中央政府の仕組み
中央政府の仕組みとして、「二官八省(にかんはっしょう)」の官僚体制が作られました。二官とは、国政を担う「太政官(だいじょうかん)」と、祭祀(さいし)を担う「神祇官(じんぎかん)」です。神祇官は新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)を執り行ったり、全国の神社の管理を担ったりしていました。
国政を担当する太政官の配下は、さらに細かく分類され、これを八省と呼びます。八省は左弁官局管轄の中務(なかつかさ)省・式部(しきぶ)省・治部(じぶ)省・民部(みんぶ)省と、右弁官局管轄の兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮内(くない)省です。
その他にも、役人を監視するための弾正台(だんじょうだい)、都の警備を行うための五衛府(ごえふ)の設置も定められています。
地方行政の仕組み
地方行政の仕組みとしては、「国郡里制(こくぐんりせい)」と「五畿七道(ごきしちどう)」を理解しておきましょう。
国郡里制とは、日本を60程度の国に分割し、さらにその国を郡・里に分割していく仕組みです。里長(りちょう)は地域の力のある農民が務め、郡司には地方の豪族が選ばれ、国司は中央から派遣される貴族が務める形で地方を治めました。
国のうち、都周辺の五国(大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国)は五畿と呼ばれます。その他の国々は七道(東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道)に区分されました。
都と各地方をつなぐ道路は、七道と同じ名前で呼ばれ、現在も東海道などの名称として残っています。
旧東海道金谷坂の石畳(静岡県島田市)。当時の東海道は、畿内から常陸国へ至る街道で、金谷宿は、遠江国の東端にあたる大井川の右岸(京都側)になる。
税制度の仕組み
税を徴収する体制は、以前から徐々にでき上がってきていましたが、大宝律令で正式にまとめられました。大宝律令で定められた税の種類について解説します。
地方と中央へ納める税
当時の税制度は、「祖(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」などの物を納める税と、「雑徭(ぞうよう)」という労働で納める税がありました。この中で、祖と雑徭は地方に対して納める税です。
祖は収穫した米の約3%、雑徭は各地方において土木工事などに従事する形でした。日数は年齢によりますが、最大で年間60日にもなったとされています。その間の給料や食料の支給はなかったため、ただ働きのような状態でした。
庸と調は、中央に納める税です。庸は麻布で納めますが、都(みやこ)で年間10日労働する「歳役(さいえき)」に代えることも許されていました。調は地方の特産物を納めます。都に物を納める際には、たとえ遠方からでも都まで運ぶ必要があり、これも農民には大きな負担だったといわれています。
兵役で納める税
兵役で納める税は、「軍団(ぐんだん)」「衛士(えじ)」「防人(さきもり)」の3種類です。
軍団は地方の警備で10日間、衛士は都の警備で1年間ですが、防人は九州の警備を3年間という長期間、兵役に就く必要がありました。また、任地までの交通費や食料は自費で、非常に負担は大きかったといわれています。
なお、兵役は成人男性のみに課されるもので、女性にはその義務がありません。そのため、税負担を軽くする目的で、戸籍にのせる性別を偽ることもあったようです。
大宝律令は日本初の本格的法典
大宝律令は、日本で初めて、刑法・行政法・民法がそろった本格的な法典です。この法典が制定・施行されたことで、天皇が中心となって人民や土地を支配する中央集権化が、強力に推し進められることになりました。
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