2025/03/07

アッバース朝(9)

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概要

西暦750年から1258年ごろまで存在したとされる国家。ムハンマドの親族としてカリフとなったアッバース家の当主が、中東諸地域を統治したもの。つまり宗教上の教主と世俗の帝王が同一人物である教団国家である。先代のウマイヤ朝が、アラブ人の特権を前提に成立したのでアラブ帝国とも呼ばれるのに対し、イスラム教徒は平等であることを謳ったのでイスラム帝国とも呼ばれる。最大領土は現在の西アジア、北アフリカ、西南ヨーロッパにまで及んだ。

 

歴史

イスラム教の開祖、ムハンマドが西暦632年に世を去ったのち、イスラム教団ではカリフという代理人を置くことになった。カリフは預言者ムハンマドの代理人として行政を統括し、イスラム法学者(ウラマー)たちが、合議によって定めた教義を信者に順守させる権限を持つ。4代に渡って、このカリフがイスラム教団を治めて、これを正統カリフ時代とも呼ぶ。だが、暗殺された第3代ウスマーンの親族であったウマイヤ家が、第4代アリーを暗殺の黒幕とみなして戦いを挑み、ついには660年に自らカリフを称した。これがウマイヤ朝である。アリーはほどなく暗殺され、ウマイヤ朝がイスラム教団を率いるカリフとなった。しかし、このカリフ選出には異論が多かった。アリーの支持者はシーア派と呼ばれてウマイヤ朝と戦いを続け、またアラブ人としての特権を持たないイスラム教徒の反乱も起こった。

 

アッバース家のサッファーフはムハンマドの親族の血筋であり、749年にもろもろの反乱勢力を統合してカリフと認められ、ウマイヤ朝に挑む。この勢力統合には、非アラブ人のイスラム教徒であって、大きな勢力を有するペルシア人の協力が必須であり、アラブ人への年金停止と非アラブ人だけに課せられた人頭税の廃止が行われ、イスラム教徒間の平等が確保された。サッファーフは、750年のザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝の軍勢を壊滅させ、ウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領して、ウマイヤ家をほぼ皆殺しにした。ただし、残党の一部はスペインに逃れて、後ウマイヤ朝を創始した。

 

後ウマイヤ朝はアミール(総督)と名乗り、アッバース朝の権威は認めずカリフは空位と主張した。また、ウマイヤ朝滅亡後は、シーア派は厳しく弾圧されることになった。第2代カリフのマンスールは首都としてバグダッドを建設し、第5代ハールーン・アッ=ラシードの時代に全盛期を迎えた。バグダッドは、人口150万人ともいう世界最大の都市となり、全ユーラシア経済の中枢ともなった。この当時に、アラビア・ペルシャ各地の伝承がまとめられて生まれた説話集が、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』である。

 

ハールーン・アッ=ラシードの死後は、カリフ位をめぐる後継者争いが深刻化し、地方の武将が自立して独立王権を築くようになって、アッバース朝の領域は縮小していく。909年にはチュニジアにシーア派のファーティマ朝が建国され、アリーの子孫としてカリフを名乗った上でエジプトにまで領土を広げた。929年には、後ウマイヤ朝もカリフを称した為、アッバース朝カリフの権威は大きく損なわれた。さらに945年に、シーア派のブワイフ朝がバグダッドを占拠して世俗上の支配権を奪い、カリフには宗教的な権限しかなくなってしまった。

 

アッバース朝カリフはセルジューク朝を利用してブワイフ朝を追い、さらにセルジューク朝やホラズムといった諸勢力とあるいは同盟して軍事力を利用し、あるいは対立して政治的支配権を取り戻そうと争う。1171年にファーティマ朝が断絶すると、その遺領を支配したアイユーブ朝のサラディンは、アッバース朝カリフの権威を認めると宣言した。しかし、それで失われた権威が取り戻されたわけではない。

 

アッバース朝の最期は1258年、モンゴル帝国のバグダッド征服による。アッバース家はほぼ皆殺しとなり、滅亡した。だがその親族がエジプトに逃れて、マムルーク朝のバイバルスによってカリフとして遇された。1517年、オスマン帝国に滅ぼされるまで、エジプトに名目上のカリフが存在し続けることとなった。

 

文化

イラン東部は正式な建国前の747年には、アッバース家側の総督が制圧していた。その部下、ズィヤード・イブン・サーリフは751年、唐の将軍高仙芝とタラス川の岸辺で戦った。当時の東西大国の決戦であり、これをタラス河畔の戦いと呼ぶ。戦はアッバース朝の勝利となり、西域のイスラム化が進んでいく。同時に唐軍の捕虜によって製紙法がイスラムに伝わり、後に欧州にも伝播して印刷技術発展の礎ともなった。

 

7代カリフのマアムーンは、「知恵の館」という図書館を建設してギリシャ語の科学文献を大量にアラビア語に翻訳させた。以後、アラビア人において科学研究が盛んになった。例えばアラビア数字は現代まで使われている数字記法となり、医学では患者の状態をよく観察し衛生や薬の処方を行う実践的な医術が発展した。イブン・アル=ハイサムは眼の機能を調べ、光を集めることでモノが見えるという原理を発見した。他に光が屈折することも発見し、「光学の父」と讃えられる。またイブン・アル=ハイサムが行った科学的な実験の方法は、のちの世界各国の科学者たちに大きな影響を与える。

2025/03/03

アッバース朝(8)

イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴いアッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。

 

アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは、主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。

 

イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。

 

5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは、近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。

 

7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。

 

アルフラガヌスは、第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。

 

知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークは、プラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。

 

サービト・イブン=クッラは、ペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。

 

シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。

 

アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。

 

イスラム神学 

初期アッバース朝時代に、公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は、合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。

 

文学

アラビア語で書かれた千夜一夜物語

様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。

 

この物語の国際性は、帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。

 

千夜一夜物語には、ユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。

 

10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。

 

イスラム文明とヨーロッパ

アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムは、ユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡は、アラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。

2025/02/27

ミクロネシアの神話伝説(4)

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【エタオとジェメリウットの訣別】

エタオとジェメリウットが、マジュロ島を訪れたときのことです。2人が小道を歩いていくと、向こうから大きなサーフボードを担いだ男がやってきます。2人と出会っても道を譲ろうともせず、2人のほうが道をゆずりました。エタオはこのことに腹を立て、サーフボードを思い切り重くして、おまけに2度と肩からはずれないようにしてしまいました。

 

ジェメリウットは、ちょっと気が引けましたがエタオは笑っています。サーフボードの男は

「俺は今まで色んな魔術師を見てきたが、あんたのような偉大な魔術師には出会ったことが無い。俺が悪かった。どうか助けてくれ。」

と懇願し、おだてに弱いエタオはすぐさま術を解いてやったばかりか、ボードも軽くしてやりました。

 

ジェメリウットは、弟のこういうわがままさに辟易してきました。ジェメリウットは、この島で極上の美人と結婚することにしたのですが、弟に知れると何をされるかわからないと考え、秘密裡に結婚して人里離れたところに家を構えました。しかし、エタオが知らないわけはありません。島の人達みんなとの宴会の時、エタオは魔法の虫をジェメリウットの着物に這わせていき、身体中を痒くさせました。たまらなくなったジェメリウットは、みんなの前で着物を脱いで裸にならざるを得ず、大恥をかいてしまいました。

 

さすがのジェメリウットもこれには腹を立て「俺にだって少しは魔法が使えるんだ」と、魔法のサソリを出現させてエタオに向かわせますが、サソリは一瞬でやられてしまいました。ジェメリウットは「エタオ、お前には何をやってもかなわない。頼むからもう構わないでくれ」と、弟に頼みます。

 

エタオは、もとより兄が憎いわけでもなんでもなく、兄から嫌われるとは思ってもみなかったので

「いや、兄さん、僕が悪かった。気分直しに海で泳ごう。僕は遅い亀になるから、兄さんは速いイルカになっていいよ」

となだめます。

 

2人は海に出て、しばらく楽しく過ごします。と、そこに漁師が通りかかり、それを見たエタオは またつまらないイタズラを思いつきます。漁師のすぐ近くで「バッシャーン」と大きくひれを叩いてみせたのです。それまで全然気がついていなかった漁師は、浜のすぐ近くに大きな亀と大きなイルカがいることに驚き、これは大した獲物だとばかりに、まず亀に向かって銛を投げつけます。銛は亀の甲羅で簡単に跳ね返され、勢いでイルカの胴体に深く突き刺さってしまいました。

 

