を天皇に献上したときの文章である。この文章の中に、筆の大小や長短などを文字の筆勢に応じて取捨選択するべきである、と書かれている。

 

護摩の灰(ごまのはい)

「弘法大師が焚いた護摩の灰」と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。

 

関連する寺社

ü  東寺

ü  高野山

ü  生駒聖天

ü  善通寺

ü  東大寺

ü  弘法の滝護国寺

ü  神護寺

ü  乙訓寺

ü  丹生都比売神社

ü  観心寺

ü  霊山寺

ü  神泉苑

ü  室戸岬

ü  久安寺

ü  太融寺

ü  久米寺

ü  大安寺

ü  観世音寺

ü  宝蔵院

2024/12/21

アイヌ神話(4)

 ≪昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように立ち昇って空となった。


 そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島(現北海道)となった。

 島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした氣が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。

 一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の氣からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。

 「北海道アイヌ」とは別に、「千島アイヌ」には、千島列島全島を創造した柱であるコタンヌクルというカムイ(千島の創造神)の語りが伝えられており、アイヌの創造神話体系は一様ではない。

 この二柱の神達が、五色の雲の中の青い雲を(現在の)海の方に投げ入れ「水になれ」と言うと、海ができた。

 そして黄色の雲を投げて「地上の島を土で覆い尽くせ」と言い、赤い雲をまかれて「金銀珠玉の宝物になれ」、白い雲で「草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と言うと、それぞれのモノができあがった。

 その後、天神・地神の二柱の神達は

 「この国を統率する神がいなくては困るが、どうしたものだろう」

 と考えていられるところへ、一羽のフクロウが飛んで来た。

 神達は「何だろう」と見ると、その鳥が目をパチパチして見せるので「これは面白い」と二柱の神達が何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。

 沢山の神々が生まれた中で、ペケレチュプ(日の神)、クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)からクンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。

 また、この濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄山)であると言う。

 『蝦夷地奇観』では、ノツカマップ=根室半島の首長であるションコの話として、シリベシ山(後方羊蹄山)を「最初の創造陸地」としている点で伝承が同じである。

 多くのアイヌが、この地を始まりの地と認識していた事が分かる。

 ペケレは「明るい」を意味し、チュプは「太陽」を意味する。

 一方、クンネチュプは、直訳すれば、「黒い太陽」である。

 

 沢山生まれた神々は、火を作ったり、土を司る神となったりした(最初から役割が定まっていないのが特徴)

 火を作った神は、全ての食糧=アワ・ヒエ・キビの種子を土にまいて育てる事を教え、土を司る神は草木の事の全ての木の皮を剥いで、着物を作る事などを教えた。

 その他、水を司る神、金を司る神、人間を司る神などがいて、サケを取り、マスをやすで突き、ニシンを網で取ったり(この神は江差に祭られている姥神と考えられている)、色々と工夫をして、その子孫の神々に教えられた。

 こうしてアイヌモシリは創造され、次いで他の動物達も創造される。

 さらに神の姿に似せた「人間(アイヌ)」も創造される。

 その後は、神々の国と人間界とを仲介する人祖神アイヌラックル(オキクルミ・オイナカムイ)が登場する事となる(日本神話でいう「天孫降臨」に近い) 

 彼は沙流(サル)地方(現日高・平取町)に降りた。

 アイヌラックルに関する神話は、各地によって差異がある。

 沙流地方に降りたとする神話では、父母の神に頼みモシリ(国土)に降りたとする(初めから天神として語られている)

 この時、アイヌはまだ火の起こし方も知らなかったとされている≫

2024/12/18

レコンキスタ(1)

アル=アンダルス(スペイン語: Al-Ándalus、アラビア語: الأندلسal-ʾandalus)は、アラビア語によるイベリア半島の名称であり、711年の征服以降は半島内のイスラム支配地域を意味するようになった。その最大の地理的範囲では、その領土は半島のほとんどと現在の南フランスの一部、セプティマニア(8世紀)を占め、ほぼ1世紀(9世紀 - 10世紀)の間、イタリアと西ヨーロッパに接続するアルプスの峠の上に、フラクシネからその支配を拡大した。名前は、より具体的には711年から1492年の間の様々な時期に、これらの領土を制御する異なるアラブ人またはベルベル人の国家を説明するが、境界線はキリスト教のレコンキスタが進行するにつれて絶えず変化し、最終的には南に縮小しグラナダ王国の属国になった。

 

ウマイヤ朝によるヒスパニアの征服の後、当時のアル・アンダルスは、現在のアンダルシア、ポルトガルとガリシア、カスティーリャとレオン、ナバラ、アラゴン、カタルーニャ、オクシタニーのラングドック=ルシヨン地域に対応する、5つの行政単位に分割された。

 

ワリード1世(711 - 750年)によって開始されたウマイヤ朝の州は継承されてコルドバ王国(750 - 929年)、後ウマイヤ朝(929 - 1031年)、コルドバのタイファ(後継者)王国(1009 - 1110年)、ムラービト朝(1085 - 1145年)、第二次タイファ時代(1140 - 1203年)、ムワッヒド朝(1147 - 1238年)、第三次タイファ時代(1232 - 1287年)、そして最終的にはグラナダのナスル朝首長国(1238 - 1492年)の構成州となった。

 

コルドバのカリフの下では、アル・アンダルスは学問の道標となり、ヨーロッパ最大の都市コルドバは、地中海盆地、ヨーロッパ、イスラム世界の主要な文化・経済の中心地の一つとなった。三角法(ゲベル)、天文学(アルザチェル)、外科学(アブルカシス・アル・ザフラウィ)、薬理学(アベンゾワール)、農学(イブン・バサルとイブン・アルアッワーム)など、イスラムと西洋の科学を発展させた業績は、アル・アンダルスからもたらされた。アル・アンダルスは、ヨーロッパと地中海周辺の土地のための主要な教育の中心地となり、イスラム世界とキリスト教世界の間の文化的・科学的な交流のための導管となった。

