2025/05/12

カンタベリーのアンセルムス(2)

イングランド教会の首都大司教の叙任問題は、その後2年にわたって続いた。

1095年、国王はひそかにローマへ使いを出し、教皇ウルバヌス2世を認める旨を伝え、パリウムを持った教皇特使を送ってくれるよう教皇に頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウムを授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄に俗界の王権が入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ることはなかった。

 

109710月、アンセルムスは国王の許可を得ずにローマへ赴いた。怒ったウィリアム2世はアンセルムスの帰還を許さず、直ちに大司教管区の財産を押さえ、以降彼の死まで保ち続けた。ローマでのアンセルムスはウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ、翌年のバーリにおける大会議にて、正教会の代表者らの主張に対抗して、カトリック教会のニカイア・コンスタンティノポリス信条で確認された聖霊発出の教義を守る役に指名された(大シスマは1054年の出来事である)。

 

また、同会議は教会の聖職者叙任権を再確認したが、ウルバヌス2世はイングランド王室と真っ向から対決することを好まず、イングランドの叙任権闘争は決着を見ずに終わった。ローマを発ち、カプア近郊の小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで受肉に関する論文『神はなぜ人間になられたか』を書き上げ、また、翌1099年のラテラノ宮殿での会議に出席した。

 

1100年、ウィリアム2世は狩猟中に不明の死を遂げた。王位を兄のロバートが不在の間に継承したヘンリー1世は、教会の承認を得たいがために、ただちにアンセルムスを呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権を要求したヘンリー1世とアンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王は教皇に何度かこれを認めようと仕向けたものの、当時の教皇パスカリス2世が認めることはなかった。

 

この間、11034月から11068月まで、アンセルムスは追放の身にあった。そしてついに1107年、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し和解がもたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争に幕を下ろす1122年のヴォルムス協約のモデルとなる。こうしてアンセルムスは、長きにわたった叙任権闘争から解放されたのである。

 

彼の最後の2年間は、大司教の職務に費やされた。カンタベリー大司教アンセルムスは、1109421日に死亡した。彼は1494年に教皇アレクサンデル6世によって列聖され、また1720年には学識に優れた聖人に贈られる教会博士の称号を得た。

 

思想

アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『モノロギオン』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでの迷信にも似たキリスト教の威光をもって神を論ずるものとは一線を画した。

 

もうひとつの主要論文『プロスロギオン』は、構想当初「理解を求める信仰」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとして、しばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。

 

神の存在証明

アンセルムスは、神の本体論的証明(神の存在証明)でも著名である。後にイマヌエル・カントによって存在論的な神の存在証明と呼ばれた。神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。

 

神は、それ以上大きなものがないような存在である。

一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。

もしも、そのような存在が人間の理解の内にあるだけで実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。

そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく実際に存在する。

 

バートランド・ラッセル『西洋哲学史(1946年)』では、次のように紹介されている。

まず、神を可能な限り最も偉大な思惟の対象と定義する。

さて思惟のある対象が存在しないとすれば、それとまったく類似してかつ存在するいま一つの対象は、より偉大である。

したがって、あらゆる思惟の対象のうち、最も偉大なものは存在しなければならない。なぜなら、それがもし存在しないとすれば、それ以外になお偉大なる対象が可能となるからである。

したがって神は存在する。

 

この証明は、トマス・アクィナスによって排斥され、デカルトによって容認され、カントはそれを反駁し、ヘーゲルはそれを復位させ、20世紀の現代論理学における「存在」概念の分析によって、本体論的証明が妥当でないことが証明された。しかし、しかし、本体論的証明が論駁されたからといって、神の存在が真ではないと想定する根拠にはならない、とラッセルは述べている。

2025/05/08

カンタベリーのアンセルムス(1)

カンタベリーのアンセルムス(羅: Anselmus Cantuariensis, 1033 - 1109421日)は、中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。

 

生涯

神聖ローマ帝国治下のブルグント王国(アルル王国)の都市アオスタで誕生した。アオスタは今日のフランスとスイス両国の国境と接する、イタリアのヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグントの貴族の出自であり、大地主であった。

 

父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。

 

1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスは、ブルグントとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグントにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのは、この時からである。

 

3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるヘルルイヌスの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのも、この時期である。

 

その後、アンセルムスは師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時はオットー1世の「オットーの特権」(963年)、ハインリヒ3世の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱(1077年)で最盛期を迎える聖職者叙任権闘争の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスは、イングランド国王たちと長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。

 

ノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年にイングランド国王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと当然のように思われていた。

 

しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王ウィリアム2世は、司教座の土地と財産を押さえ新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で、大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほどチェスターにおける修道院設立などの任務により同地に拘束された後、アンセルムスがノルマンディーへ帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。

 

