2024/11/30

白鳳文化(2)

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白鳳文化の特徴

白鳳(はくほう)文化は、いつ頃、どのようにして発展したのでしょうか。白鳳文化の担い手や特徴を見ていきましょう。

 

律令国家建設期に花開いた仏教文化

白鳳文化は、7世紀後半から8世紀の初めにかけて、藤原京を中心に栄えた仏教文化です。645年の大化の改新以降、日本は本格的な律令国家として歩みはじめます。

 

天武天皇や持統天皇を中心に、新しい国づくりに邁進するなか、遣唐使がもたらした大陸の最新情報に刺激を受け、これまでよりも開放的で寛大な文化が花開きました。

 

藤原京に中国の条坊制を採用

律令国家の整備にあたり、天武天皇は日本にも中国や朝鮮の王朝のような本格的な都城(とじょう)が必要と考えます。そこで天皇は、中国式の「条坊制(じょうぼうせい)」を採用した新しい都城・藤原京の建設に着手しました。

 

条坊制とは、街路を東西南北に碁盤の目のように配置する都市計画です。街を南北に貫く大通りを中心に、東西の街路「条」と、南北の街路「坊」が交わるのが特徴です。

 

藤原京は、持統天皇の代にはほぼ完成し、694年に日本の首都となります。710(和銅3)年の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代の天皇が居住しました。

 

漢詩文の流行と和歌の成立

7世紀の半ばに、朝鮮半島の国・百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、多くの百済人が日本に亡命してきました。彼らの影響で宮廷では漢詩文が流行し、大友皇子(おおとものみこ)や大津皇子(おおつのみこ)ら皇族が優れた作品を残しています。

 

漢詩文の伝来は、日本古来の文学・和歌にも大きな影響を与えました。それまで口伝だった歌は、漢字を使って表記されるようになり、五音や七音で構成する基本形式も定まります。

 

奈良時代に編さんされた『万葉集(まんようしゅう)』には、「額田王」や「柿本人麻呂」など、この時代に活躍した歌人の歌が多く収められています。

 

藤原京跡(奈良県橿原市)。蓮の花の奥中央に見えるのが、万葉集にも数多く詠われている畝傍山。標高199m。天香久山、耳成山とともに、大和三山と呼ばれ、国の名勝に指定されている。万葉集では、「瑞山(みずやま)」とも詠まれている。

 

「額田王」とは?

「額田王(ぬかたのおおきみ)」に関する資料は、非常に少なく、生没年や両親についても詳しいことは分かっていません。しかし『...

 

白鳳文化を代表する仏像・彫刻

仏教の影響を強く受けた白鳳文化は、たくさんの優れた仏像が生まれたことでも有名です。国宝に指定されたものも多く、今も見る人の心を安らかにしてくれます。

 

【国宝】薬師寺「金堂薬師三尊像」

薬師寺金堂に祀られる「薬師三尊像」(国宝)は、697年に寺の本尊として開眼法要が行われたとされる仏像です。「薬師如来」を中央に、向かって右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」が並んでいます。

 

薬師如来は、別名を「医王如来」といって、病気の苦しみから人々を救ってくれる医薬の仏として親しまれています。左右の菩薩は太陽や月のように、すべての人々を平等に見守る存在です。三体とも、当時の最高技術を駆使して造られたと思わせる、流れるような美しい姿勢が特徴といえます。

 

なお、薬師寺は天武天皇が創建を思い立ち、妻の持統天皇が完成させた寺院です。寺院にも本尊にも、両天皇の思いが詰まっており、まさに白鳳文化を代表する作品といえるでしょう。

 

薬師寺(奈良市)

国宝の東塔(左)は、現存する建築で、唯一、奈良時代に造られた仏塔。薬師三尊像が祀られている金堂は、1976(昭和51)年に再建された。西塔は、1981(昭和56)年の再建。

 

【国宝】興福寺「銅造仏頭」

「銅造仏頭(ぶっとう)」は、天武天皇が飛鳥山田寺の本尊として造らせた、薬師如来像の頭部です。685年に開眼されたとの記録があり、白鳳文化を語るうえで欠かせない存在といえます。

 

仏像は1187(文治3)年に興福寺の東金堂本尊として移されますが、1411(応永18)年に落雷による火災で頭部以外は焼失してしまいました。焼け残った頭部は、本尊の台座に納められたまま忘れ去られ、1937(昭和12)年の東金堂解体修理の際にようやく発見されたのです。

 

白鳳時代の仏像に特有の、若々しく伸びやかな表情が印象的で、全身が残っていないことが大変惜しまれます。

 

興福寺東金堂(奈良市)

銅造仏頭が発見された東金堂は、国宝。現存する東金堂は、室町時代の1415(応永22)年に再建された6代目で、1998(平成10)年、世界遺産に登録された。

 

【国宝】法隆寺「阿弥陀三尊像」

法隆寺の「阿弥陀三尊像」は、日本最古の「念持仏」として有名です。念持仏とは、個人宅に安置して崇拝されていた仏像のことです。

 

「阿弥陀三尊像」の持ち主は天武天皇から聖武天皇まで、長く宮廷に仕えた女官「県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)」と伝わっています。

 

宮廷内で強い力を持っていた彼女は、藤原不比等との間に生まれた自分の娘を、聖武天皇に嫁がせます。娘は皇族以外から出た初の皇后となり、一族の繁栄に貢献しました。

 