2人はすぐに人間の姿に戻りましたが、ジェメリウットは

「お願いだ。もうこれ以上関わり合いになるのはやめてくれ。島に戻って父さんに、ジェメリウットは死ぬまでこの島で暮らすことにしたと伝えてくれ」

とエタオに冷たく言ったのです。その後、ジェメリウットはマジュロの島で王となり、善政を敷いて人々から慕われ続けた、ということです。

 

【エタオとコネの木のカヌー】

エタオはマジュロを後にする前、ちょっとしたいたずらをしかけていました。彼は速く走るカヌーが欲しかったのです。当時、マジュロでカヌー作りの名人と言えば「ココ」という名の男で、ココのカヌーは速くカッコよく、マストや索具も美しく飾られていました。その上、相当な重さの荷物も運べる、という優れたものでした。

 

エタオは計略を巡らし「あのカヌーと交換できるようなカヌーを作ってしまえばいいんだ」と考えます。そこでエタオは、手近にあったコネの木(この木は鉄木(てつぼく)」と言われる大変堅い木で、カヌーになどしようものなら沈んでしまいます)を切り出し、カヌーのかたちにすると、それをピカピカに磨き上げ海岸に運んでくると、一見海に浮かんでいるように見えるように細工しました。(実はカヌーの底に台を当てて、水中に置いてあるだけ)

 

このピカピカのカヌーは人々の注目を集め、噂をきいたココもやってきて

「うーん、これは俺のカヌーよりもたくさんの荷物を運べそうだ。それに、何と言っても美しい」などと褒めます。ここぞとばかりに、エタオは「君のと交換してやってもいいよ」と持ちかけ、「本当か?いいのか?」というココの言葉も終わらぬうちに、ココのカヌーに乗って去っていきました。

 

エタオの詐欺はすぐにばれ、怒った人々は四方八方からエタオを追います。エタオも必死で逃げ、迫ってくる人々に向かって積んであった石を蹴りつけます。あまりにも多くの石を蹴りつけたために、現在、マジュロ環礁の東半分に見られる小さな島々は、このときに堆積した石がもとになってできたと言われています。

 

エタオは無事に逃げ切り、勝利の歌を歌い大海原を心地よく航海していきました。このとき彼が歌った歌も、現在に至るまでマジュロで歌い継がれているということです。

 

【パラウ】

その昔、パラウの島々がまだ1つの大きな島であったころ、ウアブという名前の子供が産まれました。この子は小さな頃から異常な大食いで、ばくばく食べてはどんどん大きくなり、子供の頃にはすでに大人の数倍の大きさにまで育っていました。母親は、自分の家の食料だけではもう養育できなくなり、村長に相談して、村として養ってもらうことにしました。

 

パラウの巨人ウアブ

しかし、ウアブの食欲はその後もとどまることを知らず、身体はますます大きくなり、やがては村で採れる食料でも足らなくなってきます。もともと豊かな村ではあったものの、このままでは村人全員が飢死してしまうと危惧した人々は、やむなく眠っているウアブを縛り上げ、彼を焼き殺そうと火を付けます。

 

熱さで目を覚ましたウアブは大暴れ。そのときに彼が自分の脚ごと蹴り飛ばしたのが、今のペリリュー島。そのおかげでペリリューの人々は、今でも走るのが速いそうです。お腹のあたりが一番大きなバベルダオプ島になり、ここの人々は決して飢えることがなく、ちょっと下品なところでは彼のペニスからできたアイメリク島では、一番雨が多いそうです。

 

などなど、ウアブはパラウの島々の起源に深く関わっており、人々は「昔、我々がウアブを養った恩返しで、今ではウアブが我々を養ってくれてるのさ」と語っています。

 

【ポンペイ】

その昔、サプウキニという聡明な男がいました。彼はシャカレンワイオという小さな島に住んでいましたが、島があまりにも手狭になったので大きなカヌーを作り、16人の人々と共に大洋に漕ぎ出しました。

何日もの航海の後、リダキカというあたりで巨大な鮹に出会い、鮹に「一体どこから来たのか?」と訊くと、「ちょっと南のほうの浅瀬に住んでるんだ」との答。サプウキニ達は、その浅瀬を目指すことにしました。浅瀬のあたりは珊瑚があちこちに顔を出していて、気候も良さそうです。

 

サプウキニは、ここに人が住める島を作ってしまおうと決意します。

人々は力を合わせて珊瑚や岩を積み上げますが、大きな波が来るたびに流されてしまいます。そこで、サプウキニは人工島の回りにマングローブを植え、波よけにしてはどうかと考えます。(今でも、ポンペイの海岸がマングローブで覆われているのはこのためです)

 

計画はうまくいき、完成した島には大きな祭壇(ペイ)が設けられました。その後、大きくは3つの部族が島に移り住み、今のポンペイの4大部族の祖先となりますが、ポンペイ(石の祭壇の上、という意味)という名前は、サプウキニが設けた祭壇が元になっているとのことです。

2025/02/25

アッバース朝(7)

イスラム科学

アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされ、イスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際、捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。

 

二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは、新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。

 

また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦や、インド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。

 

翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。

 

天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後、何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは、七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュのものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によると、そのような変化には宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。

 

マアムーンは科学振興のため、バグダードに「知恵の館バイトル・ヒクマ」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかし、マアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して、大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーも、マアムーン宮廷に出仕した天文学者である。

 

10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で、善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」は、プロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。

 

スーフィズムは、アッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。

 

しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。

 

錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものは、ごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出は、マアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義が、バグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるために、クルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。

2025/02/20

アッバース朝(6)

軍事

首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。

 

アッバース朝は、月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝は、そのような体制を8世紀には実現していた。

 

アッバース朝では、中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。

 

交通

アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は、伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。

 

農業

アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクでは、アフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。

 

経済

アッバース朝では、東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。

 

アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。

2025/02/18

ミクロネシアの神話伝説(3)

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ここでは、マーシャル諸島から東カロリン諸島で語り継がれている、半神、トリックスター「エタオ」の物語をご紹介します。

 

トリックスター(trickster)とは創造的で破壊的、いいところもあれば悪いところもあるという、功罪半ばする半神のことを指して言われます。普段はいたずら好きで悪いことばかりしてますが、いざとなると頼りになるという、結局なんだかんだいいながら人気のあるモチーフのようです。ハワイ、あるいは広くポリネシアのトリックスターといえばマウイが有名ですが、ミクロネシアにも、このトリックスターの神話がいくつか伝わっており、これもその1つです。

 

エタオ(Etao)とは、マーシャル語でそのものずばり「いたずら者」という意味です。(Letao、と書かれることもあるようです)

彼は変身が得意で、ハンサムな男にも美女にも老人にも、あるいは魚にも果物にも化けることができたので、その技を使ってしょっちゅう人々をからかって楽しんでおり、そのせいかマーシャル諸島では、何か悪いことが起きるとたいてい「エタオにやられた」というひどい言われ方をしているようです。

 

【エタオと怪物鮹】

昔、ある村にレロランという大変村人思いの村長がいました。ある日のこと、村の沖合に怪物蛸が出現し、村人を襲うようになってしまいました。レロランは、カヌーにいっぱいの食料を積んで単身沖に出ます。食料を海にばらまきながら鮹をおびき寄せ、陸に上げて捕らえようという作戦です。

 

何度かの失敗の後、レロランはうまく鮹を陸におびき寄せることに成功しました。しかし、なんということ。鮹は陸に上がっても全く弱ることなく、レロランに向かって来るではありませんか。慌てたレロランは、エタオの小屋に飛び込んで助けを乞います。

 

エタオは昼寝をしていましたが、話を聞くと

「そりゃ面白そうだ。お前は梁の上にでも隠れて見てろ」

と、泰然自若。やがて入り口に鮹がやってきて

「今ここにレロランが逃げてきただろう?」と訊ねます。

 

「いや、そんな男は知らん。まあ上がってゆっくりしていけ」とエタオ。

「俺は腹が減っていてレロランを喰いたいんだ。そんなヒマはない。」

「まあ遠慮するな。ゆっくり歌でも歌おう。俺は歌が好きでな。」

「何だと?(怒)」

「ほらもう日が暮れる。歌うにはいい時刻だ。まあちょっとだけでも」

「しようがないな、じゃあちょっとだけ」

「そうこなくちゃ。じゃあ、まず、お前さんからどうぞ。」

「何だと?(怒)。俺は疲れてるんだ。お前から先にしろ。」

「いやいや、それは礼儀に反する。お客様からだ。」

 

