2025/11/15

ロシア史(2)

国家の継承

ロシアは、862年のノヴゴロド建設から国家を継承している。

 

    キエフ大公国 (882–1240)

    モスクワ大公国 (1263–1547)

    ロシア・ツァーリ国 (1547–1721)

    ロシア帝国 (1721–1917)

    ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国・ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991)

    ロシア連邦 (1991–)

 

19981023日、ロシア連邦議会の連邦院は、「ロシア帝国、ロシア共和国、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ソ連、ロシア連邦は、同じ国家であり、国際法でも同じ対象であり、その存在は消滅していない」ことを確認した。

 

国際的な継承の問題は、条約に関する国家の継承に関するウィーン条約(1978)および国家の財産、公文書及び債務に関する国家承継に関する条約によって規定されている。1991124日のソ連の対外公的債務及び資産に関する継承に関する条約では、継承を次のように定義している。

 

第一条〔中略〕c) 国の継承とは、ある領土の国際関係の責任において、ある国が他の国に置き換わることをいう。

この定義は、1978年ウィーン条約第2条に最初に定められたものである。1983年ウィーン条約第2条にも含まれている。

 

ロシア連邦は継承国であり、ソ連は前身国である。ソ連は、1917117日まで存在していたロシア臨時政府の継承国である。そして最後に、ロシア臨時政府はロシア帝国の継承国となっている。このように、形式的・法的な意味では、ロシア連邦はロシア帝国(ロシア国家)の継承国である。しかし、ロシア連邦は、直接ではなく間接的に、上記のような一連の流れを踏襲して、ロシア帝国の後継国となっている。同時に、上記のどの段階においても、前身国からの継承が完全に認められていないことが明らかである。

 

ロシア連邦はソ連の後継者であり、ソ連が認めたロシア帝国とロシア臨時政府の国際的な義務のうち、ロシアが自主的に引き受けることに同意したものの範囲内での継承国である。

 

古代

現在のロシア連邦のヨーロッパ部分の西部と、ウクライナの北部、そしてベラルーシにあたる地域には、ゲルマン人の東方への移動後、東スラヴ人と呼ばれるスラヴ人の一派が居住するようになっていた。スラヴ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた彼らの西にはバルト諸語を話す人々、東や北にはフィン・ウゴル諸語を話す人々が彼らと同じような生活を送っており、南の黒海北岸のステップは様々な言語を話す遊牧民の天地であった。やがて、この地域の遊牧民の多くは言語的にテュルク系に同化し、突厥の大帝国が崩壊した後はヴォルガ川の下流でハザール可汗国を形成した。

 

やがて、西ヨーロッパでフランク王国などのゲルマン人の王国が形成された頃、北西のスカンディナヴィア半島でノルマン人(ヴァイキング)たちが活動を活発化させ始めた。海賊・侵略行為のみならずバルト海・北海での交易に携わったノルマン人は、その航海技術を生かしドニエプル川をつたって黒海に出て、はるか南の東地中海地域で経済的に繁栄する東ローマ帝国との交易にも乗り出した。

 

また、ハザールを経由したイスラム帝国の交易も盛んに行われていたために、これらの二つの交易ルートを通して東スラヴ人たちは、ノルマン人とハザール人の影響を受けて国家の形成に向かい始めた(ヴァリャーギからギリシアへの道)。一方で、ノヴゴロド方面へ進出したノルマン人たちは、ヴォルガ川を下り、カスピ海方面にも達している。

 

彼らは、ルーシ以前のロシアを「ガルダリケ」(古ノルド語: Garðaríki)と呼んだ。スラブから、ノルマン人は多くの習慣、造船の方法、幾つかの航海の表現を採用した。Garðという言葉も、スラブ語に由来している。現代ロシア語には、デンマーク語とスウェーデン語からの借用も含まれている。

 

中世

後の時代のルーシ人が残した年代記によると、862年にノルマン人のリューリクが交易都市ノヴゴロドの公(クニャージ)となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間で幾つかの国家が形成され始めた。これらの国々があったこの地域は、リューリクの属する部族ルスの名前に因んでルーシと呼ばれるようになるが、このルーシという地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけられるようになる。

 

しかし「ロシア」という言葉は、中世時代のギリシア人がルーシに対して使った言葉であって、ルーシ人自身は自分たちの国を「ルーシ」と呼んでいた。やはり年代記の伝えるところによると、882年にリューリクの子イーゴリは一族オレーグの助けによりドニエプル川中流の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定めたという。

 

史実としての真偽はともかくとして、バルト海に近いノヴゴロドからキエフを経て黒海に出る道が同じ一族に属する支配者の手によって統合された。オレーグとイーゴリは周辺の諸部族の間に勢力を広げ、イーゴリを始祖とする歴代のキエフ公のもとにルーシへと国家権力を形成していった。この一族はノルマン系であるとされているが、10世紀までには、スラヴ系へと急速に同化していったと言われている。

 

10世紀末には、キエフ公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容して、ルーシは国をあげて正教会の信徒となり(cf. キエフ・ルーシのキリスト教化)、スラヴ語を書き表すための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。

 

また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたルーシをキエフ大公国の下にほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるキエフ大公国を盟主としつつも、リューリク・イーゴリ兄弟を始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、12世紀頃にはキエフ公国の衰退に伴ってウラジーミル大公国を中心とする北東ルーシ諸公国、北西ルーシで貴族共和制を実現したノヴゴロド公国、ルーシ西部を支配し、ルーシの都キエフを支配し続けたハールィチ・ヴォルィーニ公国などの、幾つかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。