 

タイファ王国の支配下では、イスラム教徒とキリスト教徒の間で文化的な交流や協力が盛んになった。キリスト教徒とユダヤ人は、彼らの宗教を実践する上で内部の自治権を提供し、イスラム教徒の支配者によって保護の同じレベルを提供した見返りに、国家にジズヤと呼ばれる特別な税を払っていた。ジズヤは単なる税金であるだけでなく、従属の象徴的な表現でもあった。

 

その歴史の多くの間、アル・アンダルスは北のキリスト教王国と対立していた。ウマイヤドのカリフの秋の後、アル・アンダルスは小さな国家と公国に細分化された。一方、アルフォンソ6世のもとで、カスティーリャ人に率いられたキリスト教徒からの攻撃が激化した。ムラービト朝は、この地域へのキリスト教徒の攻撃に介入して撃退し、弱小なアンダルシアのイスラム教徒の王子たちを退け、アル=アンダルシアをベルベル人の直接支配下に置いた。次の世紀半には、アル・アンダルスはマラケシュに本拠地を置くムラービト朝と、ムワッヒド朝のベルベル人イスラム帝国の州となった。

 

最終的には、イベリア半島北部のキリスト教王国が南部のイスラム教国家を圧倒した。1085年、アルフォンソ6世がトレドを占領したことで、イスラム教徒の勢力は徐々に衰退していった。1236年にコルドバが陥落すると、南部の大部分はすぐにキリスト教の支配下に入り、グラナダ王国は2年後にカスティーリャ王国の属国となった。1249年、ポルトガルのレコンキスタは、アフォンソ3世によるアルガルヴェの征服で最高潮に達し、グラナダはイベリア半島で最後のイスラム教国家となった。最後に、149212日にムハンマド11世がカスティーリャ女王イサベル1世に降伏し、半島のレコンキスタは完了した。

 

語源

ゲルマン人の一派ヴァンダル人(アラビア語 アル=アンダリーシュ)の名前が訛って変化したものと考えられているほか、アトランティスに由来する、あるいは西ゴート族に割り当てられた土地等諸説ある。

 

歴史

イスラームのイベリア半島上陸

ムスリムによるイベリア半島の征服活動は、711年にウマイヤ朝アラブ人のイフリーキヤ(北アフリカ)総督ムーサー・ブン・ヌサイルの部下ベルベル人ターリク・ブン・ジヤードが、7000人のベルベル人兵士からなる軍を率いてジブラルタルに上陸し、その後すぐに5,000人の追加派遣がなされ総勢12,000人の軍が侵攻したことから開始された。さらに翌年、総督ムーサー自らアラブ人兵士10,000の軍を率い侵攻した。これらのイスラーム軍により西ゴート王国が滅ぼされ、714年にはイベリア半島ほぼ全域がその支配下となった。

 

713年夏にムーサーはカリフの承認なしに行動したとして非難され、ワリード1世によりダマスカスへ召還命令が出されたので、西ゴート王国の王侯400人と奴隷、財宝を伴って帰還の途についた。7152月にダマスカスに到着したものの、非は咎められずに凱旋として遇され、カリフによる祝宴が催された。

 

ムーサーが召還命令を受けたとき、アンダルスは彼の第2子アブドゥルアズィーズに委ねられ、後にアブドゥルアズィーズは初代アンダルス総督に任じられたものの、716年に暗殺された。アブドゥルアズィーズは、総督の官邸をイシビーリーヤ(後のセビリア)に置いたが、6代目のアンダルス総督サムフ・ブン・マーリク・ハウラーニーはこれをコルドバに移し、後ウマイヤ朝に続くこととなった。

 

中東と異なりイベリア半島においては、アラブ人、ベルベル人兵士は軍営都市(ミスル)に集住せずに農村地帯に散らばった。このときの入植地は、ウマイヤ朝支配層のアラブ人がアンダルス南部の肥沃な地帯であったのに対し、ベルベル人は北部辺境あるいは山岳地帯であった。

2024/12/17

空海(6)

評価

真言宗の開祖として

空海は、江戸時代には、「お大師さん」として人々から親しまれていた。その一方で、「純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだ」として本居宣長などから批判もされた。明治時代には、廃仏毀釈運動によって一時期評価が下がることもあった。

 

空海は、「今もなお高野山に隠れている」ということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれる。

 

昭和9年の1100年御遠忌は、単なる宗教行事にとどまらず、大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。このキャンペーンのなかで、かつて「不純な思想を持ち込んだ」と批判された空海は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として再び評価されるようになった。昭和9年は日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでに開始しており、戦争に臨むにあたり「英雄」という存在のもとで国民を団結させる必要があったことから、空海が再評価されたとの見解もある。台湾には空海を祀る廟が存在する。

 

その後、昭和59年の御遠忌までには高野山道路が整備され、空海が入定された年とされる1150年御遠忌は参詣客が大幅に増え過去最高だった。当時の高野山の宿坊の参籠者はどこも定員をはるかに超し、客室以外の場所でも宿泊するほどの人出であった(高野山内寺院の関係者からの発言)。これに合わせて映画「空海」が制作され、全国的な盛り上がりとなる。

 

書家として

この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(崔子玉座右銘の「崔瑗」の2文字目は王偏に爰)が含まれています(詳細)。

書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である。真跡としては次のものがある。

 

聾瞽指帰(ろうこしいき)

