2024/11/13

空海(1)

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835422日〈承和2321日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお。

 

日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

 

仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。

 

生涯

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善通寺(香川県善通寺市)

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘の玉依御前。幼名は眞魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を615日と云われているが、正確には不詳である。

 

延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。

 

延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだ。

 

仏道修行

延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著し、俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは不詳。『大日経』を初めとする密教経典に出会い、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした。

 

この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かっている。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかとの異説も立てられている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。

 

空海の得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、延暦23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知ったとされる、入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。太政官譜では、延暦23年(804年)47日出家したと記載する。空海という名は太政官譜が初出である。鎌倉時代成立の『御遺告』には、私度僧として無空とも名乗ったともある。

 

入唐求法

延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る。第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいたが、空海はまったく無名の一沙門だった。同年512日、難波津を出航、博多を経由し76日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から入唐の途についた。

 

空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

 

空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)810日、福州長渓県(中国語版)赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している。その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年113日に長安入りを許され、1223日に長安に入った。

 

永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけた。空海は般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられる。

 

5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は613日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。

 

810日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

 

8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

 

同年1215日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)117日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し、2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て、その帰国に便乗する形で8月に明州を出航して、帰国の途についた。

 

途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという。

2024/11/12

天地開闢 (アイヌ神話)

天地開闢(てんちかいびゃく)では、アイヌ民族における天地開闢と国造り神話について説明をする。

 

以下は、1858年(19世紀中頃・本州の時代区分でいう幕末)の夏に、タツコプ・コタン(現夕張郡栗山町字円山)の83歳になるエカシ=おじいさん(1775年前後の生まれ)が、松浦武四郎のために夜通し炉辺で詠ったユーカラを記録したものの現代語訳である。また、東蝦夷地(北海道南部)における伝承であり、西蝦夷地(北海道北部)については語られていない。

 

天地(空・島)とカムイの始まり

昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島(現北海道)となった。島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした氣が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の氣からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。

 

別のユーカラによる大地創造については、「アイヌモシリ」を参照。

 

アイヌモシリは、アイヌ語で「人間の大地」を意味する言葉。また16世紀以降で、北海道周辺を指すアイヌ語の地名。

 

概要

アイヌ民族は自分たちの生活圏をアイヌモシリと呼んだ。カムイモシリ(カムィモシㇼ(kamuy mosir)、神々の住まう地)やポクナモシリ(アイヌ語仮名表記:ポㇰナモシㇼ、あの世・冥界)との対比においては「人間の地、現世」を意味する。

 

また、アイヌモシリは「アイヌの大地」「アイヌのくに」とも解され、北海道周辺・樺太南部・千島列島など古くからのアイヌの居住地(アイヌ文化圏)も指す。

 

対となる語に、カムイモシリ(アイヌ語仮名表記:カムイモシㇼ(kamuy mosir)、神の住むところ)がある。また本州をシサムモシリ(アイヌ語仮名表記:シサㇺモシㇼ(sisam mosir)、隣人の島)、サモロモシリ(アイヌ語仮名表記:サモㇿモシㇼ(samor mosir)、隣の島)と呼んだ。

 

「モシㇼ」は「大地」「国土」「世界」などと訳される言葉であるが、これをさらにモ・シㇼ(mo-sir)と分解し、モに「静かである」という意味があることから「静かな大地」と訳されることもある。

 

アイヌモシリに関連する伝説

古来、アイヌ民族に伝えられてきた神話(アイヌラックル)に、アイヌモシリに関して次のような伝承がある。

 

未だこの地上になにものも存在しない頃、神々が集まってきて、人びとの調和する大地、アイヌモシリを創るための相談をした。モシリ・カラ・カムイ(大地・創造・神)という男神、イカ・カラ・カムイ(花・創造・神)という女神がそれぞれ、大地創造のために降臨された。

 

この2人の神は、レェプ・カムイ(犬神)とコタン・コロ・カムイ(梟神)と共にアイヌモシリを創った。モシㇼ・カラ・カムイは山や野原、川をつくり、イカ・カラ・カムイは樹木や美しい草花をつくったあと、今度は粘土を使ってクマやウサギなどの動物達を創っていった。最後に、2人の神は互いに似せた男女をつくった。

 