鮹は仕方なく、あろうことかレロランが鮹を捕まえに来たときに歌っていた歌などうたいます。エタオがそれに応えて歌ったのが子守歌。ココナツの葉をゆりかざしながら「あー眠いー、まぶたが重いー」などと歌い、その抑揚のきいた声で鮹はとうとうウトウトしはじめ、ついに眠りに落ちてしまいました。

 

「おいレロラン、降りて来い、手伝え。」と、エタオ。怪物鮹はいろんなところに毛が生えており、エタオとレロランは協力してその毛をエタオの小屋の柱にくくりつけ、また、一部は互いに撚り合わせて身動き取れなくしてしまいました。そして最後に小屋に火を付け、怪物蛸を小屋ごと燃やしてしまったのです。

村人は、レロランが無事に帰って来たことを喜び、安心して漁に出られるようになりました。

 

【エタオの母】

エタオには、ジェメリウットという名前の兄がいました(Jemeliwut:虹の意)。また、彼らの母親はリジョバケ(Lijobake:高貴な亀、の意)という名前の亀の女神で、遠く離れたBikar環礁近くの海底に住んでいました。Bikarというのは、マーシャル諸島のはずれにある海鳥と海亀の楽園のようなところで、その砂浜は彼らと彼らの卵で埋め尽くされているようなところです。

 

ある日、エタオは兄さんと一緒に母親を訪ねに行くことにしました。道のりは随分遠く、彼らの喉はからからです。やがてBikarに到着、母親も喜んで海底から姿を現します。

「母さん、喉が乾いた、何か飲み物は無い?」

と、ジェメリウット。リジョバケは海底に住んでいながら、真水が好きでしたので、ちょっと待ってなさい、というと小屋の中から器に入った水を持って来ます。

 

ところが、その器も水もずいぶん薄汚れており、ジェメリウットは「こんなもの飲めないや」というと、器をそのまま返してしまいました。ところがエタオは、「じゃあ僕がもらうよ」と言うやいなや、目をつぶって一気にその水を飲み干してしまったのです。

 

・・・母親は彼らに、それぞれお土産に自分の甲羅の一部を持たせました。

しかし、エタオには彼女の肩のあたりの美しい甲羅を持たせ、ジェメリウットには尻尾の当たりのあまり美しくないところをあげたのです。まあ、気持ちの問題ですね。エタオはその上、生と死すらコントロールできる不思議な力を母親から授けられたのです。

 

エタオが何にでも変身できる技を持つことができるようになったのは、このときからだと言われています。しかし、母親は、このとき魔術だけ授けて、聡明さや親切さを授けるのを忘れてしまったために、エタオのいたずらは歯止めがなくなってしまった、ということです。

 

【エタオ、火をもたらす】

エタオとジェメリウットは、一緒にマーシャルの島々を訪ね回っていました。そんなある日、彼らはリキエップ島に到着しました。彼らはたいそうお腹が減っていましたが、釣り具を持っていません。誰かに貸してもらおう、と考えていました。

 

最初に出会った男に頼んだところ「自分のを使えばいいじゃないか」とケンもホロロです。その後何人かに頼みましたが、誰も見知らぬ2人に釣り具を貸してくれようとはしません。「そういうことか。それならば」とエタオは怒って人々をコネの木に変えてしまい、エタオが許すまで2度と動けなくしてしまいました。

 

2人がなおも暫く海岸を歩いていくと、子供達が釣りをしているのが見えました。しかしながら1匹も釣れていません。「ちょっと釣り竿を貸してごらん」とエタオ。エタオはたくさんの魚を釣り上げ、みんなに分けてやります。気分が良くなった彼は、釣り具を貸してくれた少年に

「いまからとっても不思議なことを教えてあげよう。火の起こし方と調理の仕方だ。君は、リキエップで最初に火をおこすことができる人間になれるんだ」

 

そのころリキエップでは誰も火の起こし方を知らず、皆、魚を生のままで食べていたのです。

というわけで、エタオは少年に火の起こし方と、ウム(蒸し焼き)料理の作り方を教え、ついでに火種にした石を魚籠に入れて持たせてやります。

少年は走って家に戻り、両親にこの大ニュースを伝えました。ところが、魚籠に入った火種はその後もくすぶり続け、やがて家に燃え移って全焼してしまったのです。

 

少年は泣きながらエタオのところに戻って「何もかも燃えちゃったじゃないか!」。エタオは笑いながら「心配するな。家に戻ってごらん」。実際、少年が家に戻ってみるとあら不思議、家はもとのまま建っているではありませんか。・・・このときから、リキエップ島では、みんなが自由に火を使えるようになたっということです。

2025/02/13

アッバース朝(5)

政治的混乱

9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。

 

10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。

 

そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人は、もはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。

 

1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。

 

アッバース朝のイラク支配回復

11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。しかし、イラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。第34代カリフのナースィルは、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

 

モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

1220年、チンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡すると、いっときアッバース朝は小康を得るがモンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258129 - 210日)。

1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは、2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。バグダードの攻略で80万人、ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

 

バグダード・アッバース朝の滅亡後

カイロ・アッバース朝のカリフ存続

1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父、ムスタンスィルが遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったため、スルタンの手厚い保護を受けることができた。

 

カイロ・アッバース朝の滅亡

1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどを伴ってイスタンブールに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀を経て、エジプトのムスリムのなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。

 

その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースは、この滅亡の経緯について「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。

2025/02/08

ミクロネシアの神話伝説(2)

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【テルケレルとテムドクルの「眼」】

天上界では、番人のテムドクルが盗まれてしまったために誰でも直接ウチェルの宮殿に入り込んでくるので、ウチェルは大弱りです。急いで部下のチェリッド(精霊)達を集め、7人の精鋭を選んで「無事にテムドクル奪回するまで決して帰ってこないように」と厳しく言い渡します。

 

チェリッド達は、奪回の準備としてココナツを焼きます。なぜそんなことをするかというと、精霊は皆、焼いたココナツが大好きで、うまく焼いておけば目的地に近づいたとき、緑色のトカゲの精霊が出てきて道案内をしてくれるからです。

 

準備の整った彼らは地上へと向かい、パラウ中を探し回りました。やがて、ンガレケブクルの村に差しかかったとき、ココナツの実が割れて中から緑のトカゲが飛び出し、森の中へと入っていきます。チェリッド達は急いで後を追い、まず到着したのがテルケレルの母、ミラッドの家です。ミラッドはチェリッド達が、ココナツの実にはさんだ焼き魚が大好きであることを知っており、彼らにそれを出して歓待しました。

 

大変満足したチェリッド達はとうとう、テルケレル達のいるバイの前に到着し、そこにテムドクルが安置されているのを発見します。ところがなんということ、テムドクルの眼が無くなっているではありませんか。これではもう、番人とするわけにはいきません。しかも、その「犯人」はミラッドだということです。実はテムドクルが天上に持って行かれないように、ミラッドが気を利かせて眼を取り去っておいたのです。

 

チェリッド達は、ミラッドの家に戻りましたが、ついさっきあれほど歓待してくれたので怒るわけにもいかず、彼女にこう告げます。

「テムドクルの眼を盗まれた我が王ウチェルは大層、お怒りだ。次の新月までに、地上に大洪水をもたらすだろう、とりあえずお前だけに予告しておく。」と言って去っていきました。

 

予告通り、新月を待たず大雨が降り始め、島は大洪水となります。ミラッドはテルケレルと協力して、大きないかだを作っておいたためにとりあえずは無事でしたが、他の人々はみな溺れてしまいました。ところが、いかだを大きなパンの木にくくりつけておいたロープが短かすぎ、いかだは転覆、ミラッドもとうとう溺れ死んでしまったのです。

 

結局、テムドクルの眼は、テムドクルにも天上にも戻らず、パラウの島のどこかに残りました。その後、この「テムドクルの眼」は小さく分けられて最近までパラウの通貨となり、大変高価なものとして珍重された、ということです。

 

また、テムドクルの石像は1870年まで実際にンガレケブクルに存在しており、その年、ドイツの学者がこれを持ち帰って、今ではStuttgartのリンデン博物館に収蔵されているそうです。

 

【テルケレルと命の水】

ミラッドを失ったテルケレルは大変悲しみ、天上に出かけていって7人のチェリッドに彼女が死んだことを告げると共に、何とか生き返らせることはできないかと相談します。

 

チェリッド達にとっても彼女の思い出は優しいものであり、何しろ地上で唯一の女性になってしまっているので、放って置くわけにはいきません。早速、テルケレルと一緒に地上に降りると、樹上に引っかかっていた彼女を取り下ろし丁寧に寝かせます。「これは命の水が無いとだめだな」とチェリッド達。