翌年、ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教を任命しなかった罪の許しを欲したウィリアム2世は、アンセルムスをしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名した。いざこざがあったものの、アンセルムスは司教座を引き受けることを納得した。

 

ノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムスは1093124日に司教叙階を受けた。彼は大司教座を引き受ける代わりに、イングランド王に次の事項を要求した。すなわち、

 

    没収した大司教管区の財産を返すこと

    大司教の(宗教的な)勧告を受け入れること

    対立教皇クレメンス3世を否認し、ウルバヌス2世を教皇として認めること

 

である。

 

自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初の事項が部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項はアンセルムスとイングランド王を険悪な関係に追い込むことになる。

 

幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復して、アンセルムスの大司教座の見返りに多大な財産の贈呈を要求した。これを聖職売買と見たアンセルムスはきっぱりと断り、これに怒った国王は復讐に出る。教会の決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、パリウムを直接、教皇の手から授与されなくてはならない。したがって、アンセルムスはパリウムを受け取りにローマへ行くことを主張したが、これは実質的に王室が教皇ウルバヌス2世の権威を認めることとなるため、ウィリアム2世はローマ行きを許さなかった。

2025/05/04

ガザーリー(3)

スーフィズム

ガザーリーが1106年から1109年の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分は、ガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている。多くの研究者は、1095年から始まる遍歴の旅の動機を『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている。

 

『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺したニザール派の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる。ダンカン・ブラック・マクドナルドは、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している。

 

回心した後のガザーリーは、イスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた。

 

ガザーリーは神を人間の愛の対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した。

 

ガザーリーの唱える愛は、自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した。12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは、神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた。

 

ガザーリー以前のスーフィーの中には、イスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識を、コーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった。ガザーリーは、信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した。

 

ガザーリー、クシャイリーらが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によって、スーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された。

 

哲学者アルガゼル

ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』は、イブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたものであり、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパのスコラ派哲学者たちの間で広く読まれた。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた。

 

19世紀に入ると、アラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する。1859年に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表したザロモン・ミュンクによって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった。

 

ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」において、ガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した。

 

    スコラ学的神学研究から、コーラン(神の啓示)・ハディース(預言者の伝承)への回帰の促進

    説教、道徳的訓戒への畏怖、恐怖の再導入

    イスラーム社会内でのスーフィズムの地位の確立

    哲学、哲学的神学の内容を一般の人間が理解できる程度に構築した

 

マクドナルドの研究は、後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出して、そこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた。

2025/04/27

ガザーリー(2)

思想

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ガザーリーの著作はイスラーム法学、神学、哲学、護教論、神秘主義の5つの分野に大別できる。

 

法学

ガザーリーは、イマームル・ハラマイン・ジュワイニーからシャーフィイー学派の法学を学び、それを発展させた。ガザーリーが著した法学書には、最晩年に執筆した『法源学の精髄』などがあるが、散逸したものも多い。

 

ガザーリーが世に出たとき、既にイスラーム法学の権威は社会の隅々にまで行き渡っていたが、ガザーリーは権威主義に陥った信仰の有り方を疑問視し、仰を個人の内面に戻そうと試みた。ガザーリーは権力と癒着したウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践の両立を説いた。批判の対象とされた人物の一人に、ハールーン・ラシードの時代の宰相アブー・ユースフがおり、来世のために奉仕することを忘れて現世の利益のみを追求する、ウラマー本来の理念から逸脱した人間たちを批判している。

 

懐疑論

スーフィズムに回心する前のガザーリーは、自分がイスラム教徒であるのはたまたまイスラム教徒の子として生まれたためであり、信仰によるものではないと考えていた。ガザーリーは、自分の思想を揺るぎないものとする「確実な知識」に行き着くため、様々な学問を追究していく。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起する余地すらない知の対象を明らかにする知」である確実な知識を獲得する手段を検討するため、全てを疑うことから始めた。

 

エスファハーンの宮廷に出仕していた時代、ガザーリーは理性の優位性を疑う「第一の危機」に陥った。ガザーリーは知識を感覚による知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が、天文学的証明によれば地球よりも大きい例を述べ、理性が感覚の誤謬を指摘する点を明らかにした。そして、高次の世界に理性の確実性を否定する判断者が存在する可能性に思い至り、懐疑に陥った。理性によって認知できる世界を夢と同様のものと捉え、理性の上にある世界は忘我の境地に達したスーフィーが見る世界、あるいは死と考えた。

 

やがて理性の権威が及ぶ範囲には限界があると結論付け、理性が及ぶ領域を「知('ilm)」と命名する。疑いようのない自明な領域である「知」に対して、神に最も接近できる人間の精神に存在する領域を「信(qalb)」と定義した。ガザーリーは理性・知と感覚・信の間に優劣をつけず、コーランの章句を理性によって解釈しようと試みる哲学者、思惟と信仰の矛盾を解消しようと試みる神学者といった、二つの領域を混同する人間を批判した。