白鳳文化を代表する絵画

白鳳文化が発展した時期に造られたとされる寺院や古墳の壁には、美しい壁画が残っています。それぞれの代表的な作品を紹介しましょう。

 

法隆寺「金堂壁画」

法隆寺は、7世紀の初めに聖徳太子(厩戸皇子)が創建した寺院で、「金堂」や「五重塔」は、現存する世界最古の木造建築として有名です。金堂の外陣(一般の人々が拝礼する部分)の壁には、12面にわたって釈迦や阿弥陀がいる浄土の世界が描かれています。

 

インドの「アジャンター石窟寺院」や、中国・敦煌の「莫高窟(ばっこうくつ)」に描かれた壁画とよく似ており、当時の日本が中国仏教の影響を強く受けていたことが分かります。

 

壁画は、アジア仏教美術の至宝として修復・保存が急がれていましたが、1949(昭和24)年に起きた火災で表面の彩色がほぼ失われてしまいました。

 

現在の法隆寺では、火災直前に撮影した写真原版を元に、デジタル化した画像をインターネットで公開しています。

 

法隆寺金堂壁画ガラス原板 デジタルビューア|Glass Photographic Plates of the Murals in the Kondō Hall of Hōryūji Temple―Digital Viewer―

 

高松塚古墳「壁画」

高松塚古墳は、直径18mほどの小さな古墳で、埋葬者が誰かも分かっていません。しかし1972(昭和47)年に、石室の内部に壁画(国宝)が見つかったことで一躍有名になりました。

 

高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村国営飛鳥歴史公園内)。藤原京期に造られた高さ5mの二段式円墳。墳丘は、2009(平成21)年に、造られた当初の形に整備され一般公開されている。壁画は紆余曲折を経て、2020(令和2)年3月、12年かけて行われた保存修理が完了した。

 

東西南北の壁には、それぞれの方角を司る「四神(しじん)」が、天井には星座が描かれています。面積の広い東西の壁には、手前に男性、奥に女性で4人ずつ、計16人の人物がいます。

 

なかでも西壁に描かれた女性4人の絵は、色彩が鮮明に残っていたことから「飛鳥美人(あすかびじん)」と名付けられ、カラー写真で広く紹介されました。

 

1983年には、高松塚古墳の南に位置する「キトラ古墳」でも、同様の構図で描かれた壁画が発見されています。天井の天文図は、太陽・月・赤道などが描かれた本格的なもので、現存する中国式星図の中でも最も古いとされています。

2024/11/28

空海(3)

天長8年に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化と、その存続のために尽力した。とくに承和元年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可され、その10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定した。

 

延喜21年(921年)1027日、東寺長者観賢(かんげん)の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)と桧皮色の御衣下賜の勅命が下された。その後、観賢とその弟子の淳祐(しゅんにゅう)は下賜伝達のため高野山の御廟へ行った。

 

高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内に、昭和天皇宸筆の扁額「弘法」が掲げられている。

 

最初は「本覚大師」の諡号とされていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号となった。中世に入ると、空海の評伝は絵画化された。「弘法大師伝絵」と呼ばれ、絵巻の作品が中心である。「高野大師行状図画」、「弘法大師行状絵巻」など空海のさまざまな伝説が、全国に知られる一因ともなった。

 

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥之院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認することが修行の一環となっている。なお、真言宗醍醐派では、空海に大師号が贈られる以前から帰依し、信仰していたことを強調するため「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。

 

故郷である四国において、彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

 

入定に関する諸説

高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥之院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされている。

 

歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。

 

現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』である。

 

後述のように、空海に関しては史実にまして伝承が多く、開山伝説や開湯伝説などが無数に存在する。

 

入定(にゅうじょう)は、真言宗に伝わる伝説的信仰。

原義は単に「禅定(ぜんじょう)に入る」という意味だが、ことに弘法大師空海が永遠の瞑想に入っているという信仰を指す。

 

空海の入定信仰

空海は835年(承和2年)に入定したが、生死の境を超え弥勒菩薩出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定していると信じられている。

 

「生身供(しょうじんぐ)」は、入定後から現在まで1200年もの間続けられている儀式のひとつで、奥之院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が12回、御廟の空海に衣服と食事を届けることが行われている。霊廟内の模様は維那以外が窺うことはできず、維那を務めた者も他言しないため部外者には不明のままである。

 

伝真済撰『空海僧都伝』によると、空海の死因は病死とされる。『続日本後紀』によれば、遺体は荼毘に付されたようである。しかし後代には、入定したとする文献が現れる。現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。

 

『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。

 

また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年321日に高野山の宝亀院が行う空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることがあげられている。

 

その他の「入定」

後世、断食・生き埋めなど苦行の果てに絶命してそのままミイラ化する、いわゆる「即身仏」となる行為も、空海の入定信仰にあやかって俗に「入定」と呼ばれるようになった。しかし、それは真言密教の教義に由来するものではなく民間信仰の領域であり、空海の入定信仰とは本質的に異なるものである。

 

十大弟子

元慶21111日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされ、釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師十大弟子とも称するようになった。十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。

 

その他の弟子

付法弟子とされる10人以外にも多くの弟子がおり、貞享元年成立の智灯『弘法大師弟子伝』では計20人の記述があり、弟子全てを網羅することを目指した天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』では、計70人を載せている。