アイヌモシリの創造が終わると、高い山の上の広い平原(シノッ・ミンタラ)にほかの神々が訪れ、見事に出来上がったアイヌモシリを見て喜びあった。

 

アイヌ(人間)は、初め洞窟に住んでいたが、やがて、シノッ・ミンタラに姿をあらわして神々と交流するようになり、神々に踊りや歌、言葉を教わった。やがてアイヌは神の生活をまねて地上に家を建て、火や道具を使って住むようになった。

 

こちらでは大地創造以前から神々がいて、男神と女神の二柱によって島が創造されたとし、動物に関しても、後述の白色の雲によって生み出されたのではなく、粘土によって生み出されたとする。

 

「北海道アイヌ」とは別に、「千島アイヌ」には、千島列島全島を創造した柱であるコタンヌクルというカムイ(千島の創造神)の語りが伝えられており、アイヌの創造神話体系は一様ではない。

 

五色雲による世界の構築

この二柱の神達が五色の雲の中の青い雲を(現在の)海の方に投げ入れ、「水になれ」と言うと海ができた。そして黄色の雲を投げて、「地上の島を土でおおいつくせ」と言い、赤い雲を投げて、「金銀珠玉の宝物になれ」と言い、白い雲を投げて、「草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と言うと、それぞれのモノができあがった。

 

多くのカムイの誕生

その後、天神・地神の二柱の神達は、「この国を統率する神がいなくては困るが、どうしたものだろう」と考えていられるところへ、一羽のフクロウが飛んで来た。神達は「何だろう」と見ると、その鳥が目をパチパチして見せるので、「これは面白い」と二柱の神達が、何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。

 

日の神と月の神

沢山の神々が生まれた中で、ペケレチュプ(日の神)、クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)から、クンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。また、この濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄山)であると言う。

 

『蝦夷島奇観』では、ノツカマップ=根室半島の首長であるションコの話として、シリベシ山(後方羊蹄山)を「最初の創造陸地」としている点で伝承が同じである。多くのアイヌが、この地を始まりの地と認識していた事が分かる。

ペケレは「明るい」を意味し、チュプは「太陽」を意味する。一方、クンネチュプは、直訳すれば、「黒い太陽」である。

 

神々による文化の始まり

沢山生まれた神々は、火を作ったり、土を司る神となったりした(最初から役割が定まっていないのが特徴)。火を作った神は、全ての食糧=アワ・ヒエ・キビの種子を土にまいて育てる事を教え、土を司る神は、草木の事の全て、木の皮をはいで着物を作る事などを教えた。その他、水を司る神、金を司る神、人間を司る神などがいて、サケを取り、マスをやすで突き、ニシンを網で取ったり(この神は江差に祭られている姥神と考えられている)、色々と工夫をして、その子孫の神々に教えられた。

 

アイヌの創造と人祖神降臨

こうしてアイヌモシリは創造され、次いで他の動物達も創造される。さらに神の姿に似せた「人間(アイヌ)」も創造される。その後は、神々の国と人間界とを仲介する人祖神アイヌラックル(オキクルミ・オイナカムイ)が登場する事となる(日本神話でいう天孫降臨神話に近い)。彼は沙流(サル)地方(現日高・平取町)に降りた。

 

アイヌラックルに関する神話は各地によって差異がある。

沙流地方に降りたとする神話では、父母の神に頼み、モシリ(国土)に降りたとする(初めから天神として語られている)。この時、アイヌはまだ火の起こし方も知らなかったとされている。

 

備考

    『古事記』における日本神話と内容が類似する。

    雌岳の方に日の神が向かったことからも、太陽神が女性の方を連想させる。また日の神・月の神は、共に地上で誕生し、黒雲で空に昇ったとしている。

    語りに出る「金を司る神(カムイ)」を金属神と捉えた場合、北海道に鉄器が伝来・普及した時期を考慮しても、日本神話より成立が古いと考えるのは難しい(日本最古の鉄器出土例は九州北部の前4世紀の鉄斧片)。

    多くのカムイが産まれたきっかけとしてフクロウが登場する(動物の中でも早い段階で創造されている)。

    カムイには子孫が存在することから人間と同様に寿命が設定されている。

    「カムイに似せて人を創った」とする考え方は日本神話より西洋諸国に見られる。

    天地(空・島)の後に二柱のカムイと海が形成された(神名はない)。一方、日本神話においては、国産みの神たるイザナギ・イザナミの親神より以前に葦が自然に生じており、植物の方がいち早く産まれている。

    「五色雲」は青・黄・赤・白・黒の色から成り、五行思想における五色の影響が見られる。

    青森県八戸市には『或る殿様の娘が島流しに遭い、漂着した島で陸に引き上げてくれた犬と結婚し、出来た子供がアイヌの祖先である』という民話が伝わる。

2024/11/07

大宝律令(2)

https://hugkum.sho.jp/249209

大宝律令とは、どのようなものなのでしょうか?