 

理性への疑いを抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリーは、スーフィズムへの回心と世俗への執着に葛藤する第二の危機を乗り越え、スーフィーとして放浪の旅に発つ。

 

イスラーム哲学

11世紀初頭にイブン・スィーナーらによって完成されたイスラーム哲学は、イスラームの教義から外れる主張のために保守的なウラマーから攻撃を受けたが、彼らの批判の論拠は感情的で論理性を欠くものであり、哲学者たちの理論を崩すことはできなかった。ガザーリーは哲学を研究した上で反論を書き上げ、ニザーミーヤ学院の講義の合間に書物から哲学者の理論を取り入れ、哲学が含む矛盾を導き出した。

 

1094年、哲学の概説書である『哲学者の意図』を著し、翌1095年に哲学の批判書『哲学者の自己矛盾』を著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学は、イスラームの思想家の批判の対象となっていたが、先達の神学者たちが出した反論はコーランやハディースの章句を引用する不完全なものだった。ガザーリーは哲学を神の啓示に代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明を試みた。

 

ガザーリーは哲学を数学、論理学、自然学、形而上学、政治学、倫理学の6つに分類した。算術、幾何学、天文学を含む数学、論理学、自然学を宗教と共存しうるものと考え、それらの学問に求められる「理性」と宗教が抱える「真理」の混同を戒めた。政治学はコーランやハディースを基礎とするもので、倫理学については哲学者の誤った主張が混ざり合うこともあるが、魂の本質と性格、改善を追及する学問であるため、基本的に否定されるものではないと述べている。

 

哲学者の犯す誤りの大部分は形而上学にあると主張し、『哲学者の自己矛盾』の中で20の項目を列挙して彼らの思想を批判した。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学のすべてを否定しておらず、イスラームの教義と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判に際して論理学的手法を利用している。12世紀のアシュアリー学派の思想家ファフルッディーン・ラーズィーは、ガザーリーの思想の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していった。

 

ガザーリーは、哲学の論理学をアシュアリー学派の神学に取り入れ、その結晶である『中庸の神学』を著した。『中庸の神学』では、世界は原子で構成されるアシュアリー学派の原子論、神を非物質的なものとする哲学の論理により、神と世界の隔絶性が強調されている。ガザーリーは、ジュワイニーら先人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させ、アシュアリー学派は哲学の論理学・形而上学を批判的に受容して、より哲学に近づいていく。しかし、ガザーリーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論を展開する神学の限界を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムへのアプローチが必要であると述べている。

 

ガザーリーの哲学の批判は、一般のイスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激し、哲学者の著書が焼き捨てられた。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でも、ガザーリーの批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家イブン・ルシュドは「不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともに、ガザーリーの哲学批判をも再批判し、アリストテレスの思想を擁護した。

 

神学

護教論を記したガザーリーの作品は、彼の存命中に勢力を拡大していたイスマーイール派に対抗するため書かれたものが多い。イスマーイール派の教義を批判するために書かれた書のひとつに、アッバース朝のカリフ・ムスタズヒルの依頼を受けて書いた『ムスタズヒルの書』がある。

 

ガザーリーは、イスマーイール派の特徴であるイマームへの個人崇拝と服従を批判し、未知の問題が発生した際にウラマーが下す自主的な判断と、それに対して共同体が合意を形成するスンナ派の姿勢を主張した。無謬のイマームに対する盲目的な服従を説くイスマーイール派に対して、ガザーリーは時に間違いを犯すことを承知した上で、信仰のために自主的な判断を下すよう主張した。真理を伝授する無謬の人物をイスマーイール派の主張するイマームではなく預言者ムハンマドに定め、ムハンマドの死後に無謬の伝授者は不在でも問題は無く、イスマーイール派は誰をイマームに特定するかという証明すら完成させていないと批判した。そして、スンナ派世界の指導者であるカリフに対しては政治的・宗教的指導者としての素質を要求せず、社会の平和と安定のため、カリフから権力を委ねられた実力者がカリフの選出と統治を行う当時の世相を追認していた。

 

ガザーリーのイスマーイール派批判は、指導者であるイマームの無謬性、絶対性が中心で哲学論にはほとんど触れられておらず、スィジスターニー、キルマーニーといった思想家による哲学書ではなく、宣教のために使われていたパンフレットを通して、イスマーイール派の思想に触れていたと考えられている。

2025/04/24

ガザーリー(1)

ガザーリーことアブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アッ=トゥースィー・アッ=シャーフィイー・アル=ガザーリー(アラビア語: أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي, Abū āmid Muammad ibn Muammad al-ūsī al-Shāfiʿī al-Ghazālī1058 - 11111218日)は、ペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي, al-Ghazzālī, アル=ガッザーリー)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。

 

「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で、最も功績のあった人物の一人に数えられる。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。

 

生涯

1058年にガザーリーは、イランのホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。

 

ガザーリーには、弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。

しかし、盗賊の頭領の

「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」

という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った。

 

1077年、ガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーは、ジュワイニーの代講を務め学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーは、スーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる。1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した。

 

やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年にバグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学、シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った。アブー・ターリブ・マッキー、ムハースィビー、ジュナイド、シブリー、バスターミーら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する。

 

1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーは、ニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、109511月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った。

 

ガザーリーはおよそ2年の間シリア、パレスチナ各地を巡り歩き、109611月から12月にかけてメッカ巡礼を行った。ダマスカスを訪れたガザーリーは、ウマイヤド・モスクのミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した。放浪中のガザーリーは、俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている。メッカ巡礼を終えたガザーリーは、子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。

 

ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに、共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している。

 

復職した後のガザーリーは、講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている。1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌11111218日にこの地で没した。

 

トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている。イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている。

2025/04/20

イブン・スィーナー(4)

自然科学

イブン・スィーナーは、自然科学の研究にあたって先人の研究を利用するとともに、独自の手法で理論を発展させた。観察と実験によって探究を試みる手法はヨーロッパ世界に大きな影響を与え、ロバート・グロステストやロジャー・ベーコンらが行った実験科学の発展に大きな役割を果たした。

 

ユークリッドの『原論』の最初の2つの公準について定式化を行い、アラビア世界におけるユークリッド解釈の道を開いた。また、ギリシャ世界では自然数のみにとどまっていた数の概念を、正の実数に相当するものにまで広げた。ユークリッド解釈はナスィールッディーン・トゥースィー、数の概念はウマル・ハイヤームに、後世のアラビア世界の科学者に継承される。

 

占星術に対しては批判的な見解をとっていたが、天体が全ての自然物に影響を与えている観念は認め、天体の影響は人知を超えていると考えていた。アストロラーベに代わる観測器具を考案したが、彼が考案した器具には16世紀に考案されたノニウスの原理が初めて用いられていると言われている。イスファハーン時代には天文台の設計に携わり、その時にプトレマイオスが発明した観測装置の問題点を多く指摘した。

 

『治癒の書』に収録されている「天体地体論」においては、大地が球体であることを様々な方法で論証し、中世キリスト教世界の地球観に影響を与えた。同書に収録されている「気象学」は地理、気象、地質学について述べた章であり、造山運動の説明など一部には近代の地質学との類似性が見られる。ホラズムでは隕石を溶かして成分を分析しようと試みたが、灰と緑色の煙が生じただけで、金属質が溶けたと思われる物体は残らなかったと記録を残している。

 

イブン・スィーナーは、錬金術についても否定的な立場をとっていた。全ての金属は起源を一にする錬金術者たちの考えは誤りであり、金属はそれぞれ独立した種であるため、その種類を変える方法は存在しないと主張した。この主張はロジャーベーコン、アルベルトゥス・マグヌスらヨーロッパの学者にも影響を及ぼし、彼らは錬金術における金属転換の考えに批判を行った。

 

一方でイブン・スィーナーは神秘主義的な思考も持ち合わせ、夢判断を肯定して本を著し、奇蹟や超自然現象にも関心を示していた。

 

著作

イブン・スィーナーの著作の数は100を超え、数学、物理学、化学、音楽、博物学、クルアーンの注釈、スーフィズム(神秘主義)など分野は多岐にわたり、その著作は包括的な性質を持っていた。医学における著作『医学典範』(al-Qānūn fī al-ibb)、哲学における著作『治癒の書』(Kitab Al-Shifa’)が有名。

 

自らの思想を簡潔にまとめた晩年の著作『指示と警告』や、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。イブン・スィーナーの著作は時には嘲笑を受け、時には廃棄された。彼の死後、アッバース朝のカリフの命令によって著作の多くが焼却された。だが、12世紀半ばからヨーロッパでイブン・スィーナーの著作の翻訳が進められ、13世紀にクレモナのジェラルドによって訳された本はヨーロッパ世界に広まった。

 

学術書だけではなく、アラビア語とペルシア語を用いて文学作品と詩文、詩論を書き、後世の詩人に影響を与えた。代表的な詩として、『鳥の章』『ハイー・イブン・ヤクザーンの章』『サラーマンとアブサールの章』が挙げられる。

 