2025/11/14

親鸞(3)

東国布教

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

 

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる[要出典]

 

そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる[要出典]

 

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。

 

西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、文永9年(1272年)にこの地で没したとしている。

 

この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に蓮位坊(下間氏の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。

 

帰京

623歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

 

帰京の理由

確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。

 

    天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する弾圧はつづいているため、帰京の理由としては不適当という反論がある。

 

    主著『教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。

 

    東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。

 

    望郷の念によるもの。35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。

 

    著作活動に専念するため。

当時623歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。

 

妻・恵信尼の動向

確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。

 

    東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)。京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。

 

    京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。

 

承久の乱

承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる

寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

 

    宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

    建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

    建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

    建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

 

    建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。

 

    建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。

 

    建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。同年529日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。

 

    康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

    康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

    正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。

 

南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。

この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。

2025/11/11

ロシア史(1)

ロシアの歴史は、1000年以上あり、6世紀-7世紀の東ヨーロッパ(ロシア)平野における東スラブ人の再定住から始まる。東スラブ人は後にロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に分かれた。ロシアの歴史は、大きく7つの時代に分けることができる。

 

キエフ大公国(キエフ・ルーシ)(9世紀 - 12世紀)、タタールのくびき(13世紀 - 15世紀)、モスクワ大公国(1340 - 1547年)、ロシア・ツァーリ国(1547 - 1721年)、ロシア帝国(1721 - 1917年)、ソビエト連邦(ロシア共和国)(1917 - 1991年)、ロシア連邦(1991年以降)である。

 

概要

伝統的にロシアの歴史の始まりは、ヴァリャーグの一人、リューリクが862年にラドガを支配し、ノヴゴロドを建設したところからだと考えられている。882年には、ノヴゴロド公オレグがキエフを征服し、一つの権力の下で東スラヴの北部と南部の土地を統一し、キエフ大公国の基礎を築いた。

 

988年には、ウラジーミル1世がビザンティン教会(東方正教会)からキリスト教を受け入れ、東ローマ帝国のビザンティン文化とスラヴ文化の統合を開始した。しかしキエフ大公国は、1237年から1240年にあったモンゴルのルーシ侵攻の結果、崩壊した。

 

モンゴルから開放後の14世紀、支配下に置かれなかったノヴゴロド公国とウラジーミル・スーズダリ大公国は、リトアニア大公国の一部となった。イヴァン3世の時代にはロシアによる単一国家が形成され、16世紀初頭にはモスクワ大公国を中心に北部と東部の諸侯国を統一し、ロシア・ツァーリ国が建国される。最初の君主はイヴァン4世だった。イヴァン4世による統治の始まりは、最初のロシア議会(ゼムスキー・ソボル)の設立によって示された。

 

その後、国家は大きく領土を拡大し、汗国のジョチ・ウルスを併合した。そしてロシア・リトアニア戦争(ロシア語版)に敗れたリトアニア大公国は国家の独立を失い、南ロシアの土地をポーランドに譲渡した。後に、フョードル1世の死とリヴォニア戦争の敗北、それにオプリーチニナの失敗の結果、ノヴゴロド公国から存在したリューリク朝は終焉を迎え、動乱時代を経て新たにロマノフ朝が台頭し、ロシア帝国が成立した。これと同時に農奴制が始まった。

 

18世紀から19世紀にかけて、国家は絶えず拡大を続けバルト三国、黒海北部地域、コーカサス地域、フィンランド、中央アジアをポーランド分割の間で獲得し、ザカルパッチャを除くロシアの旧領地の全てを支配した。19世紀初頭、ロシアはナポレオンを撃破(1812年ロシア戦役)し、数十年にわたって「ヨーロッパの中央国家」となった。1825年に君主制を制限して、農奴制を廃止しようとしたデカブリストの乱は鎮圧された。その後も幾つかの革命が起きたが、成功には至らなかった。1861年には奴隷制は廃止されたが、1905年から1907年の革命までは、土地の償還金という形で農民の封建的な依存の形態が実際に温存されていたため、市民の間でかなりの不満が生じた。

 

奴隷制廃止後に可能となった農民の都市への流入は、19世紀末の産業革命に繋がるとともに革命運動が大きく発展し、帝政ロシアを打倒するための革命集団が出現した。20世紀初頭には、政治的、社会的、経済的に危機的状況に陥り、日露戦争にも敗れた。1905年のロシア第一革命の影響で、権力は議会を再設置し、基本的な権利と自由、私有地の所有権を認めるようになった。第一次世界大戦へのロシアの参戦は国内の問題を悪化させ、最終的には1917年の2月革命と10月革命とロシア内戦の勃発に繋がった。

 

レーニン率いるボリシェヴィキは社会主義国家建設の道を歩み、内戦とシベリア出兵の勝利を経て、バルト三国、ポーランド、フィンランドの独立を認め、旧ロシア帝国の領土の大部分にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の権力を確立した。1922年には、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。1920年代にスターリンが政権を握ると、工業化、集団化、そして大粛清の時代が始まった。ソ連は工業生産のレベルで世界第2位となった。

 

スターリンの統治時代に第二次世界大戦が勃発し、「大祖国戦争」が起きた。ナチス・ドイツと枢軸国を撃破し、4年間の戦闘で約2700万人が犠牲となった。ソ連はナチス・ドイツの敗北に決定的に貢献し、東欧・中欧諸国を「解放」してバルト三国を併合した。終戦後、ソ連は超大国の1つとなり、アメリカとの冷戦に突入し、北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTOWPO)が対立した。