 

著名な弟子としては以下の僧が挙げられる。

 

ü  『弘法大師弟子伝』…堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体

ü  『弘法大師弟子譜』…円行、最澄、光定、円澄

 

肖像

弘法大師信仰の高まりにともない、様々な空海の肖像が作成された。空海が遺したとされる「御遺告」や空海の評伝に拠ったものが多い。その図像は、多岐にわたり、寺院などに祀られるだけでなく、空海の生涯を振り返り、日本各地に伝わる空海の伝承を知るよすがとなっている。また、図像は御札・お守りなどとして現在も広く流布し、弘法大師信仰が展開した形のひとつともなっている。

アイヌラックル (アイヌ神話)(2)

アイヌラックルは、アイヌ伝承の創世神話における英雄神で、アイヌ民族の祖とされる地上で初めて誕生した神。アイヌ語で「人間みたいな神」という意味。エピソードを通じて人々の日常生活を支える多くの品々の起源が語られることから、アイヌ神話の上での文化英雄の役割を持つ。オイナ、オイナカムイ、オキクルミなどの別名でも伝えられている。

 

名称

文化英雄・人文神としてのオイナ(oyna)またはアエオイナカムイ(Aeoynakamuy)は、アイヌラックル(Aynurakkur)、オキクルミ(Okikurmi)とも呼ばれている。

 

アイヌラックルのrak"~匂いのする"の意味で、すなわち「アイヌラックル」のは"人の匂(い)の人""人間らしいひと"の意と説明される(金田一京助)。クル kur は厳密には""の意であるが、他の解説をみると"人間の匂いがする神=半神半人の神"(久保寺逸彦)、"人くさい神"などと語釈されている。

 

オイナカムイは、直訳すれば"伝える(神)"であるが、知里は"巫術を行う神"の意であると語釈している。

 

「アエ」という接頭語は"我ら"を意味するもので、アエオイナカムイは"我々がそれを伝える(神)"と直訳される。文法的な説明では、「アエ」という代名詞的接辞をもちいた「オイナカムイ」の活用形 だとされる。

 

オキクルミは"裾のきらきらする(皮/毛皮の)衣を身につける神"の意である。

 

コタンカルカムイ

創造神コタンカルカムイ(kotan-kar-kamuy)も、結局アイヌラックルと同神だと知里真志保は結論づけているが、土地によっては別個の神々で兄弟とされている。

 

コタンカルカムイは、別名をサマイクル("託宣を云う神")等(北海道の中東北部から樺太)と呼び、オキキリマという神より優位("オキキリマの方は事毎にその下風に立つ")とされているが、北海道南西部(胆振・日高の沙流郡)では、サマイウンクル、サマュンクル等と呼ばれ、立場逆転してオキクルミより劣位(その同伴者)とされている。

 

伝承

アイヌの神話や伝説は、口承で伝えられてきたため、伝承地や伝承者によってさまざまな差異があり、このアイヌラックル(オキクルミ)の伝説に関しても、定説というものは存在しない。 ここでは、アイヌラックルの伝説のパターンの一つとして、釧路の山本多助エカシの記した「アイヌ・ラッ・クル伝」に収録の伝承を紹介する。

 

家系

母親は天上から最初に地上に降りた女神、ハルニレの木の精霊でもあるチキサニ姫。ひとつの伝承によると、父親は日の神で、単にチキサニ姫を美しいと思ったことから、その神慮が作用して姫がアイヌラックルを妊娠したとある(日の神はそのとき、火の女神が左手にラルマニ姫、右手にチキサニ姫をとってお供にさせている様子を窺っていた)。異説では父親は天上界で一番の荒神である雷神カンナカムイであった[要出典]

 

アイヌラックルの妻は天上の高位の女神、白鳥姫レタッチリ。

 

誕生

かつてまだ大地に動植物も人の姿も何もない頃、神(カムイ)の何人かが大地に降り立ち、世界を作り始めた。神々が大地に降臨したときには既に、混沌とした大地から悪魔や魔神たちが生まれていたが、神々は魔神たちから大地を守りつつ、世界作りに努めた。

 

天上の神々は、この地上の様子に大変興味を持っていたが、その中で雷神カンナカムイが地上を見下ろすや、地上にいるチキサニ姫に心惹かれ、たちまち雷鳴と共にチキサニの上に降り立った。

 

雷神の荒々しい降臨によってたちまちチキサニは火に包まれ、数度の爆発の末、燃え盛る炎の中から赤ん坊が誕生した。これがカンナカムイとチキサニとの間に産まれた子、アイヌラックルである。アイヌラックルは、地上で誕生した初めての神だった。

 

幼年期

天上界の神々は地上に神の子が産まれたことを知り、ただちに養育の準備に執りかかった。まず幼い神の子を育てるための砦を地上に築き、養育役には太陽の女神が任に当たった。

 

チキサニは我が子の誕生後、6日間燃え続けた末に消滅してしまったが、その炎は絶やされることなく、養育の砦の囲炉裏に入れられ、生活の中心として用いられた。

 

やがて地上世界が完成し、動植物や人間(アイヌ)たちができあがると、神々は人間に言葉を教え始めた。知恵を身につけた人間たちは、神の子の養育の様子に倣い、それまでの洞窟生活をやめて家を建て、生活用具を作り、火を生活に用いるようになった。

