2024/04/09

乙巳の変(3)

蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子は、私宮へ逃げ帰った(この時皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。これは古来から難解な言葉とされており、対朝鮮政策をめぐる路線対立故に出た言葉であるとされることもあるが、殺人犯が中大兄皇子であったと公言できず、儀式の場に参列していた三韓の使節が入鹿を殺したという虚偽の言葉を語ったと考えられる。

 

中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。飛鳥板蓋宮ではなく飛鳥寺が選ばれたのは、当時の氏寺には築地塀があり、砦としてふさわしかったと考えられる。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の館に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳太を派遣して説得(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を伝え、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)して立ち去り、蘇我氏陣営にいた高向国押も漢直を説得し、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった。高向氏は蝦夷と同世代に分かれた、蘇我氏同族氏族の中でも有力な氏族であり、この氏族の中から本宗家を滅亡に導く決定的な役割を果たしたものが出たことになる。

 

613日(711日)、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船恵尺が、この内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

 

614日(712日)、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。

 

日本書紀の潤色について

20世紀中後期頃までは、『日本書紀』の信憑性が評価され、乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。196712月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている。

 

諸説

軽皇子首謀者説

遠山美都男は、中臣鎌足・中大兄皇子は反乱蜂起した一団の一部にすぎず、軽皇子が変の首謀者だと推測している。変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている。

 

半島諸国モデル説

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文の政変を意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信(『三国史記』金庾信列伝によると、金庾信は中国黄帝の子・少昊の子孫である)らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された王子・豊璋が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が、倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解もある。

 

反動クーデター説

2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(はざまのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置き、外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。

 

当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め、各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」は、その後に行われたと考えられる。

 

皇極王権否定説

乙巳の変は、これまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。その意義について佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり、実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極天皇は殺害される代わりに強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。

 

ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄皇子は、最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

 

だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は、百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたというのである。

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