 

20世紀半ば、ソ連は経済力、軍事力、科学力を積極的に高めて、1961年には世界初の有人宇宙飛行を成し遂げた。1980年代になると、国は経済・政治運営の「停滞期」に陥る。これを打開しようとしてゴルバチョフはペレストロイカを実行したが、この改革の試みは結果的にソビエト連邦共産党の解体とソビエト連邦の崩壊に繋がった。

 

ロシアの近代的な独立国家であるロシア連邦は、199112月に建国宣言をした。ロシアはソ連の正当な継承国で、国連安全保障理事会の常任理事国、ソ連の核兵器を保持していた。私有財産が認められ、市場経済のための進路が取られたが、1990年代後半の経済危機でデフォルトに陥った。2000年以降、プーチンの下でロシアの外交政策が強化され始め、数々の社会・経済改革が行われたことで、経済が大幅に成長し、国内の縦割り権力が強化された。2014年、ウクライナでの市民対立の激化と政権交代を経て、クリミア半島がロシア連邦に併合されたことで、多くのEU諸国や米国が鋭く否定的な反応を示し、ロシアに対して経済制裁を科した。

 

ロシア史として記述される歴史は、ロシアという国家の単線的な歴史であると同時に、歴史上ロシアに内包されたり、関わりをもったりしてきた様々な人々が出入りする複雑な歴史でもある。

 

名前の由来

ロシア(ギリシャ語:Ρωσία)という名前は、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス7世が「儀式について」と「帝国の管理について」で名前の原型であるルーシという名前を10世紀に付けた。キリル文字での記録で「ロシア (Росия)」という言葉が最初に使われたのは、1387424日である。その後、15世紀の終わりから16世紀の初めに、頻繁に「Росия」または、「Русия (ルシア)」が使われ、ロシア北東部の自称としての地位を確立した。最終的にピョートル1世によって「Росия」に「с」を付け加えた現在の「Россия」という形が確立した。

 

ロシアは、191738日に起きた2月革命の結果、同年316日にロシア臨時政府が設立されその後、十月革命によりロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 (RSFSR)が成立した。19221230日、RSFSRは他のソビエト共和国と共にソビエト社会主義共和国連邦を設立し、非公式に「ロシア」と呼ばれていた。

 

19911225日のソビエト連邦の崩壊後、ソビエト連邦人民代議員大会はRSFSRをロシア連邦(ロシア)に改名する法律を採択した。

2025/11/09

親鸞(2)

改名について

    「善信」実名説:「綽空」から「善信」(ぜんしん)への改名説。「親鸞」の名告りは、それ以降とする説。

覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。

 

    「善信」房号説:宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』において主張し、真宗学者の本多弘之らが支持する説。「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献『親鸞敎學』95号)。「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。

 

妻帯

妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。

 

    法然のもとで学ぶ間に、九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。「玉日」について、歴史学者の松尾剛次、真宗大谷派の佐々木正、浄土宗西山深草派の吉良潤、哲学者の梅原猛は『親鸞聖人御因縁』、伝存覚『親鸞聖人正明伝』、五天良空『親鸞聖人正統伝』の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。

 

対して、日本史学者の平雅行は『親鸞聖人御因縁』、『親鸞聖人正明伝』、『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している。

 

これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する。

 

    法然のもとで学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」と京都で結婚したという説。「恵信尼」については、大正10年(1921年)に恵信尼の書状(「恵信尼消息」)が西本願寺の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。

 

    京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。

 

    玉日と恵信尼は同一人物で、再婚ではないとする説。

 

    法然のもとで学ぶ間に、善鸞の実母と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や、越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く、史料として価値が低いとしている。当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

 

    親鸞は、妻との間に43女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。

 

師弟配流

元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

 

建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

 

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

 

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。

 

承元5年(1211年)33日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

 

建暦元年(1211年)1117日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。

 

同月、法然に入洛の許可が下りる。

 

親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。

 

建暦2年(1212年)125日、法然は京都で80歳をもって入滅する。

 

赦免後の親鸞の動向については二説ある。

 

1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。

 

対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている。

2025/11/04

黄巣の乱

黄巣の乱(こうそうのらん)は、中国唐末の874年に起きた反乱。

 

乱勃発まで

政治の腐敗と天災が重なり、859年の裘甫の乱・868年の龐勛の乱など反乱が続発していた。これに続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。

 

870年くらいから唐では旱魃・蝗害などの天災が頻発しており、農民の窮迫は深刻なものとなっていた。874年の上奏によると、長安と洛陽の中間地点から東の海に至るまでの広い地域が干害に襲われ、麦の収穫は半分となり、民衆はヨモギやエンジュの葉を食べてしのいでいた。普通の凶作であるならば他のところに移るのだが、地域一帯が全て飢饉なのでどうにもならないという状態であった。しかし官は、これらの窮民を救おうとせずに、その実情を上に報告することを怠った。自分の担当地域で、飢饉による人口減少が起きることが自分の査定に響くからである。

 

さらに乱勃発後の875年には、旱魃が起きた地域に蝗が来襲し、緑の物を食べ尽くした。その被害は首都長安付近まで及んだが、長安周辺を担当する京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「蝗は穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。

 

このような状態に対して、874年(あるいは875年)に濮州の元塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応した。

 

この地域は、先に挙げた天災の被害の酷かった地域であり、また龐勛の乱の残党たちが活動していた地域であった。王仙芝・黄巣ともに挙兵のときは数千の規模だったのだが、窮迫農民や群盗などを吸収して、瞬く間に反乱は大規模なものとなった。