 

少年期

神の子は元気な少年神へと成長を遂げ、地上で人間の子供たちとよく遊び、共に仲良く生活していた。この頃から彼はいつしか、神の子でありながら人間同様に暮す者として、アイヌ語で「人間くさい神」「人間と変わらぬ神」を意味する「アイヌラックル」の名で呼ばれるようになった。

 

アイヌラックルと子供たちとの交流の中、網、弓矢などの生活道具が発案され、それらは人間たちの生活において欠かせないものとなった。

 

青年期

ある雨の日にアイヌラックルは、養育の女神に大事なことを告げられた。

 

それは、アイヌラックルがもうすぐ16歳となって成人すること、神であるアイヌラックルは人間を指導する重要な役割を担っていること、争いを起こす人間は魔物同然として厳重に罰しなければならないこと、成人後の婚約者として天上では既に白鳥姫が選ばれており、後に姫が地上に降りて来ることだった。

 

この頃には、かつて地上に蔓延っていた悪魔や魔神たちは、地底の暗黒の国へ身を潜め、地上には平和な日々が続いていた。

2024/11/24

白鳳文化(1)

白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。

 

特色

7世紀の終わり頃完成した、古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城の藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。

飛鳥浄御原令や大宝律令が制定され、本格的な国家が始動し始めた頃でもあった。律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調とする。

初唐文化を基調とする。

天武天皇・持統天皇の時代が中心だが、一部その前の天智天皇・弘文天皇時代を含む部分もある。

 

律令の制定

中国大陸の高度な文明制度を取り入れて、本格的な国家が誕生した。

 

飛鳥浄御原令

大宝律令は、701年(大宝元年)に完成し、直ちに施行された。

 

建築

ü  藤原宮の内裏(だいり)と朝堂院(ちょうどういん) - 現存せず

ü  大官大寺(だいかんだいじ) - 金堂跡と塔跡の土壇などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して大安寺となる。

ü  本薬師寺(もとやくしじ) - 金堂跡、東西の塔跡などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して薬師寺となる。

ü  山田寺(浄土寺) - 桜井市山田にある。蘇我倉山田石川麻呂が発願して倉山田家の氏寺として建立した寺である。石川麻呂は、蘇我馬子の孫、倉麻呂の子で、大化5年(649年)に異母弟の日向(ひむか)に讒訴され、造営半ばの山田寺で自殺した。悲劇の寺である。発掘調査により東回廊の部材が出土している。

ü  法隆寺西院伽藍 - 飛鳥様式で白鳳時代に再建された。

ü  法隆寺東院伝法堂 - 白鳳時代の住居を寺とした。

ü  薬師寺東塔 - 白鳳様式で奈良時代初期に再建された。

相模国分僧寺は、海老名市国分に所在し、南側の中央の中門から回廊を北側の中央の講堂にめぐらし、回廊の内側に東西に金堂と塔が配置された法隆寺式伽藍であり、出土瓦には白鳳様式の瓦が使われている。このことは、国分寺造営の詔が出された天平13(741) より以前に建てられた郡司の氏寺を改修して、国分寺としたのではないかと推定されている。

 

彫刻

ü  薬師寺金堂銅造薬師三尊像

ü  薬師寺東院堂銅造聖観音立像

ü  深大寺銅造釈迦如来倚像

ü  法隆寺銅造阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)

ü  法隆寺銅造観音菩薩立像(夢違観音)

ü  興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊・薬師三尊像の中尊の頭部)

ü  蟹満寺銅造釈迦如来坐像 

 

絵画

ü  法隆寺金堂壁画

ü  高松塚古墳壁画

ü  キトラ古墳壁画

 

工芸

ü  薬師寺金堂薬師如来台座

 

古墳

ü  高松塚古墳

ü  キトラ古墳

 

文芸

ü  漢詩文の隆盛 - 大津皇子

ü  和歌の整備 - 額田王、柿本人麻呂

 

ü  元嘉暦

ü  儀鳳暦

空海(2)

帰国

大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建した。1022日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰った多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付嘱物などが『請来目録』に記されている。

 

空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰国後は入京の許しを待って数年間、大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年(807年)より2年ほどは、大宰府・観世音寺に止住している。この時期、空海は個人の法要を引き受け、その法要のため密教図像の制作などをしていた。

 

真言密教の確立

大同4年(809年)、空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺に入った。この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃に訣別する。2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もある。

 

大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った。

 

弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて、乙訓寺(京都府長岡京市)の別当を務めた。

 

弘仁31115日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。さらに1214日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。

 

弘仁4年(813年)1123日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行は二の次という理由で空海は拒否した。

 

弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し、密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。

 

弘仁7年(816年)619日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、78日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り、翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。

 

この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。

 

弘仁107月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住した。勅命の理由は不詳であるが、官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられている。

 

弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。

 

弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に灌頂を授けた。

 

弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。

 

天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。

 

天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。

 

『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、実現はしなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。はるか後年になって、種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。

 

天長6年(829年)、白雉元年(650年)に役行者が創建した京都の志明院を再興した。

 

天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。

 

天長8年(831年)5月末病を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。

 

天長9年(832年)822日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々に入る。

 

