発掘・調査
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北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大內裏跡坪割之図』にまとめた。
1897年(明治30年)には、地理学者の河田羆が中心となって編集された『沿革考証日本読史地図』にも図が掲載された。
さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40年)に発表した。 棚田嘉十郎によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。
大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。
1961年に初めて木簡が出土し、1967年には、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に池を掘り、橋をかけ建物を建てていた。「続日本紀」にある「東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は平城宮東院庭園と呼ばれ、国の特別名勝の指定を受けている。
さらに1978年、宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に特別名勝、また朱雀大路の一部(二条-三条あたり)は1984年に史跡に指定されている。
平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。「奈良そごう」(当時)建設に際した発掘調査で、1988年に出土した木簡は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。米を管理する大炊司、氷を貯蔵する氷室の管理をする水取司などの家政機関や使用人の居住区、倉庫などがあった。倉庫には、米・麦・鮑など、さまざまな物資が運び込まれていた。また、木簡から当時の皇族や貴族が食べたという乳製品である蘇(そ)も、長屋王家の食卓にあがっていたことが分かっている。
近鉄奈良線
大阪電気軌道が1914年に現在の近鉄奈良線を開業した際には平城京の正確な範囲は明らかとなっていたが、世間の注目も薄く(新聞紙法などの言論検閲もあり)、結果的に平城宮の中を走行するようになった。
その他
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遷都の年号の語呂合わせは「奈(7)良、唐(10)にならって平城京」、「奈良の710(納豆)平城京」。もしくは「710(なんと)○○平城京」(「なんと」は感嘆詞の“何と”または“南都”、○○には“きれいな”“大きな”“素敵な”“立派な”“美しい”などの言葉が入る)などがある。
平城京はシルクロードの終着点でもあることから、国際的な都市であった。京内には唐や新羅、遠くはインド周辺の人々までみられたという。その時代をうかがわせるのが東大寺正倉院の宝物などである。
桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由として、平城京の地理的条件と用水インフラストラクチャーの不便さがあった。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。なお、平城京が模範とした長安も、大運河から離れていることによる水運の不便さが一因となって、五代以降洛陽・開封などに首都の地位を奪われている。
近年の説としては、平城京の外港であった難波津における土砂の堆積と三国川(現在の神崎川)の工事による淀川との接続が、首都の所在地を大和国(飛鳥京・藤原京・平城京)から山城国(長岡京・平安京)に変えたとする説がある。古代の日本の東西間の交通は西国より水路で難波津に上陸し、奈良盆地を横断して鈴鹿関を通って伊勢湾を横断して東国に向かう経路が採用されており、大和国はその中継地点であった。ところが、8世紀に入ると、土砂の堆積で難波に船を着けることが困難になったことで西国との交通に支障が生じ、東国との交通においても馬の同伴が困難な伊勢湾横断が敬遠され、尾張国から美濃国の不破関を目指す不正規な迂回ルートが用いられるようになっていった。
こうした中で難波津-大和国-鈴鹿関(東海道)ルートの優位性が失われ、代わりに淀川-山城国-不破関(東山道)ルートが採用されるようになると、首都もそのルートの中継地点である山城国に移ったとするものである。これは三国川の工事に合わせるかのように、長岡京への遷都と平城京・難波宮の廃止が行われていることから指摘されている。
平城京遷都に際しては田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して用いた。このため田上山ははげ山となり、江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているがいまだ植生は回復していない。
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