 

彼らはすぐに天上に戻ると、王ウチェルに頼み込んで命の水を分けてもらいます。それをタロの葉で大切にくるむと、もと来た道を引き返します。ところが、その道の途中にはハイビスカスの植え込みがあり、焦っていた彼らはその植え込みに足を取られてあろうことか、命の水をこぼしてしまったのです。そのせいで今でもハイビスカスは、どんな小さなかけらからでも木が育つようになり、逆に人間は必ず死ぬという運命になってしまったのです。

 

チェリッド達は再び宮殿に戻り、王に命の水をねだりますが、ウチェルは怒っていて水をくれません。そのかわりに、と言ってウチェルがくれたのは魔法の石でした。

「この石をミラッドの身体の中に入れておけば、彼女は不老不死になるから」と。

 

と、その話を近くで聞いていたのが、へそ曲がりの精霊タリードでした。彼は人間のような奴に、不老不死の力が渡るのが面白くありません。そこで家来のうみつばめに命じて、帰路についた7人のチェリッド達を攻撃させます。その攻撃はあまりにも執拗だったため、とうとう我を忘れたチェリッドの1人が命の石を、うみつばめ目がけて投げつけてしまったのです。当然、命の石もうみつばめもいなくなってしまいました。

 

チェリッド達は途方に暮れます。しかし

「地上で唯一の女性のミラッドにはどうしても生き返ってもらい、新しい部族の先祖になってもらわなくては」との思いは強く、彼らは再び宮殿に戻りました。ウチェルは当然、怒り爆発です。「お前達のような大馬鹿者は、もう二度とここに来るな」と、けんもほろろで追い返されてしまいました。

 

なすすべなく地上に戻ったチェリッド達。道ばたにしゃがみこんで、どうしたらいいかを相談します。と、そのとき、チェリッド達の1人にデレップ(失われた魂)という精霊がいることに気づいた1人が

「そうだ、君はもともとカラダが無いのだから、君がミラッドの中に住んでしまえばいいんだ!」とアイデアを出します。

 

デレップは、最初はいやがりましたが、他に方策も無く

「わかった。僕がミラッドの中に入ることにする。でも、それは午前と午後だけだ。昼と夜は、僕だって自由の身でいたいからな。」というわけでどうなったか?

人間は、夜は必ず眠り、昼は必ず昼寝をするようになった。ということです。

2025/02/06

アッバース朝(4)

アッバース朝の最盛期

建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。

 

2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称は、マディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで権力基盤を固め、集約的官僚制やカリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。

 

アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

 

5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。

 

一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

 

衰退への道

ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかし、マアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。

 

7代カリフのマアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。

 

その後、バグダードとその周辺には、有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。

 

マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。しかし、このころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には、帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。

 

869年、カリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。

2025/02/02

アッバース朝(3)

経過

ウマイヤ朝治下において、アッバース一族はハーシム家の一員として尊敬を集めていたものの、政権からは遠ざけられていた。しかし混乱が広がり、ウマイヤ朝の支配の正統性に各方面から疑問が投げかけられるなかで、アッバース一族はウマイヤ家以上に預言者に近しい血脈を利用し、イスラーム世界の支配権を要求した。アッバース家の当主ムハンマドは、死海南部の小村フマイマを本拠にハーシミーヤという政治運動を組織し、各地にダーイー(秘密教宣員)を派遣してウマイヤ朝への不満を煽動しはじめた。伝統的に反ウマイヤ朝の気風が強いイラクのクーファにも重要な支部がおかれた。

 

ハーシミーヤのダーイーたちは、多くの場合「アッバース家一族のカリフ位推戴」という最終目的を隠しつつ、ハーシム家の一員をカリフとするという目的において共通するシーア派と結び、いたるところで反乱を組織した。ダーイーたちのうちで、最大の成功をおさめたのはホラーサーンに派遣されたアブー・ムスリムで、彼は747年に8000人のホラーサーン人を率いて挙兵し、翌年にホラーサーンの中心都市メルヴを占領。ウマイヤ朝の総督ナスル・イブン・サイヤールを殺害し、大軍を西方に派遣した。ホラーサーン軍は、イラン各地の諸都市を次々に制圧し、749年夏にはイラクに達した。

 

しかしアッバース一族が、密かにこの運動を指導しつつフマイマ村に潜んでいることは、ウマイヤ朝側の察知するところとなり、ムハンマドのあとを継いでアッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドは捕えられ、7498月にハッラーンで処刑された。イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバースら14人は脱出に成功し、クーファに潜入した。

 

イラクに入ったホラーサーン軍は、9月にクーファを降した。ここでアッバース一族が姿を現し、1030/1128日にホラーサーン軍によってアブー・アル=アッバースがカリフとして推戴された。これがアッバース朝初代カリフのサッファーフである。ウマイヤ朝のマルワーン2世は、イラク北部の大ザーブ河畔でホラーサーン軍に抵抗するが(ザーブ河畔の戦い)、7501月に大敗し、エジプトで殺害された。ウマイヤ朝の都ダマスカスも4月に陥落し、ウマイヤ朝の王族のほとんどが殺害された。このとき、辛うじて逃亡に成功したアブド・アッラフマーンはイベリア半島に奔り、この地に後ウマイヤ朝を建てることになる。

 

結果

革命協力者たちへの対応

アッバース家は、各地に放ったダーイーを通じてシーア派やカイサーン派など不満分子の力を利用した。しかし、シーア派が夢みたアリー家イマームのカリフ推戴は実現せず、アッバース朝確立後には、かえって不穏分子として弾圧されるようになる。また革命に貢献したアブー・ムスリムらの功臣たちも、あまりにも強大な力を持つために王朝の安定を損なうものとして粛清された。

 

カリフ権力の強化

アッバース朝では、サーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国に倣って複雑な官僚制が組織され、カリフの権威と権力は至高至上のものとされた。この時代のカリフはめったに人前に姿を現さず、文武百官によって一般庶民から隔絶されていた。宮中でもカリフは周囲に帳をめぐらし、侍従(ハージブ)がカリフへの取次ぎを行なった。そのため高官であっても、カリフと直接に対面することはまれであった。

 

カリフはさまざまな称号を帯び、のちには「預言者の代理人」(ハリーファト・ラスールッラー)ではなく「神の代理人」(ハリーファト・アッラー)と名乗るにいたった。またカリフの玉座の脇には常に死刑執行人が控え、カリフの意に沿わぬものはその場で処刑できるものとされた。

 

ペルシア化

アッバース朝の成立によって生じた最大の変化としては、ペルシア人の影響力が増したことがあげられる。

 

ペルシア人はウマイヤ朝時代には単なる従属民とされていたが、ホラーサーン軍に参加してアッバース革命に大きく貢献したこともあり、アッバース朝の時代には多くのペルシア人官僚が取り立てられた。文官筆頭の宰相(ワジール)の位も、ほぼペルシア人によって独占された。たとえば初代ワジールに任じられたアブー・サラマは、イラン系マワーリーであった。アブー・サラマが粛清の対象として処刑されたあとは、バルフの仏教寺院管長の子孫であるバルマク家の者たちが、ハールーン・アッラシードの時代までワジール位を独占する。

 

また軍事面でも、初期アッバース朝の軍隊の中核を担ったのは、ホラーサーン人によるカリフの親衛隊(ホラーサーニー部隊)であった。文化面でもペルシア化が進み、宮廷ではサーサーン朝に倣った官制や称号、衣服などが導入され、民衆のあいだでもペルシア系文化の影響が増大した。こうした点から、当時のアッバース朝を実質的にアラブ人とペルシア人の連合政権であるとする研究者もいる。

 

イスラーム化

またアッバース朝治下では、それまでの非アラブ人に対する税制上の差別待遇が撤廃された。すなわちムスリムであれば、非アラブ人であってもジズヤ(人頭税)は課されず、一方アラブ人であっても土地を所有していればハラージュ(地租)が課されるようになった。アッバース朝の時代には首都バグダードを中心に国際交易が発達し、多様な文化や民族の融合と一体化が促進された。歴代カリフもそれまでのようなアラブの部族制を重視せず、ペルシア人をはじめとする諸民族から妃妾を迎えた。イスラームへの改宗と、アラビア語の普及も進展した。こうした点から、しばしばウマイヤ朝がアラブ人による征服王朝、すなわちアラブ帝国であるのに対し、アッバース朝は人種を問わない普遍的世界帝国、すなわちイスラーム帝国であると論じられる。

 