承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。1219日、毎年正月宮中において真言の修法を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。

 

承和2年(835年)、18日より宮中で後七日御修法を修す。122日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。230日、金剛峯寺が定額寺となった。315日、高野山で弟子達に遺告を与え、321日午前4時に入定した。享年62歳。

 

伝真済撰『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたとある。しかし後代には、入定したとする文献が現れる。

2024/11/14

大宝律令(3)

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中央政府の仕組み

中央政府の仕組みとして、「二官八省(にかんはっしょう)」の官僚体制が作られました。二官とは、国政を担う「太政官(だいじょうかん)」と、祭祀(さいし)を担う「神祇官(じんぎかん)」です。神祇官は新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)を執り行ったり、全国の神社の管理を担ったりしていました。

 

国政を担当する太政官の配下は、さらに細かく分類され、これを八省と呼びます。八省は左弁官局管轄の中務(なかつかさ)省・式部(しきぶ)省・治部(じぶ)省・民部(みんぶ)省と、右弁官局管轄の兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮内(くない)省です。

 

その他にも、役人を監視するための弾正台(だんじょうだい)、都の警備を行うための五衛府(ごえふ)の設置も定められています。

 

地方行政の仕組み

地方行政の仕組みとしては、「国郡里制(こくぐんりせい)」と「五畿七道(ごきしちどう)」を理解しておきましょう。

 

国郡里制とは、日本を60程度の国に分割し、さらにその国を郡・里に分割していく仕組みです。里長(りちょう)は地域の力のある農民が務め、郡司には地方の豪族が選ばれ、国司は中央から派遣される貴族が務める形で地方を治めました。

 

国のうち、都周辺の五国(大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国)は五畿と呼ばれます。その他の国々は七道(東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道)に区分されました。

 

都と各地方をつなぐ道路は、七道と同じ名前で呼ばれ、現在も東海道などの名称として残っています。

 

旧東海道金谷坂の石畳(静岡県島田市)。当時の東海道は、畿内から常陸国へ至る街道で、金谷宿は、遠江国の東端にあたる大井川の右岸(京都側)になる。

 

税制度の仕組み

税を徴収する体制は、以前から徐々にでき上がってきていましたが、大宝律令で正式にまとめられました。大宝律令で定められた税の種類について解説します。

 

地方と中央へ納める税

当時の税制度は、「祖(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」などの物を納める税と、「雑徭(ぞうよう)」という労働で納める税がありました。この中で、祖と雑徭は地方に対して納める税です。

 

祖は収穫した米の約3%、雑徭は各地方において土木工事などに従事する形でした。日数は年齢によりますが、最大で年間60日にもなったとされています。その間の給料や食料の支給はなかったため、ただ働きのような状態でした。

 

庸と調は、中央に納める税です。庸は麻布で納めますが、都(みやこ)で年間10日労働する「歳役(さいえき)」に代えることも許されていました。調は地方の特産物を納めます。都に物を納める際には、たとえ遠方からでも都まで運ぶ必要があり、これも農民には大きな負担だったといわれています。

 

兵役で納める税

兵役で納める税は、「軍団(ぐんだん)」「衛士(えじ)」「防人(さきもり)」の3種類です。

 

軍団は地方の警備で10日間、衛士は都の警備で1年間ですが、防人は九州の警備を3年間という長期間、兵役に就く必要がありました。また、任地までの交通費や食料は自費で、非常に負担は大きかったといわれています。

 

なお、兵役は成人男性のみに課されるもので、女性にはその義務がありません。そのため、税負担を軽くする目的で、戸籍にのせる性別を偽ることもあったようです。

 

大宝律令は日本初の本格的法典

大宝律令は、日本で初めて、刑法・行政法・民法がそろった本格的な法典です。この法典が制定・施行されたことで、天皇が中心となって人民や土地を支配する中央集権化が、強力に推し進められることになりました。

2024/11/13

空海(1)

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835422日〈承和2321日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお。

 

日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

 

仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。

 

生涯

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善通寺(香川県善通寺市)

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。父は郡司・佐伯田公、母は安斗智徳の娘の玉依御前。幼名は眞魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を615日と云われているが、正確には不詳である。

 

延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。

 

延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだ。

 

仏道修行

延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著し、俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは不詳。『大日経』を初めとする密教経典に出会い、中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした。

 

この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かっている。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかとの異説も立てられている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。

 

空海の得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、延暦23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知ったとされる、入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。太政官譜では、延暦23年(804年)47日出家したと記載する。空海という名は太政官譜が初出である。鎌倉時代成立の『御遺告』には、私度僧として無空とも名乗ったともある。

 

入唐求法

延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る。第18次遣唐使一行には、この時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、当時の仏教界に確固たる地位を築いていた最澄もいたが、空海はまったく無名の一沙門だった。同年512日、難波津を出航、博多を経由し76日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から入唐の途についた。

 

空海や彼と同様に乗船していた貴族の橘逸勢は遣唐大使の第1船で、最澄は第2船に乗船していた。第3船と第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

 

空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)810日、福州長渓県(中国語版)赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している。その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年113日に長安入りを許され、1223日に長安に入った。

 

永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけた。空海は般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられる。

 

5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は613日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。

 

810日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

 

8月中旬以降には、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

 

同年1215日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)117日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し、2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て、その帰国に便乗する形で8月に明州を出航して、帰国の途についた。