『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦1624歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。空海の出身地を実証する資料とされ、嵯峨天皇へ献上されて嵯峨離宮、仙洞御所、大覚寺、西芳寺、仁和寺を経て、天文5年に堺の前田仲源五郎が金剛峯寺へ寄進する。現・金剛峯寺蔵。国宝。

 

灌頂歴名(かんじょうれきめい)

弘仁3年から弘仁4年にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺蔵。国宝。

 

風信帖(ふうしんじょう)

国宝指定名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく)』。

空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで『風信帖』と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年献上したことが巻末の奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として『灌頂歴名』とともに絶品とされる。年号は不詳であるが、弘仁3年頃とされている。1通目は、911日付で「風信雲書」の書き出し。書風は謹厳である。2通目は、913日付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある。3通目は、95日付で「忽恵書礼」の書き出し。流麗な草書体である。全体は王羲之の体である。東寺蔵。

 

崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうめい/ざうめい)

後漢の崔瑗の『座右銘』100字を草書で23字ずつ、数十行に書いたものである。もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院の蔵であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は『大字切』(だいじぎれ)と称している。

 

空海を含む讃岐の佐伯氏は、書と深く関わりを持っていた一族であったと考えられている。空海の門人で同じ佐伯氏の出身である実慧は、若い頃に同じ一族と思われる讃岐国多度郡出身の佐伯酒麻呂らに儒学を学んだとされているが、実は酒麻呂は空海の実弟であり、彼とその一族が平安時代前期において、長期に渡って書博士の地位を占めていた事が『日本三代実録』に記されている。

 

文人として

空海は、当代一流の文人としても知られる。勅撰三集の一つ『経国集』に8首の詩が入集しているが、これは入集した詩人全体の中で4番目に多い。空海の著作の一つ『文鏡秘府論』は詩作法・作文法の解説書で、その序文によれば、当時、多くの若者が詩作・作文の教授を乞うため空海のもとを訪れていたらしい。また、空海の詩文を弟子の真済が集成した『性霊集』の序文によれば、空海は詩、上表文、碑銘文、願文などあらゆる種類の文を、草稿なしですぐに書き上げるのが常であったという。実際、『日本後紀』天長2年閏719日条は、仁王会の東宮講師に配された空海が、通例では当代の著名な文人にあらかじめ作らせておく呪願文を、講説の直前に即座に書き上げたと伝えている。

2024/12/12

平城京(2)

発掘・調査

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北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大裏跡坪割之図』にまとめた。

 

1897年(明治30年)には、地理学者の河田羆が中心となって編集された『沿革考証日本読史地図』にも図が掲載された。

 

さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40年)に発表した。 棚田嘉十郎によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。

 

大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。

 

1961年に初めて木簡が出土し、1967年には、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に池を掘り、橋をかけ建物を建てていた。「続日本紀」にある「東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は平城宮東院庭園と呼ばれ、国の特別名勝の指定を受けている。

 

さらに1978年、宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に特別名勝、また朱雀大路の一部(二条-三条あたり)は1984年に史跡に指定されている。

 

平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。「奈良そごう」(当時)建設に際した発掘調査で、1988年に出土した木簡は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。米を管理する大炊司、氷を貯蔵する氷室の管理をする水取司などの家政機関や使用人の居住区、倉庫などがあった。倉庫には、米・麦・鮑など、さまざまな物資が運び込まれていた。また、木簡から当時の皇族や貴族が食べたという乳製品である蘇(そ)も、長屋王家の食卓にあがっていたことが分かっている。

 

近鉄奈良線

大阪電気軌道が1914年に現在の近鉄奈良線を開業した際には平城京の正確な範囲は明らかとなっていたが、世間の注目も薄く(新聞紙法などの言論検閲もあり)、結果的に平城宮の中を走行するようになった。

 

その他

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遷都の年号の語呂合わせは「奈(7)良、唐(10)にならって平城京」、「奈良の710(納豆)平城京」。もしくは「710(なんと)○○平城京」(「なんと」は感嘆詞の何とまたは南都○○にはきれいな”“大きな”“素敵な”“立派な”“美しいなどの言葉が入る)などがある。

 

平城京はシルクロードの終着点でもあることから、国際的な都市であった。京内には唐や新羅、遠くはインド周辺の人々までみられたという。その時代をうかがわせるのが東大寺正倉院の宝物などである。

 

桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由として、平城京の地理的条件と用水インフラストラクチャーの不便さがあった。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。なお、平城京が模範とした長安も、大運河から離れていることによる水運の不便さが一因となって、五代以降洛陽・開封などに首都の地位を奪われている。

 

近年の説としては、平城京の外港であった難波津における土砂の堆積と三国川(現在の神崎川)の工事による淀川との接続が、首都の所在地を大和国(飛鳥京・藤原京・平城京)から山城国(長岡京・平安京)に変えたとする説がある。古代の日本の東西間の交通は西国より水路で難波津に上陸し、奈良盆地を横断して鈴鹿関を通って伊勢湾を横断して東国に向かう経路が採用されており、大和国はその中継地点であった。ところが、8世紀に入ると、土砂の堆積で難波に船を着けることが困難になったことで西国との交通に支障が生じ、東国との交通においても馬の同伴が困難な伊勢湾横断が敬遠され、尾張国から美濃国の不破関を目指す不正規な迂回ルートが用いられるようになっていった。

 

こうした中で難波津-大和国-鈴鹿関(東海道)ルートの優位性が失われ、代わりに淀川-山城国-不破関(東山道)ルートが採用されるようになると、首都もそのルートの中継地点である山城国に移ったとするものである。これは三国川の工事に合わせるかのように、長岡京への遷都と平城京・難波宮の廃止が行われていることから指摘されている。

 

平城京遷都に際しては田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して用いた。このため田上山ははげ山となり、江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているがいまだ植生は回復していない。

2024/12/11

空海(5)