歴史的意義をめぐる論争

著名なイスラーム史家のヴェルハウゼンは、アッバース革命をそれまで体制から疎外されてきたペルシア人改宗民(マワーリー)が、アラブ人による支配を覆した政治革命だと論じた。その論拠としては、アッバース革命に対するペルシア人の貢献が大きかったことと、初期アッバース朝政権に多くのペルシア人が参加していたことが挙げられる。

 

ただし、この説には反論も少なくない。それによれば、アッバース革命を担ったホラーサーン軍の中核を占めていたのは定住したアラブ人兵士の子孫であり、革命は体制に不満を抱くアラブ人がペルシア人の力を利用してウマイヤ朝を打倒したに過ぎないという。

2025/01/31

ミクロネシアの神話伝説(1)

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パラウ諸島に、テルケレルという英雄の伝説があります。マーシャルのエタオとか、ハワイ(ポリネシア)のマウイとは違って、こちらはいたってまじめな英雄のようです。また、この物語はパラウの伝統的な踊りやチャントで広く、長く語り継がれているものです。

 

【テルケレルの誕生】

かつて、ンジブタル(NGIBTAL)という小さな島が、パラウ本島のバベルダオブ島の少し沖にありました。ここにミラッドという、貧しいけれども大変聡明な女性が住んでいました。ある日のこと、彼女がタロ芋の収穫に出かけたときのことです。パンダナスの木に何かがひっかかっているのが見えました。よく見るとそれは大きな卵で、手にとって見ると何だか動いているようです。「これは食べるものではないわね、太陽の卵かも。」と彼女は判断し、大切に家に持ち帰ると、かごの中にそっと入れておきました。

 

3日の後、卵から、彼女の指ほどもない小さな子供が産まれてきました。ミラッドは子供に太陽の子、テルケレルという名前を付け、大切に育てました。テルケレルの成長は驚くほど速く、1年もすると普通の体格の聡明な少年に育ちました。

 

そんなある日、テルケレルはミラッドに

「どうしてうちではタロ芋しか食べないの?

それにいつもお腹が減るのはなぜ?」

と訊ねます。

 

「うちは貧乏だし、漁に出てくれる男の人もいないしね。まだお前に漁に出てもらうわけにもいかないし。」と、ミラッド。

「なんだ、そんなことだったら僕に任せてよお母さん」と、テルケレルは言うが速いか海に飛び込み、深く深く潜り、珊瑚の下へ、そして島の下へと潜り込み、ちょっとした細工をしました。

 

ミラッドの家の庭には大きなパンの木があったのですが、テルケレルはミラッドにこの木を切り倒すように言います。ミラッドは、怪訝に思いながらも言われたとおりに木を切ります。すると、どうでしょう、木の切り株には何と海につながる大きな空洞が空いており(これがテルケレルの細工だったわけです)波が来るたびに、切り株からいろんな魚が飛び出してくるではありませんか!

 

おかげでミラッドの家では食べ物に不自由することはなくなり、優しいミラッドは島の他の人達にも魚を分けてあげたので、みんなが豊かに暮らすことができました。

ところが、島の人達は、最初は感謝していたものの、やがてミラッドに対する羨望がうまれてきました。人々は、それぞれが自分の家の庭の木を切り倒しはじめたのです。

 

全ての木から海の水が吹き出た結果、島は大洪水になってしまい、助かったのは、素早く竹でいかだを組み上げたテルケレルとミラッドの親子だけでした。今でもバベルダオプ島の沖合には、水没したンジブタル島が水底に見えるそうです。

 

【テルケレルと石の神テムドクル】

男性だけの集会所「バイ」パラウには、男性だけが集える集会所「バイ」という施設があります。立派な若者に育ったテルケレルは、すでに人々のリーダーとなっていましたが、ある日のバイの集会で、テルケレルの結婚相手が話題に上ります。

「村の女達の中では、誰がお気に入りですか?」

などと、みんなが尋ねるわけです。テルケレルは

「僕は天上で花嫁を見つけてくるんだよ」と言います。

 

「え!普通、天上に行くには先ず死んでからですよ」

「いや、君たちも一緒に来たければ、単に僕の足跡のとおりについてくればいいんだ。」

 

というわけで、男達はテルケレルを先頭に、皆連れだって天上に出かけていきました。いよいよ天上のメインロードに差し掛かるとき、そこにはテムドクル、という大層立派な石の番人が立っていました。彼は決して眠らない大きな眼を持ち、怪しい者が通りかかると大きな口から大音響で天上の人々に、それを知らせるのです。「素晴らしい!」とテルケレル。「是非彼のような番人が欲しいものだ」

 

やがて彼らは天界の神ウチェルの宮殿に到達し、快く拝謁が許されます。そこにはチェリッドと呼ばれる精霊達と共に、とても美しい娘も座っており、彼女がまた愛想良く、みんなに微笑みかけてくれます。テルケレルは正直に、天上界の娘に結婚を申し込みに来たことを告げます。しかし、ウチェルが彼の顔をしげしげと眺めて言うには

「お前さんは普通の人間では無いな。半分は神だ。要するに、ここにいる娘の兄弟だということだ。というわけで、結婚を許すわけにはいかんわなあ。残念だが。」

 

テルケレル一行は、やむなく地上へと引き返すことにします。しかし、くだんのテムドクルにとても未練があったテルケレルは、宮殿に生えていた大きなパンダナスの葉でテムドクルをくるむと、それを抱えて大急ぎで地上に戻り、彼らの村、ンガレゲブクル(NGAREGEBUKL)のバイの前に安置しておいたのです。

2025/01/29

アッバース朝(2)

アッバース朝革命(英語: Abbasid revolution)は、8世紀にウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が成立した一連の過程を指す歴史用語である。軍事的には747年にイラン東部のホラーサーン地方で蜂起が始まり、749年に革命軍が革命運動の本拠地クーファに入城、アッバース家の人物をカリフに推戴した。翌年にダマスクスに進軍、ウマイヤ朝軍を破り終結した。アッバース朝革命の前後で、帝国の構造・社会・文化のありかたが大きく変容し、影響は単に支配家系がウマイヤ家からアッバース家に交替したにとどまらなかった。

 

研究小史

8世紀中葉、ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交替があったことは古くから知られていたが、この歴史的事件に人種主義的な意義づけを与えたのは19世紀末のヨーロッパである。オランダの東洋学者フロテンは、この事件が重税に苦しんでいたイラン人の支配者アラブに対する反乱であったと考え、事件の動因をイラン民族主義と、その表れであるシーア派思想に帰した。

 

ヴェルハウゼンは、このような「イラン民族主義説」を否定し、改宗非アラブのマワーリーの税制上の不平等に起因すると論じた。ヴェルハウゼンによると、革命軍の兵士たちの大半はメルヴ諸村のイラン人農民であるが、革命の指導層にはアラブもいたし、シーア派思想はイラン民族主義とは無関係に生じたものである。革命派のアラブもイラン人も、ともにカイサーン派の一分派であるハーシミーヤに属していたとした。

 

ヴェルハウゼンは1902年に発表した著作の中で、非アラブの改宗者を税制上差別したウマイヤ朝を「アラブ帝国」、改宗者の税制上の差別を撤廃したアッバース朝を「イスラーム帝国」と呼んだ。アラブ帝国ウマイヤ朝から、イスラーム帝国アッバース朝へというヴェルハウゼンの理論は、その後数々の修正を加えられながらも現在(少なくとも20世紀末)でも有効であると言われている。

 

背景

正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。ムアーウィヤが、それまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世が、カルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。

 

ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。

 

主要な要因としては、以下のものが挙げられる。

 

    南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

    それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

    無能なカリフの続出

    シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

    ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 

こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

2025/01/25

アッバース朝(1)

アッバース朝(الدولة العباسيةal-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750–1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。

 

王朝名は、一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。

 

概要

イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。

 

東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。

 

アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は、後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

 

アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。

 

イスラム帝国という呼称は、特にこの王朝を指すことが多い。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

 

歴史

ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。このシーア派の運動は、ペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。

 

また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。

 

ザーブ河畔の戦い

こうした不満を受けて、イラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人と、シーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、7499月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌7501月、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国して、アブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

 

アッバース革命

シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。

 

弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。

 

アッバース朝は、ウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

2025/01/23

ハワイ神話(3)

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タンガロアの世界創生

タヒチでは、タンガロア(ハワイで言うところのカナロア)は全ての神々の先祖でした。世界に空も海も太陽も何も無く、ただ闇だけが拡がっていたころ、タンガロアと彼が住む大きな貝殻だけがこの世界の全てでした。

 