 

途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという。

2024/11/12

天地開闢 (アイヌ神話)(1)

天地開闢(てんちかいびゃく)では、アイヌ民族における天地開闢と国造り神話について説明をする。

 

以下は、1858年(19世紀中頃・本州の時代区分でいう幕末)の夏に、タツコプ・コタン(現夕張郡栗山町字円山)の83歳になるエカシ=おじいさん(1775年前後の生まれ)が、松浦武四郎のために夜通し炉辺で詠ったユーカラを記録したものの現代語訳である。また、東蝦夷地(北海道南部)における伝承であり、西蝦夷地(北海道北部)については語られていない。

 

天地(空・島)とカムイの始まり

昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島(現北海道)となった。島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした氣が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の氣からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。

 

別のユーカラによる大地創造については、「アイヌモシリ」を参照。

 

アイヌモシリは、アイヌ語で「人間の大地」を意味する言葉。また16世紀以降で、北海道周辺を指すアイヌ語の地名。

 

概要

アイヌ民族は自分たちの生活圏をアイヌモシリと呼んだ。カムイモシリ(カムィモシㇼ(kamuy mosir)、神々の住まう地)やポクナモシリ(アイヌ語仮名表記:ポㇰナモシㇼ、あの世・冥界)との対比においては「人間の地、現世」を意味する。

 

また、アイヌモシリは「アイヌの大地」「アイヌのくに」とも解され、北海道周辺・樺太南部・千島列島など古くからのアイヌの居住地(アイヌ文化圏)も指す。

 

対となる語に、カムイモシリ(アイヌ語仮名表記:カムイモシㇼ(kamuy mosir)、神の住むところ)がある。また本州をシサムモシリ(アイヌ語仮名表記:シサㇺモシㇼ(sisam mosir)、隣人の島)、サモロモシリ(アイヌ語仮名表記:サモㇿモシㇼ(samor mosir)、隣の島)と呼んだ。

 

「モシㇼ」は「大地」「国土」「世界」などと訳される言葉であるが、これをさらにモ・シㇼ(mo-sir)と分解し、モに「静かである」という意味があることから「静かな大地」と訳されることもある。

 

アイヌモシリに関連する伝説

古来、アイヌ民族に伝えられてきた神話(アイヌラックル)に、アイヌモシリに関して次のような伝承がある。

 

未だこの地上になにものも存在しない頃、神々が集まってきて、人びとの調和する大地、アイヌモシリを創るための相談をした。モシリ・カラ・カムイ(大地・創造・神)という男神、イカ・カラ・カムイ(花・創造・神)という女神がそれぞれ、大地創造のために降臨された。

 

この2人の神は、レェプ・カムイ(犬神)とコタン・コロ・カムイ(梟神)と共にアイヌモシリを創った。モシㇼ・カラ・カムイは山や野原、川をつくり、イカ・カラ・カムイは樹木や美しい草花をつくったあと、今度は粘土を使ってクマやウサギなどの動物達を創っていった。最後に、2人の神は互いに似せた男女をつくった。

 

アイヌモシリの創造が終わると、高い山の上の広い平原(シノッ・ミンタラ)にほかの神々が訪れ、見事に出来上がったアイヌモシリを見て喜びあった。

 

アイヌ(人間)は、初め洞窟に住んでいたが、やがて、シノッ・ミンタラに姿をあらわして神々と交流するようになり、神々に踊りや歌、言葉を教わった。やがてアイヌは神の生活をまねて地上に家を建て、火や道具を使って住むようになった。

 

こちらでは大地創造以前から神々がいて、男神と女神の二柱によって島が創造されたとし、動物に関しても、後述の白色の雲によって生み出されたのではなく、粘土によって生み出されたとする。

 

「北海道アイヌ」とは別に、「千島アイヌ」には、千島列島全島を創造した柱であるコタンヌクルというカムイ(千島の創造神)の語りが伝えられており、アイヌの創造神話体系は一様ではない。

 

五色雲による世界の構築

この二柱の神達が五色の雲の中の青い雲を(現在の)海の方に投げ入れ、「水になれ」と言うと海ができた。そして黄色の雲を投げて、「地上の島を土でおおいつくせ」と言い、赤い雲を投げて、「金銀珠玉の宝物になれ」と言い、白い雲を投げて、「草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と言うと、それぞれのモノができあがった。

 

多くのカムイの誕生

その後、天神・地神の二柱の神達は、「この国を統率する神がいなくては困るが、どうしたものだろう」と考えていられるところへ、一羽のフクロウが飛んで来た。神達は「何だろう」と見ると、その鳥が目をパチパチして見せるので、「これは面白い」と二柱の神達が、何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。

 

日の神と月の神

沢山の神々が生まれた中で、ペケレチュプ(日の神)、クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)から、クンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。また、この濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄山)であると言う。

 

『蝦夷島奇観』では、ノツカマップ=根室半島の首長であるションコの話として、シリベシ山(後方羊蹄山)を「最初の創造陸地」としている点で伝承が同じである。多くのアイヌが、この地を始まりの地と認識していた事が分かる。

ペケレは「明るい」を意味し、チュプは「太陽」を意味する。一方、クンネチュプは、直訳すれば、「黒い太陽」である。

 