彌勒大師(みろくだいし)

空海は弥勒菩薩と関わりが深い。高野山奥之院御廟の柱に一対の「聯」が掲げられている。その聯には

「我昔遇薩埵 親悉傳印明發無比誓願 陪邊地異域晝夜愍萬民 住普賢悲願 肉身證三昧 待慈氏下生」

と記されている。

この文章は空海の言葉とされ、一部を意訳すれば、

「弥勒菩薩が下生されるまで、あらゆる場所に現れて、昼夜を通して、苦しむ衆生に慈悲を掛けるために、肉身のまま瞑想に入る」。

この言葉が空海が、高野山で入定した理由とも言える。

 

また、東寺の定額僧・縁実が、香川県の善通寺の別当になり、下向し、善通寺で空海の筆からなる文書を感得した。その感得した文書である「日々影向文」には、「卜居於高野樹下遊神 於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡」とあり、弥勒菩薩の浄土である「兜率天」に空海が住していると認識されていた。

 

作例としては、高野山奥之院燈籠堂に安置している木像。江戸時代の作と推定される。台座は、下から雲形・羯磨・蓮台で構成され、蓮台の上に空海が座し、右手に五鈷杵 左手に五輪塔を持している。後背には「光明真言」が彫られている。法量・一尺一寸、身体のみの法量五寸。

 

瑜祇灌頂姿の大師

密教の儀礼の「瑜祇灌頂」(ゆぎかんじょう)を行うときに、中院流では、空海の姿を描いた御影(おみえ)を敷曼荼羅として敷く。その御影に描かれている空海の姿。この図像は、真如式大師とほぼ同一だか、顔が正面を向いているという特徴がある。

 

鯖大師

徳島県の八坂八濱の鯖瀬に行基庵がある。そこに鯖大師が祀ってあり、その地が「鯖大師信仰」の起源地とされている。現在、行基庵は四国別格霊場・鯖大師本坊となっている。空海が四国行脚の途中、塩鯖を持っている馬子に塩鯖を乞うたが、空海が僧であるために断った。まもなく、鯖を荷として負っている馬が腹痛を起こし倒れた。馬子が空海に馬の腹痛の平癒のため、祈祷をたのんだ。空海が祈祷を行うと腹痛が止んだ。馬子は返礼に塩鯖を布施として渡したが、空海はその塩鯖に三密加持を行い、海に放ったところ、蘇生した塩鯖が海に帰ったという伝承に基づいて図像化した。

 

姿は修行大師とほぼ同様であるが、左手に鯖、右手に念珠を持している立像である。作例としては、鯖大師本坊の大師堂、大阪市港区・釈迦院の境内に鯖大師の石像がある。

 

瞬目大師(めひきだいし)

香川県善通寺蔵。「弘法大師御誕生所 屏風浦 善通寺略記」に拠れば、承元381日、土御門天皇が百官を伴い、真如様大師の絵像を叡覧されたところ、その絵像の眼が瞬きをされた。そのことから、土御門天皇が勅して、叡覧された絵像を「瞬目大師」と命名された。

 

廿日大師

高野山清浄心院蔵。木像で、背中に「微雲管」の三文字の記文がある。空海が入定の前日に自身の木像を刻み、背の上に「微雲管」と書き入れたと伝えられている。

 

萬日大師(まんにちだいし)

高野山金剛峯寺蔵。室町・桃山時代の木像で、真如様大師の形を踏襲している。椅子式の牀座・水瓶・木履はない。「紀伊続風土記」によると、ある行者が、弘法大師の像を約30余年間にわたり、礼拝したところ、空海が現れて「万日の功・真実なり」と言って、東方を向いた。行者が夢から覚めると、像の首が左に向いていたという伝承から、その像が、「萬日大師」と称されるようになったという。

 

北面大師(きたむきのだいし)

高野山三宝院蔵。鎌倉時代の木像で、真如様大師の形を踏襲している。椅子式の牀座・水瓶・木履はない。顔を右に向けているので、北向大師という名称となった。顔を北へ向けているのは、高野山より北の方角にある、京都の御所、すなわち、皇城鎮護のために祈る姿を表しているとされる。

2024/12/09

アイヌラックル (アイヌ神話)(3)

大鹿退治

あるとき、巨大な鹿が人間たちを襲うという噂がアイヌラックルの耳に届いた。さらには、夜中に魔女らしき者が現れるという噂もあった。神々の助言により、アイヌラックルはこの一連の噂こそ、魔神たちが勢力を増す兆しだと知り、地上の平和を守る神として、魔神たちと暗黒の国に戦いを挑む決心をした。

 

アイヌラックルは大鹿退治に出発した。途中、小川のほとりで美しい姫に出逢った。彼の妻となるべき白鳥姫であった。アイヌラックルは姫に一礼し、道を急いだ。

 

そして遂に大鹿が現れ、早速アイヌラックルに襲い掛かった。子供の頃によく鹿と相撲をとっていた彼も、通常の鹿の2倍はあろうかという巨体の前には、さすがに苦戦を強いられた。激しい死闘の末、遂にアイヌラックルは大鹿を倒した。

 

アイヌラックルは、この鹿は到底野生の者ではなく、もうすぐ成人する自分の力を試すため、天上の神々が遣わした者に違いないと悟った。アイヌラックルは大鹿を手厚く葬り、地上の神である自分は相手が何者であろうと戦わなければならないことを告げた。

 

そしてアイヌラックルが真新しい矢を天上目掛けて射ると、大鹿の魂はその矢に乗り、天上へと帰って行った。

 

魔神退治

大鹿退治から凱旋したアイヌラックルは白鳥姫に再会したが、大鹿と共に噂にのぼっていた魔女ウエソヨマが現れ、姫を奪い去った。アイヌラックルは憎き魔女を倒そうとするも、逆に魔女の魔力によって視力を奪われてしまった。

