帰国
大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建した。10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰った多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付嘱物などが『請来目録』に記されている。
空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰国後は入京の許しを待って数年間、大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年(807年)より2年ほどは、大宰府・観世音寺に止住している。この時期、空海は個人の法要を引き受け、その法要のため密教図像の制作などをしていた。
真言密教の確立
大同4年(809年)、空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺に入った。この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃に訣別する。2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もある。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて、乙訓寺(京都府長岡京市)の別当を務めた。
弘仁3年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。
弘仁4年(813年)11月23日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行は二の次という理由で空海は拒否した。
弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し、密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り、翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。
この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。
弘仁10年7月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住した。勅命の理由は不詳であるが、官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられている。
弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に灌頂を授けた。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。
『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、実現はしなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。はるか後年になって、種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
天長6年(829年)、白雉元年(650年)に役行者が創建した京都の志明院を再興した。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
天長8年(831年)5月末病を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々に入る。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日午前4時に入定した。享年62歳。
伝真済撰『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたとある。しかし後代には、入定したとする文献が現れる。
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