タンガロアは無限の時間を経て目覚め、殻を破って外に出ました。まず顔を上に向け

「誰かいないか?」

と尋ねましたが、当然、何も応えません。次に下を向き、前を向き、後ろを向いて尋ねましたが、やはり何も応えません。

 

タンガロアはしばらく考え込んでいましたが、やがて腹が立ってきました。

「岩よ!」

と呼びかけます。

「こちらに来い!」。

しかし、そもそも岩などあるわけもなく、何も起こりません。

「砂よ!」

「風よ!」

と呼びかけますが、やはり何も起こりません。

 

タンガロアはいよいよ怒り、とうとう自分の住んでいた貝殻をゆっくり高く高く持ち上げました。それは大きな天の半球となり、空になりました。タンガロアは、それをルミアと名付けました。

 

その後、タンガロアは一休みしていましたが、しばらくすると落ち着かなくなり、何より1人でいるのに飽きてきました。そして貝殻の残りの半分を砕くと、おびただしい数の岩と砂ができました。しかし、まだまだ静寂が続いています。タンガロアは自分の命令を聞く者が、どこにもいないことに腹が立ってなりません。

 

仕方なくタンガロアは自分自身の中に入っていき、背骨を引き出して岩々の上に置いたところ、それは壮大な山脈となりました。彼のあばら骨はまだ背骨についたままでしたが、それは渓谷や断崖になりました。次に彼は内臓を引っぱり出し、天に投げました。それは白い雲となり、タンガロアの中にあったときと同様に、ときに水を蓄え雨を降らせたのです。

 

そして今度は筋肉を取り出し、それを使って大地を肥沃なものへと変え、動物や植物が育つようにしました。彼の脚や腕は大地を強固なものにし、海の中に滑っていかないようにしました。手足の指の爪からは、鱗や甲羅を持つ海の生き物ができました。

 

タンガロアはまた、鳥の羽のようなものをまとっていました。その羽をむしると、ブレッドフルーツとパンダナスになりました。このようにして、彼は緑色の根っこから水を吸う全ての植物を創り出したのです。彼の長い腸からは、エビやロブスターができました。

 

タンガロアはあまりに激しく働いたので、彼の血は熱くたぎりました。しかし彼の身体はほとんど空洞のようになっていたので、血はそのまま流れ出てしまい、ある部分は天に昇って朝焼けと夕焼けになり、ある部分は雲に隠れて虹になりました。こんにち、赤い色に見えるものは全て、このときにタンガロアの血から創られたのです。

 

タンガロアの頭は、まだ胴体の殻と共に残っていました。彼の身体は神聖なものなので、そのままでも生きていけたのです。とにかく、このときから世界に豊饒と肥沃さがもたらされました。

次に、タンガロアは天に住む神と地に住む神とを呼び寄せました。そして全ての準備が整った後、最後に人間を創造したのです。

 

このように、世界の始まりは貝殻でした。この貝殻から天空ができました。この貝殻は無限の広がりを持って、カーブを描いています。その中に神々は、太陽や月や惑星や恒星を創ったのです。こうも考えられます。大地は貝殻であって、その上を川が流れ、植物は貝殻に根を通して生えます。男の貝殻は女です。なぜならば男は女から生まれるからです。女の貝殻はやはり女です。貝殻の中、暗い闇の中にこそ命があり、変転を繰り返しながら生まれ出る時を待っているのです。

2025/01/21

トゥール・ポワティエ間の戦い(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエのイレーヌ教会を略奪し、トゥールに進軍してきた。カール・マルテルはこれを迎え撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワチエ間の戦いで、イスラムのヨーロッパ侵攻を食い止めた(732)

 

カロリング朝        

 戦いに敗れたとはいえ、イスラム軍は依然として南フランスを占領していた。カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは759年だった。これ以降、イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 

 カール・マルテルの死後、息子のピピン3(小ピピン)が宮宰になり、メロヴィング朝の最後の皇帝を廃して王位についた。こうしてカロリング朝(Karolinger)が始まった(751)。ローマ教皇ザカリアスは、このクーデターを承認した。

 

 北イタリアでは、ゲルマン人のランゴバルド王国がラヴェンナを攻撃しローマに迫ってきた。ピピン3世はローマ教皇の救援要請を受けてイタリアに出兵し、ランゴバルド王国を討伐した。そしてラヴェンナと、その周辺をローマ教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となった。

 

ローマ皇帝の戴冠

 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につくと、積極的に外征を行い領土を広げた。まずイタリアのランゴバルド王国を、続いてザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars)を征服し、西ヨーロッパを統一した。ピレネー山脈を越えて後ウマイア朝も攻撃したが、これは失敗した。この事件を題材とした物語がローランの歌である。そしてイスラムの再侵入に備え、フランスとスペインの間にスペイン辺境領を設置した。

 

 カールは国を多くの州に分け、各州に伯(はく)をおいて統治させた。伯は貴族の称号になった。また首都アーヘンに人材を集め、教育や文化を奨励した(宮廷学校)。この学校は各地の修道院に広がり、ラテン語の教育が盛んに行われた。

 

 フランク王国はビザンツ王国にならぶ強国となり、8001225日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた(カールの戴冠)。ここに西ローマ帝国が復活し、民族の大移動以来、混乱していた西ヨーロッパに平和が訪れた。ローマ教会はビザンツ皇帝から独立し、やがてギリシア正教会とローマ・カトリック教会に分裂することになる(1054)

 

フランク王国の分裂

 フランク王国は王が死ぬたびに相続争いが起き、843年のヴェルダン条約で西、中部、東の3王国に三分割された。中部フランクは長男のロタールが国王となったが、彼の死後、東フランク王国と西フランク王国に併合された(メルセン条約:870)

 

 異民族の侵入は激しく、東からはマジャール人、北からはスカンディナヴィアに住むヴァイキング(ノルマン人:北の人)、南からはアラブ人(ムスリム)が王国を荒らしまくった。

 

 ノルマン人の侵入に手を焼いた西フランク王は、ノルマン人の部族長ロロをキリスト教に改宗させ、ノルマンディー地方に定住することを認めた(911年、ノルマンディー公国の誕生)。異民族の侵入を防ぐため、辺境防衛を担った貴族は勢力を伸ばし、王権は弱まった。

 

 やがて、東フランク王国では王を選挙で選ぶようになり、10世紀に王位に就いたザクセン家のオットー1世が戴冠して、神聖ローマ帝国皇帝となった(962)。西フランク王国でも、パリ伯ユーグ・カペーが王に選出され、カペー朝フランス王国が始まった(987)。イタリアでは、各地の諸侯や東フランク王がイタリア王位をめぐって争い国は乱れた。

2025/01/17

トゥール・ポワティエ間の戦い(2)

戦闘

宮宰カール率いるフランク王国連合軍は、騎兵の多いガーフィキーの軍隊に対し場所を選んだ。イスラム側の多くは騎兵であり機動力を発揮できないよう、丘や樹木などの地形とファランクスを上手く活用し防衛体制と整えた。歩兵と騎兵の戦闘ながら決着はつかず、7日間の小競り合いが続いた。イスラム側はフランク王国連合軍の主体が歩兵であることから、戦闘を楽観視していた。

 

トゥールとポワティエの間のクラン川と、ヴィエンヌ川の合流点で2つの軍が合流したと想定しており、両軍の兵士の数は不明。ラテン語資料である『754年のモサラベ年代記』においては、詳細な人数においては言及されていない。両陣営の動員数は当時の兵站を鑑みるに、フランク王国連合軍が15,000 - 20,000人。ガーフィキー率いるアル=アンダルス遠征軍が20,000 - 25,000人とされている。

 

歴史家のポール・K・デイヴィスは、1999年にイスラム教徒の軍隊を約80,000人、フランク王国連合軍を約30,000人と推定した。一方でエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)は、ウマイヤ朝の数が60,000-400,000とフランク王国連合軍が75,000の範囲であったという古い見積もりを拒否した。戦地の広さと、当時の補給事情を鑑みるに50,000人を超える兵数は運用できないと指摘した。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)は、フランク王国連合軍15,000 - 20,000人、イスラム教徒の軍隊を20,000 - 25,000人と見積もった。

 

最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した。人種・民族・宗教入り乱れるガーフィキーの軍では、戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である)、ガーフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。ガーフィキーの死亡は『754年のモサラベ年代記』でも言及されている。

 

イスラム側の記録によると、ガーフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く、夜の内に撤退したという。(ガーフィキーはイスラム側では、民族や文化の垣根を越えた優秀な指導者であったと評価されている。)

 

フランク王国連合軍は、後日の攻撃に備えて直ぐには武装解除しなかった。

 