 

神々の助けでアイヌラックルは養育の砦へ辿り付き、養育の女神の治療を受け、全快に至った。一方で姫は、暗黒の国で牢獄に閉じ込められていた。

 

その夜、アイヌラックルは女神から授けられた天上の宝剣を手にし、防具に身を固めて1人で砦を発ち、地底への入口を通って暗黒の国へと進んだ。

 

不意のアイヌラックルの出現に、魔女ウエソヨマを始めとする多くの魔神や悪魔たちが驚き、襲い掛かってきた。アイヌラックルは魔女ウエソヨマたちを次々に斬り捨て、暗黒の国の大王をも征伐した。

 

大混乱に陥った暗黒の国で、アイヌラックルが宝剣を天にかざすと、激しい雷撃が国を襲った。アイヌラックルの父である雷神カンナカムイの力であった。稲妻のこもった宝剣をアイヌラックルが数度振り下ろすや、暗黒の国は火の海となり、12日間燃え続けた末に完全に消滅に至った。

 

アイヌラックルは愛する姫を救い出し、無事に地上の砦へと帰って行った。養育の女神は白鳥姫が地上に降りたことを見届け、天上へと帰って行った。

 

その後、初めての地上の神であるアイヌラックルは、魔物たちの脅威が消え失せた地上で、人間たちと共に平和に暮らし続けた。

 

晩年

魔神退治の他にも数々の武勇を遂げたアイヌラックルだが、晩年には人間たちが次第に堕落していった。遂にアイヌラックルは、それまで住んでいた地を離れ、いずこかへと去って行ってしまった。

 

それ以来、地上の悪事や災害は増す一方であり、人間たちはアイヌラックルを失ったことを激しく悔やんだ。しかしアイヌラックルは去り際に、決して人間すべてを見捨てたわけではなく、時おり雷鳴と共に人間たちを見舞うと告げていた。それゆえに人間たちは、雷鳴が轟くと、アイヌラックルの来訪といって拝むようになった。

 

別説

伝承には、以下を始めとする諸説がある。

 

父は日の神、もしくは歳神(パコロカムイ)、他。

アイヌラックルから妻となる姫を奪ったのは暗黒の国の魔女ではなく、別の村に住む巫女が姫に嫉妬し、姫をさらって牢に閉じ込めた。

上記以外にも、様々なパターンの話が存在する。

 

知里幸恵のアイヌ神謡集では、「オキキリムイ(okikirmui)」と表記され、サマユンクルとシュプンランカといとこ同士であるという。サマユンクルは「短気で、知恵が浅く、あわて者で根性が悪い弱虫」、オキキリムイは「神の様に知恵があり、情け深く、勇気があるえらい人」で、「その物語は無限というほど沢山」あるという。

 

しかし、地方によってはオキクルミとサマユンクル(サマイクル等とも表記される)が兄弟であったり、またサマユンクルの方が英雄神であったりといった様々なパターンがある。おおむね道央道南ではオキクルミが、道東道北ではサマイクルが尊ばれるというが、その区分も厳密なものではない。

 

伝承者によっては、人間の英雄とされるポンヤウンペ(ポイヤウンペ等とも表記される)と同一視されたり、兄弟とされる場合もある。その愛刀虎杖丸には、男女一対の雷神の化身である竜神(カンナカムイ)が憑依し守護している。

 

新井白石は『読史余論』で、オキクルミは源義経であろうと述べている(今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又、夷人飲食に必ずまつる。そのいはゆるヲキクルミといふは、即ち義経の事にて、義経のちには奥へゆきしなど言ひ伝へしともいふ也)。

2024/12/06

平城京(1)

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう/ならのみやこ)は、奈良時代の日本の首都。710年に藤原京から遷都するにあたり、唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。現在の奈良県奈良市、大和郡山市に存在する。

 

中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8 ( 4.3 km) の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。

 

大阪湾や淡路島(八島のひとつ)にも近い奈良盆地(奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部)には、5世紀中頃にはすでに天皇陵である佐紀盾列古墳群が作られ、またのちには大神神社、7世紀には興福寺も建立されているが、京となった8世紀には、東大寺や巨大な仏像である東大寺盧舎那仏像、法華寺などが建立された。本州の政治・文化の中心地となるに至って外京(げきょう)に位置した門前町が、今に続く奈良の町を形成する中心となった。

 

歴史

藤原京から平城京への遷都は、文武天皇在世中の慶雲4年(707年)に審議が始まり、和銅元年(708年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年(710年)310 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。

 

弘仁元年(810年)96日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、912日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。

 

薬子の変以後、平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に宇多上皇の南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが、大和国は江戸時代まで存続している。

 

名称

平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。

 

戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた。その後、少なくとも1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになる。これは平城天皇が「へいぜい」と読むことや、漢字音で「平」が漢音のへいと呉音のひょう、「城」が漢音のせいと呉音のじょうがあり、この音を漢音に統一するとへいぜいになることによるものと見られている。ただし「京」をきょうと読むのは呉音である。

 

研究者を中心に「へいぜい」の読みが見受けられ、『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが、一般には「へいじょう」が普及しており、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されている。

 

このように、平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。

 

都市計画の概要

平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられている。

 

東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。

 

平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。

 

市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。

 

唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし、先行する藤原京の場合、大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。

 

平城京の建築物

大極殿(再建)

平城宮(内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿は740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城(都城の周囲に造られた城壁)があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。

 

寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。この他、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。

 

2006310日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。羅城から十条大路推定域までが、新たに平城京南方遺跡として周知の遺跡に指定されている。

2024/12/05

空海(4)

