2024/04/19

乙巳の変(4)

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大化の改新の先端を切った暗殺事件。

 

概要

時は西暦640年代。当時の朝廷は聖徳太子というやかましい優等生が死んで以来、蘇我蝦夷・入鹿親子が掌握していた。蘇我親子は、聖徳太子の息子である山背大兄王を始末し、時の天皇(皇極天皇)の後継者として入鹿の従弟(蘇我馬子の外孫)の古人大兄皇子を据えようとしていた。

 

それじゃガマンならんと立ち上がったのが皇極天皇の長男中大兄皇子であり、重臣の中臣鎌足や入鹿の従弟蘇我石川麻呂等と結託し、蝦夷・入鹿の専横を断つべく暗殺計画を練った。

 

この作戦こそが乙巳の変であり、よく学校の歴史の時間では「大化の改新」と教えられるが、大化の改新は乙巳の変をきっかけとする一連の制度改革であり、暗殺事件自体を指す言葉とは少し違う。例えるなら童話の「金太郎」が乙巳の変で、おおもとの「源頼光物語」が大化の改新である。

 

西暦645710日(当時、元号は存在しなかった。旧暦では612日)。朝鮮半島を支配する高句麗・百済・新羅の三国からの使者が朝廷を訪れ、入鹿もこれに同席する。石川麻呂は上表文を読み、そちらに入鹿が気を取られている隙に中大兄皇子と鎌足、その部下たちが怒鳴り込み、天皇の眼前で入鹿を滅多切りにして殺害する。

 

これを知って仰天した蝦夷は、すぐさま身を固め中大兄皇子との対決に乗り出すも、既に豪族たちは中大兄皇子に取り込まれており、あくる711日に敗北を悟った蝦夷は屋敷に火を放ち自害する。

 

眼前で殺人を目の当たりにし憔悴した皇極天皇は、翌712日に皇位を禅譲した。中大兄皇子は、ここで継承すると自分が天皇になりたくて蘇我親子を殺したと即バレてしまうので、おじ(皇極天皇の異母弟)の軽皇子を即位させた(後の孝徳天皇)。

 

こうして中大兄皇子は元号を「大化」とし、租庸調や国郡里制度など政治改革に乗り出す。彼こそが後の天智天皇である。

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