初期の著作に使われていたアラビア語の文体は難解なものであったが、イスファハーン時代に文学者たちから批判を受け、研究の末に洗練された文体を作り上げた。ある時、宮廷で「あなたの哲学には見るべきものがあるが、話し方や言葉遣いには感心しない」と言われたことは衝撃であったようで、3年がかりの研究の末に言語に関する論文を完成させた。

 

多くの作品を著したイブン・スィーナー自身も熱心な読書家であり、一度読み始めた文献は全てを理解するまで離さなかったと、弟子のアル・ジュジャニーは書き残している。だが、彼は自分が書いた原稿の複写を取らず、整理もせずに放置しておいたため、ジュジャニーがいなければより多くの著作が散逸していたと言われている。また、ジュジャニーはイブン・スィーナーの未完の作品のいくつかを完成させている。

 

『医学典範』

医学者として、イブン・スィーナーはヒポクラテスやガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した。『医学典範』の執筆においては、10世紀末のジュルジャーンのキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーの『医事百科の書』を見本にしたと言われている。『医学典範』は、以下のように構成される。

 

1巻『概論』

1 - 医学の概念

2 - 病気の原因と兆候

3 - 健康の保持法

4 - 病気の治療法

2巻『単純薬物』 - 植物・鉱物・動物から成る、811の「単純な」薬物の性質

3巻『頭より足に至る肢体に生じる病気』 - 個々の病と、その治療法。身体の器官と部位によって分類されている。

4巻『肢体の一部に限定されない病気』 - 外科と熱病、整形

5巻『合成薬物』 - 様々な薬剤の調合法と用途

2巻、5巻の記述の大半はディオスコリデスの著作を典拠とし、残りの巻の理論はヒポクラテス、ガレノス、アリストテレスの著作に基づいている。また、イブン・スィーナーは『医学典範』の内容を1,326行の詩の形にしてまとめた『医学詩集』を著した。『医学詩集』もラテン語に訳され、中世ヨーロッパの医学生に愛読された。

 

『医学典範』は、当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳され、ラテン世界では『カノン』(canōn(英語版))の名前で知られている。ヨーロッパにおいて、最初に『医学典範』に興味を持ったのはロジャー・ベーコンら13世紀の哲学者であり、やがてフランスやイタリアの医学校で教科書として使用されるようになった。ヨーロッパの聖堂の多くにはイブン・スィーナーの肖像が飾られ、ダンテの『神曲』においてはイブン・スィーナーはヒポクラテスとガレノスの間に置かれた。

 

ルネサンス期に入って、ヨーロッパにおける『医学典範』の権威に陰りが現れ、16世紀の医師パラケルススは、彼をヒポクラテス、ガレノスと共に旧弊医学の代表に挙げて批判した。1527年の聖ヨハネの日の夕方、パラケルススは「古い医学の弊害を浄化する」ために、バーゼルで『医学典範』をはじめとする古典医書を焼却した。また、近代解剖学の草分けであるアンドレアス・ヴェサリウスもイブン・スィーナーの研究を批判した。

 

しかしヨーロッパのいくつかの医学校では、17世紀半ばまで『医学典範』が教科書として参照され続けた。インドでは、20世紀初頭まで『医学典範』が医学教育の入門書として使用され、中東諸国の中には、20世紀以降も参照している地域が存在する。

 

『治癒の書』

哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた百科事典的なものである。『医学典範』の対になる書籍として紹介され、以下の4つの主要な部分に分けられる。

 

論理学

自然学(自然科学) - 自然学の基礎理論、地学、気象論、生物学、魂論(心理学)

数学 (数学的な諸学)- 幾何、天文学(アルマゲストの要約)、算術、音楽

形而上学

イブン・スィーナーは『治癒の書』の中で、人間の知識を理論的知識と実践的知識に二分した。前者には自然学、数学、形而上学、後者には倫理学、経済学、政治学を分類した。

 

この書は、ヨーロッパ世界にアリストテレスの思想を紹介したことにも大きな意義がある。だが、難解な内容と粗悪な翻訳のため、『治癒の書』がヨーロッパに与えた影響は少なかった。12世紀に出版された初訳本は、物理学と論理学の一部しか訳されておらず、他人が書いたと思われる天文学についての記述が追記されていた。後の訳本にも、原本に書かれていない記述が追加されており、ヨーロッパで『治癒の書』の全体像が知られるには多大な時間を要した。

 

晩年に著した『救いの書』は『治癒の書』を簡潔に再編したものであり、その内容はアリストテレスの思想により忠実なものになっている。

 

紙幣

タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣には、イブン・スィーナーの肖像が使用されている。

2025/04/16

イブン・スィーナー(3)

思想

イブン・スィーナーは因習に縛られない考えの持ち主であり、同時代の学者であるビールーニーと書簡を通して自然科学の諸問題を議論していた。彼の父のアブドゥッラーフはイスマーイール派を信奉しており、イブン・スィーナー自身はイスマーイール派に入信しなかったが、その思想には共感を示していた。