弘法大師誕生佛

「聖徳太子弘法大師一體鈔」には、空海は聖徳太子の生まれ変わりであるという説が記されており、聖徳太子に酷似した像が造立される基となったとされる。そのためか「聖徳太子二歳像」に酷似している。また、大江匡房が記した大師讃に「合掌シテコソ生ケル」、要集に「宝亀五年甲寅(中略)金剛合掌シテ生ル」とある。上半身は裸体で、裙を着け、金剛合掌した立像である。絵像・仏像とも作例がある。

 

弘法大師誕生佛を稚児大師と称する場合がある。

弘法大師の誕生日とされる、615日に行う行事「青葉祭」では、釈迦の誕生を祝う「花まつり」にならい、金属製の弘法大師誕生佛を花御堂内の浴盤へ安置し、像の頭上から柄杓で甘茶を注ぐことを行う寺院もある。京都の仁和寺・東寺などで行われている。

 

等々力渓谷の稚児大師御影堂

「御遺告書」の中に空海が「56歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」とあるのに基づいて図像化した。袴を着けた童形の空海が金剛合掌し、蓮華座に座している。仏画・仏像とも作例がある。仏画では月輪を後背としている。

 

香川県の善通寺の所蔵の稚児大師は、童形の立像で両手をお腹あたりまで下げて、両手の掌の上で五輪塔を安置している姿である。

 

弘法大師の誕生日とされる、615日に行う行事「青葉祭」では、稚児大師を祀る真言宗の寺院も多い。また、真言宗の寺院が経営する保育所・幼稚園では、稚児大師が空海の幼少期の姿であることから、空海にあやかり通っている幼児・児童の守り仏として稚児大師を祀っている施設もある。

 

修行大師

袈裟・網代笠・錫杖・脚絆・草履の姿の立像が一般的である。手に仏鉢・念珠・五鈷杵を持した像がある。空海が巡錫・行乞・行脚し、修行している姿を彷彿とさせる姿である。遍路が出来ない人々は、修行大師を参拝することで修行大師が参拝した人の代わりになって、遍路を行ってもらえるという信仰がある。

 

真如様大師(しんにょようだいし)

真如式大師。御影大師(みえいだいし)。特に高野山壇上伽藍の御影堂に奉安されている真如親王が描いた空海の姿を「高野山本」と称することもある。水原尭栄 著『弘法大師影像図考』では、真如様大師のことを「普通大師」と記しているぐらい、空海の肖像で最も流布されている姿でもある。

 

高野山壇上伽藍・御影堂に奉安してある絵像の大師。真如式大師。真如親王が空海在世中に描いたとされ、空海が描かれた眼に筆を入れ、開眼したという伝承がある。椅子式の牀座に座し、前身に木欄色の袈裟をまとう。顔をやや右方向へ向け、右手に五鈷杵、左手に念珠を持つ。椅子の下には水瓶・木履が置かれている。

 

椅子式の牀座は天皇が空海に下賜したと伝わっている。また、水瓶が置かれている意味は、「瓶の中の水を一滴の水も遺さずに、もう一つの瓶へ移すように、師から弟子へ漏れなく密教を伝えること」を「写瓶相承」という。その喩えで、使われている水瓶を描くことで、空海が密教相承の正嫡であることを示している。また、現在、一般的に使われている真言宗の念珠とは形が異なっている、「御請来念珠」・「御影念珠」と言われる念珠を手に持している図像もある。

 

八祖式大師

栄海式大師。姿は真如様大師とほぼ同一だか、四脚床几に座している。真言八祖の肖像を作るとき、空海の肖像は、この様式を採ることが多い。他の七祖も四脚床几に座し、床には水瓶・木履が置かれている。

単独でこの様式が採られた作例もある。作例としては、絹本著色弘法大師像 画賛

 

入定大師

朝廷より大師号下賜の勅許が下されたことを報告するために、観賢らが空海が入定している高野山の岩窟を開扉し入定している空海に対面したが、その時の空海の姿を文献・伝承に拠って図像にした。木欄色の袈裟姿で長髪の空海が印を衣の袖の中で結んでいる。また、腕に念珠を掛けている図像もある。

真如様大師を入定大師と称することもある。

 

秘鍵大師

空海が記した「般若心経秘鍵」を根拠にし、空海が宮中にて「般若心経」を講讃する姿を図像にした。空海が木欄色の袈裟をつけ、月輪中に「般若心経秘鍵」を所持し、八葉蓮華上に座し、右手に「鍵」、紅色の円形の後背があるもの。円形の後背をつけ、座して右手に利剣、左手に念珠を持つ姿などがある。「般若心経」の本尊佛・疫病除の本尊として信仰されている。室町時代以降に盛んに流布されていたと推察される。

 

八宗論大日如来

嵯峨天皇が空海を御所の清涼殿へ召して、空海が他宗の学僧・高僧と論議を行った。その際、真言密教の奥旨を示すため、清涼殿で空海自身が大日如来の姿になった。その姿を図像にした。清涼殿大師。

 

日輪大師(にちりんだいし)

「入定形像空海」には、空海が日輪を抱いて入定したという伝承、「両部神道書」には、天照太神と空海の三昧が同心であると解釈し、日輪三昧を行ったと記されている。神仏習合の影響を色濃く受けている。

 

「諸尊真影本誓集」の中に、弘法大師御遺告略文の項目を立てて、弘法大師と天照尊が同体であると解釈し、常に「日宮」に居して日輪三昧に入っていると記されている。これは、空海が大日如来と同体で、大日如来と天照大神が同体であるという解釈から、「天照大神」と「弘法大師」を同体とみる信仰があると考えられる。空海の肖像のなかでも、特に神仏習合の影響を色濃く受けている。

 