影響

このフランク人の勝利は、ムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、ピレネー山脈を超えてフランス王国領内にアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。そしてこの戦いによって、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシアの宮宰出身であったカール・マルテルの息子小ピピンは教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。小ピピンは息子に王位の世襲を行わせたため、小ピピンの息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(800年にフランク・ローマ皇帝として戴冠。)である。

 

ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いとなっている。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。また、エドワード・ギボンも自著『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。

 

一方、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」、あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパ側の評価とは著しく異なる。

 

備考

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世の暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類にとって決定的な不幸の一つ」と評している。

2025/01/12

トゥール・ポワティエ間の戦い(1)

トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。

 

その後も735 - 739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したが、カール・マルテル率いるフランク王国連合軍により撃退された。

 

名称

英語では「Battle of Tours(トゥアー(トゥールの意)の戦い)」、アラビア語では「معركة بلاط الشهداء(マウラカト・バーラト・アル=シュハーダ(殉教者の道)の戦い)」と呼ばれる。イスラム教徒側の呼称の由来は、14世紀モロッコのマラケシュの歴史学者イブン・イダーリーの歴史書「アル=バヤーン・アル=マグリブ(البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب、略称バヤーン(بيان ))」に由来する。同書のアンダルスの歴史の中で、イブン・ハイヤーンの資料から

「アンダルシアの支配者であるアブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー(以下、ガーフィキー)はローマ人の土地に侵入し、ヒジュラ暦115年に「殉教者の道(بلاط الشهداء)」として知られる場所で、彼の軍隊と殉教した。」

という記述があることによる。イブン・ハイヤーンは戦いの地で、アザーンが長い間聞かれるようになったと語っている。

 

背景

イスラム世界初の帝国であるウマイヤ朝は、第10代カリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの時代で比較的安定していた。第6代カリフのワリード1世の時代に進行したイスラム軍は、アンダルス(現スペイン)を支配下に置いた。この征服に対し、現地のキリスト教領主たちは対抗し小競り合いが絶えなかった。シャリーア(イスラム法)のジズヤを貢納することで信仰の自由は認められていたものの、アラブ人とそれに追従したベルベル人、そして現地のキリスト教徒たちは相容れない生活を送っていた。またアラブ人が直轄する街ではイスラム色が濃く、問題も発生していた。

 

アル=アンダルスのワーリーであったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニーが、トゥールーズの戦いでヨーロッパへの領土拡張を行っている。トゥールーズの戦いでは、アキテーヌ公のウードの活躍により勝利した。

 

この戦いでハウラーニーは重傷を負い、まもなく亡くなった。しかしイスラム勢力の脅威が消えた訳ではなく、緩衝地帯に位置するアキテーヌには常に不安があった。

 

この後、ウード大公が自分の娘(おそらく名前はランペジア)をアル=アンダルスの副知事であるムヌザ(サルデーニャのムヌザ:カタルーニャの領主、ベルベル人)に嫁として送った。ウード公と和睦することで、アキテーヌを緩衝地帯とする目的があったと思われる。しかし、新たにアル=アンダルス総督に任命されたガーフィキーから、反乱を企てているとムヌザは疑われることになる。対するメロヴィング朝フランク王国の宮宰であるカールも、イスラム国家と通じることを良しとせず、アキテーヌへと侵攻した。

 

730年(ヒジュラ暦112年)にワーリーに任命されたガーフィキーは 、サルデーニャで独立政権を打ちたてようとしたムヌザを攻撃した。彼は殺され、妻(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへと送られた。ウード公は援軍を送りたかったが、不信を買った宮宰カールと交戦中でできなかった。

 

ウード公も宮宰カールに敗れ、アキテーヌは没収された。その後、ピレネー山脈を越えてウード公の領地であるアキテーヌへと侵攻するガーフィキー率いるイスラム勢力を、領土を失ったウード公と家臣たちは、ガロンヌ川の戦い(ボルドーの戦い)で対決する。ウード公の軍を破って、アキテーヌ北部まで侵攻し略奪を行った。

 

だが、ウード公は逃げ延び体制を建て直すため、宮宰カールへと救援要請を行った。イスラム勢力の侵攻を知った宮宰カールはウード公を自軍の右翼に組み込み、他の領主たちを集めてフランク連合軍を組織。トゥールとポワティエ間にある平野で、アル=アンダルス総督であるガーフィキー軍と衝突することになった。

2025/01/11

源信(3)

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15才、天皇に説法

源信は良源の期待に応え、学問では比叡山で一二を争うほどになります。

その上、頭が良いだけでなく、修行もすばらしいもので、源信の評判はついに時の村上天皇にまで聞こえたのでした。やがて天皇から「宮中で『称讃浄土経』を講義せよ」といわれます。

『称讃浄土経』とは、『阿弥陀経』の異訳のお経です。鳩摩羅什の翻訳した『阿弥陀経』に対して、玄奘が翻訳したのが『称讃浄土経』です。

 

当日、源信が宮中に赴くと、目もくらむような清涼殿で、天皇を始め、たくさんの大臣たちが参詣しています。源信はそこで、弁舌さわやかに『称讃浄土経』を講義したのでした。

その堂々たる熱意と、講義の深さ、分かりやすさは、並みいる天皇や貴族をことごとく感嘆させ、源信は、その場で「僧都(そうず)」の位と、美しい衣をはじめとするたくさんの褒美の土産をもらったのでした。

 

母親の厳しい戒め

若くして時の天皇からほめられた源信僧都は、有頂天になりました。

お母さんにも教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろうと、もらった褒美の品々をお母さんに贈って、手紙で報告したのでした。

 

ところが、お母さんの反応は意外なものでした。しばらくすると、すべての褒美の品々が送り返され、

「後の世を 渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき」

という歌が添えられていたのでした。

 

「後の世」というのは、後世とか後生ともいいます。この後世について蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。

 

それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。

たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり。

(御文章五帖)

 

「八万の法蔵」というのは、お釈迦さまが説かれた一切経です。それだけではなく、この世のすべての知識が八万の法蔵に入ります。八万の法蔵を知る人というのは、何を聞いても答えられる人です。

普通はそういう人は賢い人です。ところが「愚者」というのは、愚か者ということで、バカのことです。何を聞いても適切に答えられるバカがいる。それはどんな人かというと、仏教では、後世が分からない人は、愚か者だということです。

 

「一文不知」というのは、本を読もうと思っても読めない人です。そんな文字が読めない人でも、後世を知る、後生明るい人が智者だと言われています。その後世を知らない愚者を、後世を知る智者にするのが、僧侶のつとめです。

 

「後の世を渡す橋」というのは、後生明るくなるように教える僧侶のことです。私がお前を比叡山にやったのは、後の世を渡す橋になれよと思ってのことなのに、世渡る僧となってしまった。何と悲しいことだろうか。迷いの人間からほめられて喜んでいるようでは、お前は何という情けない者になってしまったのだ。

 

このような歌の意味を、源信僧都はすぐに分かったのでした。そして深く反省した源信僧都は、天皇からの褒美の品はすべて焼き捨て、後生の一大事の解決一つのために修行に打ち込むのでした。

 

27才、源信僧都の聞法

源信僧都は無常をみつめ、一切経を5回もひもとき、小乗仏教も大乗仏教も、大乗仏教では華厳宗も法相宗も天台宗も真言宗も極めたのですが、後生の一大事の解決はできません。むしろ燃え盛る煩悩が知らされるばかりで、悪しかできない自己の姿に泣かされるのでした。

 

やがて27才のとき、こんな自分を導く先生はおられないものかと、比叡山を下りて各地を探し回ります。その時、源信僧都は、当時、大日如来が天照大神となって現れていると信じられており、奈良の大仏が建立される時も聖武天皇が仏の心を聞いたと伝えられる伊勢神宮に、7日間参籠したのでした。

 

すると7日目の明け方、夢に貴い女性が現れて、

「阿弥陀如来に向かうように」とのお告げを受けます。

 

空也との出会い

その後、源信僧都は、空也(くうや)も尋ねます。空也は源信僧都より39才年上で、もう60代でした。

当時、常に南無阿弥陀仏を称えながら、町中を巡り歩き、橋を架けたり井戸を掘るような社会貢献もして、民衆に人気がありました。その空也に個人的に会いに行ったのです。

 

源信僧都は、空也に尋ねます。

「私は心から浄土往生を願っているのですが、私のようなものでも浄土へ生まれられるのでしょうか」

 

ところが空也はこう言います。

 

「私のような無知な者にどうしてそんなことがわかるでしょうか」

 

「では、私はどうすればいいのでしょうか」

 