 

乱前期

これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。途中で藩鎮軍などの攻撃を受けることもあったが、根拠地を持たないので手薄な場所へ逃げることで勢力を維持することができた。このように流れては略奪という行動を流寇といい、そのような集団を流賊と呼ぶ。

 

唐政府は、乱に対して王仙芝を禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため、黄巣は強く反対。これを機に、黄巣と王仙芝は別行動を取ることになる。その後の878年、王仙芝は唐軍の前に敗死。その残党を合わせた黄巣軍は江南へと向かうが、両浙・福建を経て879年に広州へと入った。

 

広州は当時の唐の海外交易の中心地であり、この地には大食(タージー)と呼ばれたアラビア商人が多数居留していた。広州入城直前に、黄巣は天平軍節度使の職を次いで嶺南節度使の職を唐政府に対して要求した。天平軍節度使は、黄巣たちの故郷である濮州・曹州・鄆州の三州を管し、嶺南節度使は広州を管する。唐政府はこの要求を拒否し、代わりに東宮(皇太子の宮殿)の警備師団長の役職を与えると言ってきた。

 

この返答に怒った黄巣は、広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。イスラム側の記録によれば、イスラム教徒・ユダヤ教徒・キリスト教徒(景教)など、合わせて12万人が殺されたという。この時の被害により広州は交易港としての機能を失い、回復するまでに数十年を要した。

 

乱後期

しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ帰ることにした。

 

広州から西江を遡上して桂州に至り、そこから北上して長江を渡るも現地の藩鎮軍に大敗して、再び長江を南に渡って東へと進路を変えた。東へ進む間にも、藩鎮軍の攻撃を受けて度々敗北し、軍内の病人も増えていた。この時期、黄巣は唐への降伏を考えるほどに至ったようである。

 

しかし、苦難の末に880年に官軍の虚を突いて、采石(現在の南京市の少し上流)で長江を渡り、そこから洛陽南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに西へ進軍し、長安の東の守りである潼関を突破し、その5日後には長安を占領した。唐皇帝・僖宗は成都へと避難した。

 

黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した。長安に入城した後の黄巣軍は貧民がいればこれに施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪を行い、黄巣も統御できないほどであった。一方で唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚はその職に残した。貧民や群盗出身の黄巣軍の兵士たちに、官僚としての仕事が出来るわけはないので、唐の官僚をそのまま採用せざるをえないのであった。

 

その後、黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々、長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。この状況で882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は、黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに、突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、黄巣は泰山の狼虎谷にておいに首を打たせて果てた。8846月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。

 

乱後

885年に僖宗は成都から長安へと戻るが、各地の藩鎮勢力は唐から自立化して独自の軍閥勢力となっており、唐は長安周辺を保持するだけの一地方政権へと堕落した。この後、朱全忠や李克用ら藩鎮勢力が相争う時代となり、乱終結からおおよそ20年後の907年に朱全忠によって唐は滅びた。

2025/11/03

親鸞(1)

親鸞(しんらん、承安341 - 弘長21128日)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。

 

法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年415日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

 

生涯

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『御伝鈔』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

 

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

 

時代背景

永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。

 

保元元年(1156年)79日、保元の乱起こる。

 

平治元年(1159年)129日、平治の乱起こる。

 

貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

 

誕生

承安3年(1173年)41日(グレゴリオ暦換算 1173521日)に現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿 (まつまろ)」。兄弟全員が出家しており、母は源義朝の娘で、親鸞は源頼朝の甥にあたるとの研究もある。

 

治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。

 

幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は源氏の各家の男子は、ことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが、元を正せば天皇家の血筋でもあった。

 

治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、42300人とされる。(『方丈記』)

 

戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。

 

出家

治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。

 

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

 

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

 

と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。

 

出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。

 

建久3年(1192年)712日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。

 

六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年45日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

 

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

 

意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」

 

という偈句(「女犯偈」)に続けて、

 

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

 

の告を得る。

 

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

 

入門

法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう)の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、次第に法然に高く評価されるようになる

 

『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。また、その年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。

 

『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[18]」と記されている。

 

『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。

 

元久元年(1204年)117日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年117日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[20]

 

元久2年(1205年)414日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2414日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。

 

元久2年(1205年)閏729日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。

2025/10/30

黄巣

黄巣(こうそう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。

 

この一連の大乱を黄巣の名をとって、黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で、長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。

 

生涯

黄巣は曹州冤句県(現在の山東省菏沢市牡丹区)の出身。若い頃は騎射を良くし、任侠を好んでいた。一方で学問に励み、何度か進士に挙げられたが科挙には落第して、塩賊(私塩の密売人)となった。

 

乾符元年(874年)、同じく塩賊だった王仙芝が数千の衆をもって挙兵すると、黄巣も数千の衆を率いてこれに参加し、やがて反乱軍の中心人物の一人になっていった。黄巣と王仙芝は特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。876年、唐から懐柔策として王仙芝だけに官僚のポストが示されたが、これに黄巣が反対したために二人は分裂し、乾符5年(878年)に王仙芝は官軍に敗れて戦死した。

 

その残党を合わせた黄巣軍は江南へと向かうが、両浙・福建を経て879年に広州へと入り、現地のアラビア商人などの外国人商人を多数殺害した。その後、黄巣軍は北へ帰ることを目指し、西の桂州から潭州を経由して長江を渡るも現地の藩鎮軍に大敗して、再び長江を南に渡って東へと進路を変えた。

 