 

イブン・スィーナーは、王侯貴族にも気兼ねなく話しかける大雑把な性格であり、禁欲的な聖人とは対極にある世俗の愉しみをよく知る人間だった。自身の世俗的な生活と尊大さが反感を買ったこともあって、イブン・スィーナーの思想は多くの論争を引き起こした。しかし、イブン・スィーナーは敬虔なイスラム教徒であり、保守的な神学者や法学者からの批判を避けるため、信心を示すペルシャ語の四行詩をしたためた。また、人間の霊魂、神、天体の霊魂の間に共感があると考え、その繋がりを強化するには礼拝などの宗教的行為が有効であると説明した。

 

後世のイスラム世界の学者のうち、ガザーリーらはイスラーム神学の立場から、イブン・ルシュドはアリストテレス主義の立場から、イブン・スィーナーの哲学に批判を加えた。しかしナスィールッディーン・トゥースィーを初めとする学者は彼の思想を支持し、照明学派やイスファハーン学派などのイスラーム哲学の諸派や、イスラーム神学やイルファーン(神秘主義哲学)に影響を及ぼした。

 

その思想はキリスト教世界にも紹介され、13世紀のスコラ学の発展に多大な影響を与えた。

 

哲学

イブン・スィーナーはアリストテレスを哲学、ガレノスを医学の師とし、アラビア医学の体系化に努めた。医学のみならず、史上初めてのイスラーム哲学の体系化、アリストテレス哲学の明快な紹介がイブン・スィーナーの哲学面での功績として挙げられている。彼は形而上学を頂点とする学問体系を構築し、代数学を数学の一部に含め、工学と計量学と機械学を幾何学に含めていた。

 

特に「存在」の問題について大きな関心を寄せ、独自の存在論を展開した。外界も自身の肉体も感知できない状態で自我の存在を把握できる「空中人間」の例えを用いて、存在は経験ではなく直観によって把握できると説明した。この空中人間説は形而上学ではなく、自然科学によって説明がされている。

 

存在を「このもの」と指示できる第一実体、「このようなもの」としか言えない普遍的な第二実体に分けたアリストテレスと異なり、イブン・スィーナーは非抽象的な捉え方をした。彼は存在を「不可能なもの(mumtani)」「可能なもの(mumkin)」「必然的なもの(wajib)」に三分する独自の区別を打ち出し、この区分はスコラ学者やイスラーム哲学者の受け入れるところとなった。

 

イブン・スィーナーはこの3つの区分、本質を構成する要素と存在の関連性を哲学の基礎としていた。また、存在を本質の偶有であると考え、1つの本質が個々の事物としての存在を獲得するために他者に原因を求めた。イブン・スィーナーは、最終的に全ての存在の原因を「第一原因」に帰着させ、神こそが「第一原因」であるとみなした。新プラトン主義の流出説を用いることで、神の超越性を確保し、さらに創造者である神と創造物を明確に区別する線を引き、汎神論と異なる立場をも確立した。

 

アリストテレスが認めていなかった流出論を主張するなど、彼の思想はアリストテレス主義から数歩踏み出していたものであったため、しばしばよりアリストテレスに近い思想のイブン・ルシュドと比較される。しかし、思想の根本ではアリストテレスの思想を継承していた。後進のトマス・アクィナスよりもアリストテレスの手法に忠実であり、そのためにアリストテレスの思想をイスラム文化に根付かせることができた。

 

イブン・スィーナーの存在の研究は弟子のバフマンヤール・イブン・アルマルズバーンらに引き継がれ、モッラー・サドラーら後期イスラーム思想家が発展させた。

 

医学

イブン・スィーナーは、医学を自然学から派生した学問と見なし、医学を障害を取り除くことで本来の機能を回復させる技術と考えていた。彼は自著において健康と病の原因を究明し、結果に応じて健康の保持と回復の手段を決定する必要があると述べた。

 

イブン・スィーナーは医術の実践よりも理論面を得意とし、臨床医学に必要とされる知識を『医学典範』にまとめ上げた。イブン・スィーナーは、ギリシャの医学者ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させたが、解剖学の分野など時代的な制限からガレノスと同じ誤りを犯した部分も存在する。イブン・スィーナー独自の発見としては、新たな薬草、アルコールを使った腐敗の防止、脳腫瘍と胃潰瘍の発見などが挙げられる。

 

ガレノスだけでなく、イブン・スィーナーは哲学の師であるアリストテレスの説いた四大元素説を理論医学に応用するなど、彼の理論を『医学典範』において活用している。しかし、哲学と医学の領域、役割を明確に区別しており、他の医学者にも自らの領分を守るよう戒めた。また、ガレノスやアリストテレスら西方世界の医学論のほかに、イブン・スィーナーの医学論は古代インド医学の流れも汲むとする意見もある。