神々による文化の始まり

沢山生まれた神々は、火を作ったり、土を司る神となったりした(最初から役割が定まっていないのが特徴)。火を作った神は、全ての食糧=アワ・ヒエ・キビの種子を土にまいて育てる事を教え、土を司る神は、草木の事の全て、木の皮をはいで着物を作る事などを教えた。その他、水を司る神、金を司る神、人間を司る神などがいて、サケを取り、マスをやすで突き、ニシンを網で取ったり(この神は江差に祭られている姥神と考えられている)、色々と工夫をして、その子孫の神々に教えられた。

 

アイヌの創造と人祖神降臨

こうしてアイヌモシリは創造され、次いで他の動物達も創造される。さらに神の姿に似せた「人間(アイヌ)」も創造される。その後は、神々の国と人間界とを仲介する人祖神アイヌラックル(オキクルミ・オイナカムイ)が登場する事となる(日本神話でいう天孫降臨神話に近い)。彼は沙流(サル)地方(現日高・平取町)に降りた。

 

アイヌラックルに関する神話は各地によって差異がある。

沙流地方に降りたとする神話では、父母の神に頼み、モシリ(国土)に降りたとする(初めから天神として語られている)。この時、アイヌはまだ火の起こし方も知らなかったとされている。

 

備考

    『古事記』における日本神話と内容が類似する。

    雌岳の方に日の神が向かったことからも、太陽神が女性の方を連想させる。また日の神・月の神は、共に地上で誕生し、黒雲で空に昇ったとしている。

    語りに出る「金を司る神(カムイ)」を金属神と捉えた場合、北海道に鉄器が伝来・普及した時期を考慮しても、日本神話より成立が古いと考えるのは難しい(日本最古の鉄器出土例は九州北部の前4世紀の鉄斧片)。

    多くのカムイが産まれたきっかけとしてフクロウが登場する(動物の中でも早い段階で創造されている)。

    カムイには子孫が存在することから人間と同様に寿命が設定されている。

    「カムイに似せて人を創った」とする考え方は日本神話より西洋諸国に見られる。

    天地(空・島)の後に二柱のカムイと海が形成された(神名はない)。一方、日本神話においては、国産みの神たるイザナギ・イザナミの親神より以前に葦が自然に生じており、植物の方がいち早く産まれている。

    「五色雲」は青・黄・赤・白・黒の色から成り、五行思想における五色の影響が見られる。

    青森県八戸市には『或る殿様の娘が島流しに遭い、漂着した島で陸に引き上げてくれた犬と結婚し、出来た子供がアイヌの祖先である』という民話が伝わる。

2024/11/07

大宝律令(2)

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大宝律令とは、どのようなものなのでしょうか?

大宝律令の概要と、その後に制定された「養老(ようろう)律令」との違いも解説します。

 

701年に施行された法典

大宝律令は701年、文武(もんむ)天皇により施行された法典です。この法典の施行によって、刑法・行政法・民法が日本で初めてそろいました。唐(とう)の律令制度を見本に作成され、施行が大宝元年であったことから、大宝律令と呼ばれています。

 

律令の「律」とは刑法のことで、罪を犯したときに、どのような刑罰が与えられるかを示したものです。「令」とは行政法・民法のことで、国や政治の仕組みや税などについて定められています。

 

この律令は、律が6巻、令が11巻の計17巻で構成されていました。現在、大宝律令そのものは残っておらず、さまざまな文献などから内容が推定されています。

 

養老律令との違い

大宝律令に関連する法典の一つが、養老律令です。編纂(へんさん)は、右大臣「藤原不比等(ふじわらのふひと)」の主導で行われました。

 

大宝律令より後に制定されたものですが、全く新しい内容ではありませんでした。養老律令を編纂した藤原不比等は大宝律令の編纂にも関わっていますが、大宝律令には少し不備があったとされています。この不備を修正し、新たに制定されたのが養老律令です。

 

養老律令の制定は718年(養老2)という説がありますが、定かではありません。720年(養老4)に藤原不比等が亡くなったことなどから作業が停滞したとされており、757年(天平勝宝9)に施行されています。

 

大宝律令成立までの流れ

それでは大宝律令は、どのような経緯で成立したのでしょうか?

成立するまでの背景や、編纂に関わった人物についてみていきましょう。

 

中央集権国家の確立が目的

大宝律令が制定された背景には、大きな目的として「中央集権国家の確立」があります。日本では当時、徐々に朝廷による支配が行われるようになっていました。しかし、地方豪族の力がいまだに強く、内乱も絶えず、安定した体制とはいえない状態が続いていたのです。

 

このような状況では、力を増してきていた唐・新羅(しらぎ)などの外国から攻め入られたときに対抗することができません。国を一つにまとめ、国力を高めるには、天皇中心の体制を作ることが大切で、そのために律令が必要だと考えられました。

 

681年に天武(てんむ)天皇が律令制定を命じたことから、本格的な律令の制定に取り組むことになったのです。

 

最初は「令」のみ制定

唐にならって、日本でも律令制度を取り入れようという動きは、天智(てんじ)天皇のころから見られるようになりました。天智天皇と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が制定した「近江令(おうみりょう)」が、日本で初めて制定された令とされています。

 

談山神社(奈良県桜井市)。645年、中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)が、この多武峰(とうのみね)で大化改新の談合を行ったことから、「談い山(かたらいやま)」と呼び、談山神社の名の由来となったという。