「もし智慧がなかったとしても、浄土往生を願う心がまことならば、阿弥陀如来はどうして放っておかれるでしょうか」

 

こうして源信僧都は、比叡山に帰り、30才頃には、比叡山の奥の横川に隠棲し、ひたすら後生の一大事の解決を求めたのでした。

 

30才、横川の僧都

横川というのは、20年以上前、夢にみたところでした。比叡山の根本中堂よりもさらに北へ5.5キロにあります。その横川の中堂である首楞厳院(しゅりょうごんいん)に移ったので、親鸞聖人は源信僧都のことを「首楞厳院」とか、「楞厳の和尚」いわれることがあります。

その後は、恵心院(えしんいん)に移ったので、恵心僧都ともいわれます。また、紫式部の『源氏物語』に出てくる、横川の僧都のモデルになったともいわれます。

 

こうして源信僧都は横川に入り、34才の時に仏教の論争のために山を下りて、2人論破した以外は、ひたすら後生の一大事の解決一つに打ち込んだのでした。そしてついに、七高僧の5番目の善導大師の指南により、阿弥陀如来の本願に救われたのでした。

 

このことを親鸞聖人は『正信偈』に、源信僧都がこうおっしゃっているといわれています。

 

我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)

大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

(正信偈)

 

これは、『我もまた彼の摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう』といえり」と読みます。

 

「我もまた摂取のうちにある」というのは、「我」は源信僧都のことです。

「摂取」というのは、阿弥陀如来の摂取の光明のことで、阿弥陀如来のお力です。阿弥陀仏のお力によって、私も死ぬと同時に浄土へ往ける絶対の幸福に救われた、ということです。

ところが、絶対の幸福に救われても、欲や怒りの煩悩は少しも変わりません。

 

「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」というのは、煩悩が邪魔して、肉眼で阿弥陀如来を見ることはできないけれど、といわれています。ですが、阿弥陀如来に救われてからは、夜昼常に阿弥陀如来の大慈悲に守られ、浄土往生は間違いなしの絶対の幸福に生されているのだ、というのが

 

「大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう」ということです。

 

このように、阿弥陀如来の本願に救いとられた源信僧都は、生きている時に絶対の幸福に救われる、平生業成の教えを明らかにされているのです。

2025/01/10

ハワイ神話(2)

ペレ (Pele) は、ハワイに伝わる火山の女神。ペレホヌアメア(「聖なる大地のペレ」の意)、ペレアイホヌア(「大地を食べるペレ」の意)、ペレクムホヌア(Pele-kumu-honua、「大地の源」の意)という呼び名でも知られている。

 

ハワイの神々の中ではもっとも有名とされ、炎、稲妻、ダンス、暴力などを司るとされる。美しく情熱的だが気の荒い女性で、嫉妬や怒りから人々を焼き尽くすとして畏怖の対象とされている。またペレの好物とされる特定の食物(オヘロと呼ばれる野苺の一種など)を食べることは、カプとして固く禁じられている。

 

ポリネシア神話に連なる神々の中で、ペレは特にハワイで広く信仰された。

 

ロヒアウとペレ

ペレはある夜に魂となってカウアイ島に赴き、美貌の王子ロヒアウと出会った。2人は互いに一目惚れした。ペレは妹のヒイアカを差し向けてロヒアウを迎えに行かせたが、ヒイアカの進むのが遅く、到着したのはペレを待ち続けたロヒアウが死んだ後だった。しかしロヒアウの魂がまだ近くにいたため、ヒイアカはロヒアウの父王が催したフラの宴を継続させ、その間にロヒアウの蘇生を図り、彼の魂を肉体に戻して生き返らせた。この過程でロヒアウとヒイアカは互いに惹かれ合うようになっていた。

 

ハワイ島に戻ったヒイアカとロヒアウはペレの怒りの炎を浴びたため、ヒイアカは無傷だったがロヒアウは焼死した。その後、ヒイアカはロヒアウを再び蘇生させ、カウアイ島で暮らしたと言われている。この物語はあまり知られていないことから、フラの特定の流派だけに伝わっていたと考えられている。

 

雪の女神ポリアフとペレ

マウナケア山に住む雪の女神ポリアフはペレとは対立関係にあり、2人はしばしば争った。ある時の戦いでは、ペレの流す溶岩をポリアフが雪を降らせて冷やしたため、溶岩が固まって火口を覆ってしまい、海へ流れ出す溶岩の量も減って海水で冷やされた。こうして溶岩台地のラウパーホエホエが形成された。

 

豚神カマプアアとペレ

ペレたちが暮らすキラウエア山の火口に豚神カマプアアが現れると、2人は戦いを始めたが、ペレの流す溶岩をカマプアアは呪文の力で止めてしまった。ペレらは和解して彼を家族として迎え入れ、ペレとカマプアアは夫婦となった。しかし2人はしばしば火山の噴火と海水による洪水によって争った。カマプアアは海水でペレをキラウエア火山の火口に追い詰めたが、ペレの叔父である地底の神ロノマクアが種火を彼女に与えたため、再び噴火を起こして形勢を逆転した。しかし最後にはペレが破れたともされる。2人は和平を結び、ハワイ島を分けて支配した。風上の湿ったコハラなどの地域がカマプアアのものとなり、プナ、カウ、コナなど風下の乾燥した地域がペレのものとなったという。

 

2人の間には息子オーペル・ハアア・リイがおり、彼はハワイの王族と平民の祖先とされるが、別の説では幼い頃に死んだとも、魚のムロアジ(ハワイ語で「オーペル」)になったともされている。その後カマプアアが海の底の国の王女と結婚したため、ペレは彼に戻ってきてほしいと歌を歌ったとも言われる。

 

カマプアアとペレの愛憎に満ちた関係は、ハワイで「Aia Kaʻuku」というメレ(歌)に歌われている。

 

民話でのペレ

ある日2人の少女がパンの実を焼いていると、飢えた老婆が分けてほしいと懇願してきたため、年下の少女だけが老婆にパンを分けた。去り際に老婆は年下の少女に、山で間もなく異変が起こることを告げた。帰宅した少女からこのことを聞いた祖母は、老母の正体がペレだと考え、老婆の言ったとおりに10日間タパの切れ端を玄関に掛けておくこととした。

 

数日後、山が炎を吹き上げ、その噴煙の中には若い美しい女の姿があった。少女は女の目が老婆の目とそっくりだと気付いた。村は流れ出した溶岩に覆われたが、少女の家だけは溶岩が避けていったため、少女と家族はペレに感謝した。

 

カメハメハ大王とペレ

カメハメハ1世(大王)が、ハワイの全諸島を統一し支配すべく戦争を続けていたさなかの1790年に、キラウエア火山が最大の爆発を起こした。その際、カメハメハの敵であるケオウア・クアフウラの軍勢が、ヒロからカウへの移動中にちょうど火山の噴火口にさしかかっており、爆発によって軍勢が全滅した。この出来事は、ペレがカメハメハに助力したためだと信じられたという。

 

キリスト教化後のペレ信仰

アメリカ、フランス、イギリスといった国々のキリスト教各宗派がハワイなど太平洋の島々で宣教を始めたのは18世紀末からで、19世紀半ばにはハワイのキリスト教化(英:Christianization)は概ね終了した。それに先立つ1819年に、即位したばかりのカメハメハ2世によって、カプと呼ばれる古くからの禁令制度が廃止された。カプによって生活上さまざまな拘束を受けていた人々がこれを受け入れたことで、神官は拒絶され、神殿は破壊され、宗教的な儀式は中止された。

 

人々は古来の神々への信仰からもアウマクア(祖先神)信仰からも離れて、キリスト教やその後にハワイに入ってきた他の宗教に移っていった。しかし女神ペレだけは、彼女が住むとされるキラウエア火山の存在感の大きさによって信仰を失うことはなかったという。

 

キラウエア火山の火口から30kmほど離れたワイオケレ・オプナの原生林での地熱発電の開発計画が持ち上がった時、「ペレ・ディフェンス・ファンド(英: Pele defense fund、ペレ防衛基金)」が反対運動を起こしている。ペレ・ディフェンス・ファンドの参加者は、キラウエア火山の噴火とは姿を変えたペレであり、キラウエア火山の地熱を利用することはペレの生命力(マナ)を侵す行為だと主張した。ハワイでの地熱発電は、こうした宗教的な理由によって推進しにくいものとなっているという。

 

ハワイ島のブラック・サンド・ビーチには、溶岩が細かく砕かれた黒い砂が広がっているが、こんにちでも、島からこの砂を持ち出すとペレの祟りがあると信じられている。