 

イブン・スィーナーは、古代ギリシャ世界の影響を受けながら音楽理論を研究し、健康の保持には音楽が最も効果的であると考えるに至った。『アラー・ウッダウラのための学問の書』内の音楽論を述べた部分では、ペルシア語を使って初めて音楽の調子を表記した。イブン・スィーナーの音楽論の基礎は当時、実際に演奏されていた音楽にあった。

 

イブン・スィーナーは、医学論を人間の行動の研究にも適用したことから心理学の開拓者の一人にも数えられ、『医学典範』の中で精神療法を実施したことを述べている。彼は恋煩いを治療する名医としても知られ、当時の医学の手法に従って恋煩いにかかった患者の脈を計り、脈拍数に乱れがあることを確認した。しかし、精神に属する「理性」と脳のはたらきを関連付けようとはしなかった。

2025/04/12

イブン・スィーナー(2)

サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり

イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された。図書館には希書が多く所蔵され、その中にはギリシャ語の文献も含まれていた。イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る。

 

図書館の蔵書は、イブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした。間もなく図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた。

 

999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝が、ガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが、その死のために生計を立てていくことが困難になる。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった。

 

イブン・スィーナーは、ホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる。

 

1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードが、イブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む。マームーン2世は、ガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した。

 

ブワイフ朝への仕官

ニーシャープールを経て、イブン・スィーナーは放浪の末にカスピ海近くのジュルジャーン(ゴルガーン)に居を定める。ジュルジャーンを訪れる前にスーフィーの聖者イブン・アビ=ル=ハイルに面会し、ジュルジャーンを統治するズィヤール朝の君主カーブースの庇護を求めている旨を伝えた。しかし、ジュルジャーンに到着した時には、既にカーブースは没していた。失意に沈んだ彼は一時隠棲生活を送るが、この地で愛弟子のアル・ジュジャニーと出会うことになる。アル・ジュジャニーは常にイブン・スィーナーと行動を共にし、彼の伝記を書き上げた。ジュルジャーンでイブン・スィーナーは論理学と天文学を教授し、『医学典範』の第一部を執筆した。1014年にテヘラン近郊のレイに移り、多忙な生活の合間を縫って30ほどの小編を書き上げた。やがてレイが戦渦に見舞われると、ブワイフ朝が統治するハマダーンに逃れた。

 

イブン・スィーナーは、ハマダーンの君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、シャムス・ウッダウラの疝痛を治療して能力を認められる。シャムス・ウッダウラの信任を得て宰相に起用されたイブン・スィーナーは、昼間は政務、夜に研究と講義を行う生活を送った。さらに、シャムス・ウッダウラの依頼を受けてアリストテレスの著書に注釈を付記することになり、イブン・スィーナーと弟子たちは多忙な日々を送る。夜間、イブン・スィーナーの家に集まった弟子たちは、彼が著した『医学典範』と『治癒の書』の一部を輪読していた。作業の休憩のときには様々な歌が飛び交い、酒席が設けられた。イブン・スィーナーの政策に不満を持つ軍隊が彼の邸宅を焼き討ちする事件が起きた時、彼はしばらくの間身を隠さなければならなかったが、シャムス・ウッダウラの腹痛を治療するために呼び戻され、宰相に復職した。1020年、イブン・スィーナーは以前から執筆していた『医学典範』を完成させる。

 

1021年にシャムス・ウッダウラが没した後、イブン・スィーナーは官職を辞して隠棲し、『治癒の書』の完成像の構想を模索した。イスファハーンの君主と手紙のやり取りを行っていたが、これを知ったハマダーンの新たな君主サマー・ウッダウラはイブン・スィーナーを投獄する。イブン・スィーナーは獄中でも論文を書き続け、釈放後に弟と1人の弟子、2人の奴隷を連れてスーフィーの托鉢僧に扮し、イスファハーンに移住した。

 

晩年

イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは、政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった。イブン・スィーナーは、アラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する。

 

1030年、イスファハーンはガズナ朝の君主マスウード1世の攻撃を受け、イブン・スィーナーは蔵書を含む所有物を奪われる。この時、かつて書き上げた『公正な判断の書』が散逸する。病に倒れた時、奴隷に多量のアヘンを飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった。

 

日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく。1037年、イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている。同年618日、イブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった。

 