官軍の虚を突いて采石で長江を渡り、そこから洛陽の南の汝州に入った。ここで自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに西へ進軍し、長安の東の守りである潼関を突破し、その5日後には長安を占領した。唐の皇帝僖宗は成都へと避難した。

 

黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した。長安に入城した後の黄巣軍は貧民がいればこれに施しをしたが、官吏や富豪を憎んで略奪を行い、黄巣も統御できないほどであった。一方で唐の三品以上の高官は追放したが、四品以下の官僚はその職に残した。貧民や群盗出身の黄巣軍の兵士たちに官僚としての仕事が出来るわけはないので、唐の官僚をそのまま採用せざるをえないのであった。

 

その後、黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。この状況で882年、黄巣軍の同州防禦使であった朱温(後の朱全忠)は、黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、泰山付近の狼虎谷で黄巣は外甥の林言の介錯のもと自害して果てた。8846月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。

 

黄巣はいくつか漢詩も残しており、『題菊花(菊花に題す)』・『詠菊(菊を詠ず)』などで反乱への意気込みを謡っている。

2025/10/29

道元(2)

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概要

生没:正治212日(1200119)- 建長5828(1253922)

 

鎌倉時代の禅僧。主著は『正法眼蔵』など。京都の名門貴族久我家の生まれ。幼少期に両親を失い、親戚から養子として引き取る話も出たが、彼は世を儚み仏門に入る事になる。

 

道元は3歳の時に父をなくし、8歳の時に母を失った。母の死は大きなショックを道元に与え、仏門を志すきっかけとなった。

 

13歳の時に比叡山にいる母方の叔父良顕法眼に会い、14歳で当時の天台座主公円立会いの元で出家した。

しかし天台宗の根本聖典『法華経』の注釈書「法華三大部」を学んでいる時に疑問に突き当たった。

 

彼が悩んだのは

「本来本法性、天然自性身」つまり「全てのものには仏性が備わっており、自然の万物は法(ダルマ)の現れである」

という教えである。

もしそうなら、どうして釈迦や各宗派の祖師たちは凄絶な修行をする必要があったのか?

と疑問に思い、公円を含む色んな師僧たちにぶつけるが満足のいく答えは得られなかった。

 

彼は山を下り、三井寺の公胤僧正を訪ね、彼の勧めで日本における臨済宗の開祖栄西のいる建仁寺の門を叩いた。

建仁時は禅だけでなく天台と真言の教えも併学する寺院であり、道元が抱く疑問を解いてくれるかもしれない、と公胤は考えたのだろう。

 

道元の問いに

「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白狐かえって有ることを知る」

と栄西は答えた。

仏陀は知らないが、畜生(動物)はそれを知る、という不可解な言である。

 

これについては

「悟りそのものである仏陀が、さらに悟る事はできない。狸奴白狐(獣として象徴される五感など全て)は、これから悟りを得ることができる」

といった解釈がある。

 

満足し切れなかった道元は、さらなる探求のため中国に渡り、現地の師僧たちに教えを請って回り、曹洞宗の天童如浄禅師と出会う。

 

如浄は妥協なき仏教者であり、名誉や栄華を離れ、座禅中に居眠りするような人間には

「参禅はすべからく身心脱落なり、みだりに打睡してなにをか為さん」

と自分の履いていた靴で打ち据えるという厳格な人物だった。

 

道元は彼に弟子入りし、印可(弟子の境地を保障する師匠による証明書)を頂く。彼のもとで二年間学んだ後、日本に帰国するが、その際に経典や仏像などは何も持ち帰る事がなかった。彼はその必要を感じていなかったのである。

 

帰国した彼は日本における曹洞宗の祖となり、京都を拠点にその教えを広めて回った。そして帰国から16年後、京都を離れ、北陸の山中に禅の道場「大仏寺」を建立した。これが後に永平寺と改名される事になる、日本曹洞宗の総本山である。

2025/10/27

サーマーン朝(3)

経済

9世紀末から、イスマーイール・サーマーニーが行った北方の草原地帯への遠征によって、交易路が確立される。また、西方においても、ブルガール、ハザールとの間で交易がおこなわれていた。王朝が鋳造した独自の貨幣は、交易路を介して南ロシア、バルト海沿岸部や北欧に広まり、それらの地では貨幣が出土している。さらに、交易に携わる商人を介して、交易路上のテュルク系遊牧民の間にイスラームが広まった。サーマーン朝は遊牧民から馬や肉、皮革を輸入し、綿織物、毛織物、絹織物を輸出していた。

 

また、国内の安定化は農業の発達に繋がったが、農村に利益は還元されなかった。農村部の利益は都市部の支配者層や商人の元に吸い上げられ、彼らの活動が都市の経済を活性化させた。

 

産業

前述のグラームの輸出が、サーマーン朝の主要産業となっていた。市場で購入された奴隷は5年の間訓練を受け、中でも優秀な人物は君主の側近として登用され、部下と官職を与えられた。彼らはブハラ、サマルカンドといったサーマーン朝の中心都市からアッバース朝中央に至るまで西アジア全域に供給され、イスラーム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくった。

 

西アジア世界では、グラームの購入によって多量のディルハム銀貨が東方イスラーム世界に流出したため、鋳造される銀貨の質が低下した。

 

サーマーン朝の元では、製陶をはじめとする手工業が発達を見せた。サーマーン朝を代表する工業製品として、ザンダニージュ織、サマルカンド紙が挙げられる。これらの製品は、西方のイスラーム文化と中央アジア文化の調和によって生まれたとも言える。

 