 

また、その後、持統(じとう)天皇によって「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」も発布されました。しかし、あくまでも令のみで律はなく、唐にならいすぎていて、日本にはなじまない箇所もあったといわれています。

 

編纂に関わった中心人物

大宝律令の編纂は、「刑部親王(おさかべしんのう)」と藤原不比等の2人が中心となりました。刑部親王は律令制定を命じた天武天皇の第9皇子で、藤原不比等は近江令を制定した中臣鎌足の次男です。

 

刑部親王が編纂事業をまとめるリーダーではありましたが、実質的な作業は、藤原不比等が中心となって進められていきました。

 

この2人を含め、全員で19人が大宝律令の編纂に関わったとされています。編纂のメンバーには、唐出身の官僚や渡来系氏族などが多く含まれていました。

 

大宝律令の内容

日本初の律令である大宝律令は、どのような内容だったのでしょうか?

律と令、それぞれについて、定められた内容を詳しく紹介します。

 

律の刑罰について

律では、「五刑八逆(ごけいはちぎゃく)」について示されています。五刑とは「笞(ち)刑・杖(じょう)刑・徒(ず)刑・流(る)刑・死刑」の五つで、罪を犯したときに与えられる罰のことです。

 

笞刑は細い棒で打つこと、杖刑は太い棒で打つこと、徒刑は懲役刑(最大3年)を指します。流刑は、近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)と3段階ある島流しで、死刑は絞首刑と斬首(ざんしゅ)刑の2種類です。

 

貴族は金銭を納めることで、五刑を免除される場合もありました。しかし、八逆と呼ばれる重大な犯罪、謀反(むへん)・謀大逆(むだいぎゃく)・謀叛(むほん)・悪逆(あくぎゃく)・不道(ふどう)・大不敬(だいふけい)・不孝(ふきょう)・不義(ふぎ)を犯した際には、貴族でも許されず、死刑になることが大半だったとされています。

最澄(6)

書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには、次のようなものがある。

 

天台法華宗年分縁起

『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。

 

ü  『請続将絶諸宗更加法華宗表』- 天台法華宗に年分度者2名を認めるよう上奏した書の控え。延暦2513日。

ü  『賀内裏所問定諸宗年分一十二人表』- 朝廷からの諮問に対して、南都の僧綱が天台法華宗に年分度者2名を許可すべきと上奏した書の写し。延暦2515日。

ü  『更加法華宗年分二人定諸宗度者数官符』- 天台法華宗に年分度者2名が認められた旨を支持する公文書の写し。延暦25126日。

ü  『天台法華宗年分得度学生名帳』- 大同2年(807年)から弘仁9年(818年)までの12年間に延暦寺で学んだ年分得度学生の名簿と、さらに弘仁10年分の2名を加筆した書。弘仁10年。

ü  『請先帝御願天台年分得度者随法華経為菩薩出家表』- 大乗戒壇設立を願い出た書。弘仁9521日。

ü  『天台法華宗年分学生式』- 大乗戒壇設立にあたり僧がまもる規律などを記した書。通称、六条式。弘仁9513日。

 

久隔帖

『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)1125日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるので、この名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」。

 

『久隔帖』最澄筆

久隔清音馳

恋無極

傳承安和且慰下情

大阿闍梨所示五八詩序中有一百廿禮仏

并方圓圖

并註義等名

今奉和詩未知其礼仏圖者

伏乞

令聞 阿闍梨

其所撰圖義並其大意等

告施其和詩者怱難作

著筆之文難改後

代惟示其委曲

必造和詩奉上 座下

謹附貞聡仏子奉状和南

弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上

高雄範闍梨法前

(以下省略)

 

『久隔帖』

文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』と、その大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である。

 

越州将来目録

『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。

 

羯磨金剛目録

『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。

 

空海将来目録

『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。

 

和歌

最澄が詠んだ和歌が9首伝わっている。

 

比叡山中道建立の時

阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我立杣に冥加あらせ給へ

 

『新古今和歌集』

この歌について正岡子規は「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候(『九たび歌詠みに与ふる書』)」と賞賛している。

 

法華二十八品歌の中に

<方便品>

三の川ひとつの海となる時は舎利弗のみそまつ渡りける

<法師品>

この法をもし一こともとく人はよもの仏のつかひならすや

<分別功徳品>

我命なかしとききてよろこへる人はさなから仏とそなる

『新続古今和歌集』

比叡山の中堂に始て常燈ともしてかけ給へける時

あきらけく後の仏の御世まても光つたへよ法のともし火

『新拾遺和歌集』

末代の衆生のねかひをよめる

末の世のいのりもとむる其事のしるしなきこそしるしなりけれ

『和論語』

比叡山をよめる

おのつからすめは持戒の此山はまことなるかな依身より依所

『和論語』

みかとの御為に経のかき給ひし奥に

となへても君をのみまたいのりけれは幾代ふるとてたえしと所思ふ

となへてもきみをのみまたいのりけれはいくよふるともたへしとそ思ふ

『和論語』

伝教大師童形像

伝教大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺(滋賀県大津市)、雙林寺(京都府京都市)、三千院(京都市)、松尾寺(大阪府和泉市)、能福寺(兵庫県神戸市)、普光寺(兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺(山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。