作例としては、高野山奥之院護摩堂に祀られている弘法大師像で、厨子の中に納められている。赤蓮華座に結跏趺坐し、赤色円形の後背がある。法量・一尺九寸、台座を除いた身体のみの法量・七寸。江戸時代の作。

2024/11/30

白鳳文化(2)

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白鳳文化の特徴

白鳳(はくほう)文化は、いつ頃、どのようにして発展したのでしょうか。白鳳文化の担い手や特徴を見ていきましょう。

 

律令国家建設期に花開いた仏教文化

白鳳文化は、7世紀後半から8世紀の初めにかけて、藤原京を中心に栄えた仏教文化です。645年の大化の改新以降、日本は本格的な律令国家として歩みはじめます。

 

天武天皇や持統天皇を中心に、新しい国づくりに邁進するなか、遣唐使がもたらした大陸の最新情報に刺激を受け、これまでよりも開放的で寛大な文化が花開きました。

 

藤原京に中国の条坊制を採用

律令国家の整備にあたり、天武天皇は日本にも中国や朝鮮の王朝のような本格的な都城(とじょう)が必要と考えます。そこで天皇は、中国式の「条坊制(じょうぼうせい)」を採用した新しい都城・藤原京の建設に着手しました。

 

条坊制とは、街路を東西南北に碁盤の目のように配置する都市計画です。街を南北に貫く大通りを中心に、東西の街路「条」と、南北の街路「坊」が交わるのが特徴です。

 

藤原京は、持統天皇の代にはほぼ完成し、694年に日本の首都となります。710(和銅3)年の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代の天皇が居住しました。

 

漢詩文の流行と和歌の成立

7世紀の半ばに、朝鮮半島の国・百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、多くの百済人が日本に亡命してきました。彼らの影響で宮廷では漢詩文が流行し、大友皇子(おおとものみこ)や大津皇子(おおつのみこ)ら皇族が優れた作品を残しています。

 

漢詩文の伝来は、日本古来の文学・和歌にも大きな影響を与えました。それまで口伝だった歌は、漢字を使って表記されるようになり、五音や七音で構成する基本形式も定まります。

 

奈良時代に編さんされた『万葉集(まんようしゅう)』には、「額田王」や「柿本人麻呂」など、この時代に活躍した歌人の歌が多く収められています。

 

藤原京跡(奈良県橿原市)。蓮の花の奥中央に見えるのが、万葉集にも数多く詠われている畝傍山。標高199m。天香久山、耳成山とともに、大和三山と呼ばれ、国の名勝に指定されている。万葉集では、「瑞山(みずやま)」とも詠まれている。

 

「額田王」とは?

「額田王(ぬかたのおおきみ)」に関する資料は、非常に少なく、生没年や両親についても詳しいことは分かっていません。しかし『...

 

白鳳文化を代表する仏像・彫刻

仏教の影響を強く受けた白鳳文化は、たくさんの優れた仏像が生まれたことでも有名です。国宝に指定されたものも多く、今も見る人の心を安らかにしてくれます。

 

【国宝】薬師寺「金堂薬師三尊像」

薬師寺金堂に祀られる「薬師三尊像」(国宝)は、697年に寺の本尊として開眼法要が行われたとされる仏像です。「薬師如来」を中央に、向かって右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」が並んでいます。

 

薬師如来は、別名を「医王如来」といって、病気の苦しみから人々を救ってくれる医薬の仏として親しまれています。左右の菩薩は太陽や月のように、すべての人々を平等に見守る存在です。三体とも、当時の最高技術を駆使して造られたと思わせる、流れるような美しい姿勢が特徴といえます。

 

なお、薬師寺は天武天皇が創建を思い立ち、妻の持統天皇が完成させた寺院です。寺院にも本尊にも、両天皇の思いが詰まっており、まさに白鳳文化を代表する作品といえるでしょう。

 

薬師寺(奈良市)

国宝の東塔(左)は、現存する建築で、唯一、奈良時代に造られた仏塔。薬師三尊像が祀られている金堂は、1976(昭和51)年に再建された。西塔は、1981(昭和56)年の再建。

 

【国宝】興福寺「銅造仏頭」

「銅造仏頭(ぶっとう)」は、天武天皇が飛鳥山田寺の本尊として造らせた、薬師如来像の頭部です。685年に開眼されたとの記録があり、白鳳文化を語るうえで欠かせない存在といえます。

 

仏像は1187(文治3)年に興福寺の東金堂本尊として移されますが、1411(応永18)年に落雷による火災で頭部以外は焼失してしまいました。焼け残った頭部は、本尊の台座に納められたまま忘れ去られ、1937(昭和12)年の東金堂解体修理の際にようやく発見されたのです。

 

白鳳時代の仏像に特有の、若々しく伸びやかな表情が印象的で、全身が残っていないことが大変惜しまれます。

 

興福寺東金堂(奈良市)

銅造仏頭が発見された東金堂は、国宝。現存する東金堂は、室町時代の1415(応永22)年に再建された6代目で、1998(平成10)年、世界遺産に登録された。

 

【国宝】法隆寺「阿弥陀三尊像」

法隆寺の「阿弥陀三尊像」は、日本最古の「念持仏」として有名です。念持仏とは、個人宅に安置して崇拝されていた仏像のことです。

 

「阿弥陀三尊像」の持ち主は天武天皇から聖武天皇まで、長く宮廷に仕えた女官「県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)」と伝わっています。

 

宮廷内で強い力を持っていた彼女は、藤原不比等との間に生まれた自分の娘を、聖武天皇に嫁がせます。娘は皇族以外から出た初の皇后となり、一族の繁栄に貢献しました。

 

白鳳文化を代表する絵画

白鳳文化が発展した時期に造られたとされる寺院や古墳の壁には、美しい壁画が残っています。それぞれの代表的な作品を紹介しましょう。

 