文化

サーマーン朝はイスラーム化前のイラン文化の復興を推進し、支配下のオアシス都市では伝統的なイラン文化と外来のイスラーム文化が結びついたイラン・イスラーム文化が発達した。サーマーン朝で、民族的な文化復興が進められた理由については諸説あり、サーマーン朝の支配領域が当時のアラビア語イスラーム文化の中心地であるバグダードから遠く離れていた地理的理由、イランの名門貴族の出身であるサーマーン家が創始した王朝の性格などが挙げられている。そして、アラブ文化の影響をあまり受けず、伝統的な民族文化の保持に努めてきたイラン土着のディフカーン層が、サーマーン家による文化復興において協力的な役割を果たした。

 

宰相のジャイハーニーとバルアミーに補佐された国王ナスル2世は、ペルシア文化の保護と奨励に意を注ぎ、王朝の文化的・政治的発展は最盛期を迎える。11世紀に活躍した学者のサアーリビーは、多くの大学者が集うサーマーン朝時代のブハラの様子を記し、サーマーン朝で活躍した知識人は行政に携わる書記、宗教学者、文学者、詩人の4つの階層で構成されていた。首都ブハラは学問の中心となり、ブハーリー、イブン・スィーナー(アウィケンナ、アヴィセンナ)などの当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた。サーマーン朝統治下の中央アジアでは、知識人を養成するための神学校(マドラサ)が設立され、国からの補助が与えられたマドラサと、異端に属する学派が運営する私立のマドラサが存在していた。

 

サーマーン朝の治下では、アラブ人の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラームと結びついて再興し、アラビア語の語彙が取り入れられたアラビア文字で表記する近世ペルシア語が発展した。サーマーン朝では、ホラーサーン様式(サブケ・ホラーサーニー)と呼ばれるペルシア語詩の文体が使用され、ルーダキー、ダキーキーらの詩人を輩出した。ダキーキーに触発された詩人フェルドウスィーは『シャー・ナーメ(王書)』の作詩に着手するが、完成の前にサーマーン朝は滅亡し、完成した『シャー・ナーメ』をガズナ朝の宮廷に献呈した。ほか、教訓詩の草分けであるアブー・シャクール、最初に十二イマームを称賛したメルヴのキサーイー、ペルシア文学最初の女性詩人ラービア・クズダーリーらが、サーマーン朝時代のイランで活躍した。

 

国王や貴族が熱心な詩人の保護者となったために詩人の数は非常に多く、サーマーン朝時代は名実ともにペルシア宮廷詩人が最も厚遇されていた時代といえる。ペルシア語詩人の活動地域は、マー・ワラー・アンナフルやホラーサーンといったペルシア東北部に限定され、ペルシア語での詩作と共に中央アジア各地の方言を用いた詩作を試みる動きも見られた。詩作以外の活動の1つとしては、バルアミーによる歴史家タバリーの著書のペルシア語訳が挙げられる。このペルシア語の復権には、土着の言語に対する愛国的尊厳と政治的意図が複雑に絡み合っていた。

 

一方ではアラビア語による作詩や著述活動も続けられており、サーマーン朝は2つの言語が併用された状態にあった。文章語としては依然としてアラビア語が多く使われており、後世のイラン、トルキスタンでは、アラビア語は神学の分野でなおも存続した。

 

また、サーマーン朝では数学、天文学などの自然科学も発達した。サーマーン朝末期には、イブン・スィーナー、ビールーニーというイスラム科学を代表する2人の学者が誕生した。

 

サーマーン朝期のブハラの建造物の多くは、イスマーイール・サーマーニーの治世に建てられた。ブハラにある、イスマーイール・サーマーニー廟の通称で知られるサーマーン家の廟は、中央アジア最古のイスラーム建築物と考えられている。また、イスマーイールの治世には、遊牧民の襲来に備えて中央アジアのオアシス都市を囲んでいた土塁の建設と保持が中止された。

2025/10/26

道元(1)

道元(正治212日(1200126日)- 建長5828日(1253929日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の宗祖。晩年には、希玄(きげん)という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。道元禅師(どうげんぜんじ)とも呼ばれる。主著『正法眼蔵』は後世に、古くは和辻哲郎など、近年はスティーブ・ジョブズら多大な影響を与えている。

 

生い立ち

道元は、正治2年(1200年)、京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」[要出典]、「文殊丸」とされるが、定かでは無い。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣の源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣の松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘にて生まれたとされているが、根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義も持たれており、上記説では養父とされていた源通親の子である大納言の堀川通具を実父とする説もある。

 

四国地方には道元の出生に関して「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承もあるが、キリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子となった。

 

4歳にして漢詩『百詠』、7歳で『春秋左氏伝』、9歳にて『阿毘達磨倶舎論』を読んだ神童であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として

「誘いを受けた道元が、近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」

とある。

 

14歳で天台の僧となるが、その教義に満足せず、栄西を尋ね禅宗に入った。貞応二年、宋に渡り天童山に参禅して安貞元年帰国。京都深草に興聖寺を建てるが延暦寺宗徒らの焼打ちにあったとも伝えられ、武将波多野義重から越前の領地の寄進を受け、1244年永平寺のもとを開いたといわれる。権勢を避け名利を求めず、専ら体験を尊び、座禅本位の仏教を正伝として釈尊の昔に帰れと説いた。西洞院高辻に没。

 

主な活動

    建暦2年(1212年)、比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ねる。

    建暦3年(1213年)、天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。

    建保3年(1215年)、園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。

    建保5年(1217年)、建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事。

    貞応2年(1223年)、明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る。

南宋の宝慶元年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の南宋の年号に由来)である。

    安貞元年(1227年)、帰国。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また、同年『普勧坐禅儀』を著す。