大宝律令の概要と、その後に制定された「養老(ようろう)律令」との違いも解説します。

 

701年に施行された法典

大宝律令は701年、文武(もんむ)天皇により施行された法典です。この法典の施行によって、刑法・行政法・民法が日本で初めてそろいました。唐(とう)の律令制度を見本に作成され、施行が大宝元年であったことから、大宝律令と呼ばれています。

 

律令の「律」とは刑法のことで、罪を犯したときに、どのような刑罰が与えられるかを示したものです。「令」とは行政法・民法のことで、国や政治の仕組みや税などについて定められています。

 

この律令は、律が6巻、令が11巻の計17巻で構成されていました。現在、大宝律令そのものは残っておらず、さまざまな文献などから内容が推定されています。

 

養老律令との違い

大宝律令に関連する法典の一つが、養老律令です。編纂(へんさん)は、右大臣「藤原不比等(ふじわらのふひと)」の主導で行われました。

 

大宝律令より後に制定されたものですが、全く新しい内容ではありませんでした。養老律令を編纂した藤原不比等は大宝律令の編纂にも関わっていますが、大宝律令には少し不備があったとされています。この不備を修正し、新たに制定されたのが養老律令です。

 

養老律令の制定は718年(養老2)という説がありますが、定かではありません。720年(養老4)に藤原不比等が亡くなったことなどから作業が停滞したとされており、757年(天平勝宝9)に施行されています。

 

大宝律令成立までの流れ

それでは大宝律令は、どのような経緯で成立したのでしょうか?

成立するまでの背景や、編纂に関わった人物についてみていきましょう。

 

中央集権国家の確立が目的

大宝律令が制定された背景には、大きな目的として「中央集権国家の確立」があります。日本では当時、徐々に朝廷による支配が行われるようになっていました。しかし、地方豪族の力がいまだに強く、内乱も絶えず、安定した体制とはいえない状態が続いていたのです。

 

このような状況では、力を増してきていた唐・新羅(しらぎ)などの外国から攻め入られたときに対抗することができません。国を一つにまとめ、国力を高めるには、天皇中心の体制を作ることが大切で、そのために律令が必要だと考えられました。

 

681年に天武(てんむ)天皇が律令制定を命じたことから、本格的な律令の制定に取り組むことになったのです。

 

最初は「令」のみ制定

唐にならって、日本でも律令制度を取り入れようという動きは、天智(てんじ)天皇のころから見られるようになりました。天智天皇と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が制定した「近江令(おうみりょう)」が、日本で初めて制定された令とされています。

 

談山神社(奈良県桜井市)。645年、中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)が、この多武峰(とうのみね)で大化改新の談合を行ったことから、「談い山(かたらいやま)」と呼び、談山神社の名の由来となったという。

 

また、その後、持統(じとう)天皇によって「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」も発布されました。しかし、あくまでも令のみで律はなく、唐にならいすぎていて、日本にはなじまない箇所もあったといわれています。

 

編纂に関わった中心人物

大宝律令の編纂は、「刑部親王(おさかべしんのう)」と藤原不比等の2人が中心となりました。刑部親王は律令制定を命じた天武天皇の第9皇子で、藤原不比等は近江令を制定した中臣鎌足の次男です。

 

刑部親王が編纂事業をまとめるリーダーではありましたが、実質的な作業は、藤原不比等が中心となって進められていきました。

 

この2人を含め、全員で19人が大宝律令の編纂に関わったとされています。編纂のメンバーには、唐出身の官僚や渡来系氏族などが多く含まれていました。

 

大宝律令の内容

日本初の律令である大宝律令は、どのような内容だったのでしょうか?