法隆寺「金堂壁画」

法隆寺は、7世紀の初めに聖徳太子(厩戸皇子)が創建した寺院で、「金堂」や「五重塔」は、現存する世界最古の木造建築として有名です。金堂の外陣(一般の人々が拝礼する部分)の壁には、12面にわたって釈迦や阿弥陀がいる浄土の世界が描かれています。

 

インドの「アジャンター石窟寺院」や、中国・敦煌の「莫高窟(ばっこうくつ)」に描かれた壁画とよく似ており、当時の日本が中国仏教の影響を強く受けていたことが分かります。

 

壁画は、アジア仏教美術の至宝として修復・保存が急がれていましたが、1949(昭和24)年に起きた火災で表面の彩色がほぼ失われてしまいました。

 

現在の法隆寺では、火災直前に撮影した写真原版を元に、デジタル化した画像をインターネットで公開しています。

 

法隆寺金堂壁画ガラス原板 デジタルビューア|Glass Photographic Plates of the Murals in the Kondō Hall of Hōryūji Temple―Digital Viewer―

 

高松塚古墳「壁画」

高松塚古墳は、直径18mほどの小さな古墳で、埋葬者が誰かも分かっていません。しかし1972(昭和47)年に、石室の内部に壁画(国宝)が見つかったことで一躍有名になりました。

 

高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村国営飛鳥歴史公園内)。藤原京期に造られた高さ5mの二段式円墳。墳丘は、2009(平成21)年に、造られた当初の形に整備され一般公開されている。壁画は紆余曲折を経て、2020(令和2)年3月、12年かけて行われた保存修理が完了した。

 

東西南北の壁には、それぞれの方角を司る「四神(しじん)」が、天井には星座が描かれています。面積の広い東西の壁には、手前に男性、奥に女性で4人ずつ、計16人の人物がいます。

 

なかでも西壁に描かれた女性4人の絵は、色彩が鮮明に残っていたことから「飛鳥美人(あすかびじん)」と名付けられ、カラー写真で広く紹介されました。

 

1983年には、高松塚古墳の南に位置する「キトラ古墳」でも、同様の構図で描かれた壁画が発見されています。天井の天文図は、太陽・月・赤道などが描かれた本格的なもので、現存する中国式星図の中でも最も古いとされています。

2024/11/28

空海(3)

天長8年に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化と、その存続のために尽力した。とくに承和元年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可され、その10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定した。

 

延喜21年(921年)1027日、東寺長者観賢(かんげん)の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)と桧皮色の御衣下賜の勅命が下された。その後、観賢とその弟子の淳祐(しゅんにゅう)は下賜伝達のため高野山の御廟へ行った。

 

高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内に、昭和天皇宸筆の扁額「弘法」が掲げられている。

 

最初は「本覚大師」の諡号とされていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号となった。中世に入ると、空海の評伝は絵画化された。「弘法大師伝絵」と呼ばれ、絵巻の作品が中心である。「高野大師行状図画」、「弘法大師行状絵巻」など空海のさまざまな伝説が、全国に知られる一因ともなった。

 

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥之院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認することが修行の一環となっている。なお、真言宗醍醐派では、空海に大師号が贈られる以前から帰依し、信仰していたことを強調するため「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。

 

故郷である四国において、彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

 

入定に関する諸説

高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥之院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされている。

 

歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。

 

現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』である。

 

後述のように、空海に関しては史実にまして伝承が多く、開山伝説や開湯伝説などが無数に存在する。

 

入定(にゅうじょう)は、真言宗に伝わる伝説的信仰。

原義は単に「禅定(ぜんじょう)に入る」という意味だが、ことに弘法大師空海が永遠の瞑想に入っているという信仰を指す。

 

空海の入定信仰

空海は835年(承和2年)に入定したが、生死の境を超え弥勒菩薩出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定していると信じられている。

 

「生身供(しょうじんぐ)」は、入定後から現在まで1200年もの間続けられている儀式のひとつで、奥之院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が12回、御廟の空海に衣服と食事を届けることが行われている。霊廟内の模様は維那以外が窺うことはできず、維那を務めた者も他言しないため部外者には不明のままである。

 

伝真済撰『空海僧都伝』によると、空海の死因は病死とされる。『続日本後紀』によれば、遺体は荼毘に付されたようである。しかし後代には、入定したとする文献が現れる。現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。

 

『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。

 

また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年321日に高野山の宝亀院が行う空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることがあげられている。

 

その他の「入定」

後世、断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命してそのままミイラ化する、いわゆる「即身仏」となる行為も、空海の入定信仰にあやかって俗に「入定」と呼ばれるようになった。しかし、それは真言密教の教義に由来するものではなく民間信仰の領域であり、空海の入定信仰とは本質的に異なるものである。

 

十大弟子

元慶21111日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされ、釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師十大弟子とも称するようになった。十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。

 

その他の弟子

付法弟子とされる10人以外にも多くの弟子がおり、貞享元年成立の智灯『弘法大師弟子伝』では計20人の記述があり、弟子全てを網羅することを目指した天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』では、計70人を載せている。

 

著名な弟子としては以下の僧が挙げられる。

 

ü  『弘法大師弟子伝』…堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体

ü  『弘法大師弟子譜』…円行、最澄、光定、円澄

 

肖像

弘法大師信仰の高まりにともない、様々な空海の肖像が作成された。空海が遺したとされる「御遺告」や空海の評伝に拠ったものが多い。その図像は、多岐にわたり、寺院などに祀られるだけでなく、空海の生涯を振り返り、日本各地に伝わる空海の伝承を知るよすがとなっている。また、図像は御札・お守りなどとして現在も広く流布し、弘法大師信仰が展開した形のひとつともなっている。