    天福元年(1233年)、京都深草に興聖寺を開く。「正法眼蔵」の最初の巻である「現成公案」を、鎮西太宰府の俗弟子、楊光秀のために執筆する。

    天福2年(1234年)、孤雲懐奘が入門。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。

    寛元元年(1243年)、越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)。

    寛元2年(1244年)、傘松に大佛寺を開く。

    寛元4年(1246年)、大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。

    宝治元年-3年(1247-1249年)頃、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。

    建長5年(1253年)、病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、没す。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされている。

    嘉永7年(1854年)、孝明天皇より「仏性伝東国師」の国師号を宣下される。

    明治12年(1879年)、明治天皇より「承陽大師」の大師号を宣下される。

 

教義・思想

ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった。

 

成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一等)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。

 

鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には

「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」

と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。

 

南宋で師事していた天童如浄が、ある日、坐禅中に居眠りしている僧に向かって

「参禅はすべからく身心脱落(しんじんだつらく)なるべし』

と一喝するのを聞いて大悟した。身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることである。道元の得法の機縁となった「身心脱落」の語は、曹洞禅の極意をあらわしている。

 

道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている。

道元は『法華経』を特に重視した。『正法眼蔵随聞記』で最も多く引用されている経典は『法華経』である。

 

道元は晩年、不治の病となり、永平寺を出て在家の弟子の住宅に移り、自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けた。死期をさとった道元は、亡くなる直前、『法華経』のいわゆる「道場観」の経文(『法華経』如来神力品第二十一の中の「若於園中」から「諸仏於此而般涅槃」まで)を低い声で口ずさみながら室内を歩きまわり、柱にその経文を書き付けたあと、「妙法蓮華経庵」と書き添えた。

 

徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるという禅を伝えた。

2025/10/23

サーマーン朝(2)

滅亡

ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。

 

アブド・アル=マリク1世の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。

 

マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。

 

一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。

 

ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。

 

997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。

 

滅亡後

サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。

 

1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。

 

社会

行政機構

サーマーン朝はサーサーン朝やアッバース朝の司法・行政を見本とし、よく整備された官僚制度と徴税システムを備えていた。また、サーマーン朝の君主はサーサーン朝の貴族の家系に連なることを強調した。

 

王朝の経済力を支えたのは在地のイラン系領主(ディフカーン)であり、トルコ系遊牧民の軍人奴隷(グラーム、マムルーク)が軍事力の基盤となっていた。政府には10の行政部局(ディーワーン)が存在し、ジャイハーニーやバルアミーらの宰相によって行政機構は機能していた。ソグディアナ、フェルガナ、ホラーサーンからの税収が国の収入源となり、税収の約半分は軍隊と官僚機構の維持費に充てられていた。サーマーン朝の時代にディフカーンの衰退が進み、王朝を打倒したカラハン朝の時代にディフカーンの没落は決定的になる。

 

軍人奴隷

戦争捕虜などの形で北方の草原地帯から連行された遊牧民は、タシュケントなどの草原地帯とオアシス地帯の境界に位置する都市の奴隷市場で売買されていた。また、奴隷市場で売買されていたグラームの中には、王朝末期の有力者ファーイクのようなイベリア半島出身者もいた。中央アジアと西アジアの境界であるアムダリヤには関所が設置され、中央アジアから西アジアへのグラームの移動には通行許可証と通行料が要求されていた。

 

系統立てられた教育を受け、さらに君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたグラームは、サーマーン朝の隆盛に大いに貢献した。オアシス都市群の文化・経済力とグラームによる国家の発展は、定住民と遊牧民の協調によって生み出された成果とも言える。独立を企てる地方領主はグラームによって制御されており、グラームの重要性はサーマーン朝の命運を左右するほど大きなものとなった。グラームの導入によって支配者層と被支配者層の乖離が進み、支配者層・グラームと国家の人口の大部分を占める都市・周辺地域の住民との関係は断絶する。

 

サーマーン朝で行われていた軍人奴隷の養成システムは、13世紀にエジプトで成立したマムルーク朝の諸制度、オスマン帝国のカプクル(宮廷奴隷)制度の起源になったと考えられている。

 

宗教

サーマーン朝は、ハナフィー学派の信条を公的な教義としていた。ハナフィー派の神学者ハーキム・サマルカンディーの著書『大衆の書』は、イスマーイール・サーマーニーの公認を受けていた。

 

サマルカンドではハーキム・サマルカンディーのほか、ハナフィー学派から分かれたマートゥリーディー学派の祖アブー・マンスール・マートゥリーディー(873年以前 - 944?)が生まれている。マートゥリーディー学派はアシュアリー学派とともに、スンナ派の正統神学とみなされるようになる。また、ザーヒル・イブン・アフマド、アル=カッファールら法学者たちの活動によって、サーマーン朝統治下のホラーサーン北部とトルキスタンにシャーフィイー学派が広まった。

 

サーマーン朝支配下のトルキスタンの都市には、ゾロアスター教徒の共同体が存在していた。また、マニ教を信仰する人々も生活していた。サーマーン朝では、サマルカンドに住むマニ教徒に対する弾圧が計画されたが、マニ教を信仰するトグズ・オグズの指導者が自分たちの領地内のムスリムに報復を行うと脅迫したため、弾圧は中止された。

2025/10/22

栄西(2)

http://www.ochakaido.com/index.htm

栄西禅師 

 「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は、栄西の伝法とともに始まりました。

 