律と令、それぞれについて、定められた内容を詳しく紹介します。

 

律の刑罰について

律では、「五刑八逆(ごけいはちぎゃく)」について示されています。五刑とは「笞(ち)刑・杖(じょう)刑・徒(ず)刑・流(る)刑・死刑」の五つで、罪を犯したときに与えられる罰のことです。

 

笞刑は細い棒で打つこと、杖刑は太い棒で打つこと、徒刑は懲役刑(最大3年)を指します。流刑は、近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)と3段階ある島流しで、死刑は絞首刑と斬首(ざんしゅ)刑の2種類です。

 

貴族は金銭を納めることで、五刑を免除される場合もありました。しかし、八逆と呼ばれる重大な犯罪、謀反(むへん)・謀大逆(むだいぎゃく)・謀叛(むほん)・悪逆(あくぎゃく)・不道(ふどう)・大不敬(だいふけい)・不孝(ふきょう)・不義(ふぎ)を犯した際には、貴族でも許されず、死刑になることが大半だったとされています。

最澄(6)

書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには、次のようなものがある。

 

天台法華宗年分縁起

『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。

 

ü  『請続将絶諸宗更加法華宗表』- 天台法華宗に年分度者2名を認めるよう上奏した書の控え。延暦2513日。

ü  『賀内裏所問定諸宗年分一十二人表』- 朝廷からの諮問に対して、南都の僧綱が天台法華宗に年分度者2名を許可すべきと上奏した書の写し。延暦2515日。

ü  『更加法華宗年分二人定諸宗度者数官符』- 天台法華宗に年分度者2名が認められた旨を支持する公文書の写し。延暦25126日。

ü  『天台法華宗年分得度学生名帳』- 大同2年(807年)から弘仁9年(818年)までの12年間に延暦寺で学んだ年分得度学生の名簿と、さらに弘仁10年分の2名を加筆した書。弘仁10年。

ü  『請先帝御願天台年分得度者随法華経為菩薩出家表』- 大乗戒壇設立を願い出た書。弘仁9521日。

ü  『天台法華宗年分学生式』- 大乗戒壇設立にあたり僧がまもる規律などを記した書。通称、六条式。弘仁9513日。

 

久隔帖

『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)1125日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるので、この名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」。

 

『久隔帖』最澄筆

久隔清音馳

恋無極

傳承安和且慰下情

大阿闍梨所示五八詩序中有一百廿禮仏

并方圓圖

并註義等名

今奉和詩未知其礼仏圖者

伏乞

令聞 阿闍梨

其所撰圖義並其大意等

告施其和詩者怱難作

著筆之文難改後

代惟示其委曲

必造和詩奉上 座下

謹附貞聡仏子奉状和南

弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上

高雄範闍梨法前

(以下省略)

 

『久隔帖』

文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』と、その大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である。

 

越州将来目録

『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。

 

羯磨金剛目録

『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。

 

空海将来目録

『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。

 

和歌

最澄が詠んだ和歌が9首伝わっている。

 

比叡山中道建立の時

阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我立杣に冥加あらせ給へ

 

『新古今和歌集』

この歌について正岡子規は「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候(『九たび歌詠みに与ふる書』)」と賞賛している。

 

法華二十八品歌の中に

<方便品>

三の川ひとつの海となる時は舎利弗のみそまつ渡りける

<法師品>

この法をもし一こともとく人はよもの仏のつかひならすや

<分別功徳品>

我命なかしとききてよろこへる人はさなから仏とそなる

『新続古今和歌集』

比叡山の中堂に始て常燈ともしてかけ給へける時

あきらけく後の仏の御世まても光つたへよ法のともし火

『新拾遺和歌集』

末代の衆生のねかひをよめる

末の世のいのりもとむる其事のしるしなきこそしるしなりけれ

『和論語』

比叡山をよめる

おのつからすめは持戒の此山はまことなるかな依身より依所

『和論語』

みかとの御為に経のかき給ひし奥に

となへても君をのみまたいのりけれは幾代ふるとてたえしと所思ふ

となへてもきみをのみまたいのりけれはいくよふるともたへしとそ思ふ

『和論語』

伝教大師童形像

伝教大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺(滋賀県大津市)、雙林寺(京都府京都市)、三千院(京都市)、松尾寺(大阪府和泉市)、能福寺(兵庫県神戸市)、普光寺(兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺(山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。