栄西 宗の国へ行く

 鎌倉時代の禅僧栄西禅師は、日本臨済宗の開祖で千光国師ともいわれます。備中(岡山県)吉備津宮神主賀陽(かや)氏の出身で、誕生は保延7年4月。幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、11歳で安養寺の静心に倶舎婆沙二論を学び、13歳で叡山に登り、14歳で落髪。その後ももとの安養寺で修行し、19歳で再び叡山に登り台密の教えを学びました。

 

 若き栄西は、仏教の源である宗の国へ渡り、大陸の正法を学んでわが国仏教の誤りを正したいという強い願いをもっていたようです。時代は保元の乱が勃発し、源平めまぐるしく変わる混乱の世。栄西が入宗を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、渡海は決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし困難にもかかわらず、栄西27歳の仁安3年(1168)4月、播磨の唯雅を伴って博多を出帆、入宗に成功します。あこがれの地で天台山万年寺、阿育王山に詣で禅宗への理解を深め、同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝しました。帰国後は、その経巻を天台座主明雲に呈し、故郷備中、備前を中心に伝法につとめたといいます。

 

帰国後、栄西は、インドへ渡り釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱くようになり、再び渡海を試みます。文治3年(1187)に宗国の首都臨安に到着し、インド行きは治安が悪いため、やむなくあきらめました。しかし帰国のために乗船したところ、逆風で浙江省瑞安に上陸。それを機会に天台山万年寺で虚庵懐敞(きあんえしょう)に出会い、師として学びました。さらに天童山景徳禅寺で臨済禅を学び、4年後の建久2年(1191)宗人の船に便乗して帰国しています。

 

この2回の入宗のうち、いずれの折に茶種を持ち帰ったのかは定かではありません。ただ、はじめて栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。

 

茶の栽培

栄西は茶の実を持ち帰ると、すぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70~80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて、栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに、茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。

 

栄西と明恵上人の出会い

政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし、栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする『興禅護国論』などの書物を著し、鎌倉に下り二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり、禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。栄西は明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。

 

さらに注目すべきことは、京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。狂言「茶壷」にも、この坊の銘茶穂風のことが演じられるほどで、宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。

 

喫茶養生記

栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。

 

お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。

 

栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。

2025/10/18

サーマーン朝(1)

サーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配した、イラン系のイスラーム王朝。

 

首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。

 

サーマーン家の君主は、アッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。

 

サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。

 

英主イスマーイール・サーマーニーは、ウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。このイスマーイールが、事実上の王朝の創始者と見なされている。

 

歴史

成立の背景

サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。サーマーン・フダーは、サーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。

 

サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖で、ホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによって、マー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。

 

819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督に、サーマーン家の人間が選ばれた。

 

ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。

 

サーマーン家の独立

こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドから、マー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。

 

ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。ナスルは、ブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。

 

886年、イスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。ナスルは、ヒジュラ暦279年(892 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。

 

ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。

 

最盛期

893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。

 

他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。900年にイスマーイールは、バルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。イスマーイールは、捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。

 

サーマーン朝は、表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。

 

王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。北東部では、マー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。

 

王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。910年ごろに、エジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイー(宣教員)を派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んで、ウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。

2025/10/17

栄西(1)

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年420日(1141527日) - 建保375日(121581日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の宗祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

 

経歴

『元亨釈書』によれば、永治元年(1141年)420日、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞政の曾孫として生まれたと伝わる(実父は諸説あり不明)。生地は備中国賀陽郡宮内村とされるが、他説として同郡上竹村もある。

 

『紀氏系図』(『続群書類従』本)には、異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。

 

久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。

 

久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。

 

保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。

 

平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学ぶ。

 

仁安2年(1167年)、伯耆(鳥取県)大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。

 

仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。

 

これは、後に著された栄西の主著である『興禅護国論』に禅のことが書かれていることより推察されることである。しかし実際には、第一回の入宋時は栄西が最も熱心に天台密教の著作に没頭した時期であり、禅に対してどの程度関心を持っていたかは明らかでないという推察もある。

 

嘉応1年(1169年)ごろ、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。

 

建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。

 

建久5年(1194年)、禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年)、博多に聖福寺を建立し日本最初の禅道場とする。同寺は、後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。

 

建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。

 

正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。

 

建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。

 

元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。

 

建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。

 

承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。

 

建暦2年(1212年)、法印に叙任。

 

建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。

 

建保3年(1215年)、享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(65日・75日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、75日京都建仁寺で入滅したことが確定している。

 

他者からの栄西観

日本曹洞宗の宗祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回だが紹介している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題について、最新の研究では会っていたとする説が有力である。

 

顕彰

1915年(大正4年)には、茶業組合中央会議所の模範試験園に『栄西禅師肖像建設之碑』が建立されている。茶業組合中央会議所会頭の大谷嘉兵衛らにより建てられたものであり、横溝豊によって刻されている。寿福寺の所蔵する栄西の絵を拡大して彫ったとされている。

 

主な著作

    『誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。

 

    『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。

 

    『無名集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で、安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。大須観音は『無名集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。

 

栄西の主な弟子

    退耕行勇 - 高野山金剛三昧院を開山。弟子に大歇了心。他に円爾、心地覚心も弟子。

    釈円栄朝 - 弟子に蔵叟朗誉がいる。他に円爾、心地覚心も弟子。

    天庵源祐 - 弟子に済翁証救がいる。

    明全 - 弟子に共に渡宋した道元がいる。