死後

1012年ごろ、イブン・スィーナーがジュルジャーンに滞在していた時、彼の弟子であるアル・ジュジャニーが師からの聞き取りを元に、伝記の前半部を記述した。アル・ジュジャニーはイブン・スィーナーの死まで行動を共にし、伝記の後半部分を独自に記述した。アル・ジュジャニーの著した伝記はキフティーの編纂した『智者の歴史』に収録され、イブン・スィーナーの生涯を知る上での重要な史料となっている。

 

ヒジュラ暦ではイブン・スィーナーの生誕1,000年にあたる1952年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代のブハラでアヴィセンナ千年祭が開かれたソビエト連邦、イラン王国、トルコなどで盛大な式典が開かれ、多くの学者がイブン・スィーナーに関する論文を発表した。1981年にブカレストで開催された第16回国際科学史学会では、出席した各国の学者がイブン・スィーナーの事績を討論した。

 

1980年にはイラン・イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された。ペレストロイカ期にタジク人のナショナリズムが高揚した際、タジク知識人の中にイブン・スィーナーをタジク人と見なす動きが見られ、ウズベク知識人はこの動きに反発した。

2025/04/09

天平文化

天平文化(てんぴょうぶんか、旧字体:天平󠄁󠄁󠄁)は、時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都・平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化という。

その後、平安時代になると国風文化となり、日本で独自に文化を進めていくことになる。

 

建築物・寺院

    薬師寺東塔

    校倉造

 

平城京には、碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京が出来上がった。

 

聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法華寺であり、東大寺大仏は鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。

 

代表的な仏教建築

    唐招提寺金堂、講堂 - 講堂は平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。

    唐招提寺経蔵、宝庫 - 長屋王邸の遺構で正倉院より古い。

    薬師寺東塔[要出典] - 平城京遷都後、白鳳様式で建立された天平建築とするのが通説だが、本薬師寺からの移建説もある。従って移建説に従えば、白鳳建築。

    東大寺法華堂(三月堂)、転害門

    正倉院宝庫(校倉造)

    法隆寺東院夢殿

    栄山寺八角堂

 

詩歌

    『万葉集』 - 代表的な歌人:大伴旅人・大伴家持・山上憶良『貧窮問答歌』・山部赤人

    『懐風藻』(かいふうそう) - 淡海三船・石上宅嗣(異説あり)

 

彫刻

    阿修羅像(部分)

    興福寺国宝館

    多聞天像(部分)

    戒壇院四天王の1

東大寺の造営を管轄する役所である造東大寺司のもとで官営の造仏所が整備され、多数の工人によって仏像制作が分業的に行われていた。一方、都には民間の仏像制作工房:私仏所があり、また僧侶で仏像制作を行う者もでてきた。指導的仏師としては、東大寺大仏の責任者:国中連麻呂、興福寺の十大弟子八部衆制作の将軍万福などが記録に残っている。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、天平時代の部分は台座、脚部などごく一部)に代表される金銅仏のほか、乾漆像や塑像が主流であり、金像銀像、石仏も制作され、塼仏、押出仏の制作も盛んであった。

 

乾漆像

    興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像

    聖林寺十一面観音立像

    葛井寺十一面千手千眼観世音菩薩像

    唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像

    東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像

 

塑像

    新薬師寺(奈良市)十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)

    東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像

    東大寺戒壇院四天王立像

 

工芸品

    正倉院正倉

    正倉院宝物(楽器、調度品など)

2025/04/08

イブン・スィーナー(1)

ファーラービーに続く哲学者が、アヴィセンナことイブン・スィーナー(980 - 1037年)である。

彼は、東方イスラーム哲学における絶頂期の哲学者といっても差し支えない。彼は、また独力で数学的な諸学・自然学・哲学・医学を修め、その名をイスラーム中に轟かしていたという。幾度の政変で必ずしも幸福な人生を遅れなかったが、「医学典範」・「治癒」・「救い」・「指示と勧告」などの壮大な哲学体系は現在においても、いまだ研究途上でさえある。

 

その論及は多岐に及ぶが、中でも基本姿勢として貫いているのが存在一般の問題、つまり形而上学である。アヴィセンナは「空中浮遊人間」説をもって、存在というものを説いた(この比喩は、中世ヨーロッパにおいて論議を呼んだ)。

すなわち、真空中に浮遊している完全な一人の人間がいる。ただ、完全に盲目であり、外を見ることができない。真空中なので、空気の触感ですら感じられない。彼は、そのような状況で何を感じることができるとすれば、自身の存在である。

 

つまり「我在り」という自身の存在は、確実に肯定するというのである。これに、存在は他と違って本質的に直観知というべきものであり、近世デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」の命題の先駆的業績を掲げているといえる。この存在の立場から、アヴィセンナは、自然科学や数学のような絶対的な存在のあり方を捉えない学問と形而上学の独自性を主張する。

 

そのほか、知性・可能性・普遍性の問題など、中世あるいは近世・近代の哲学史上で論及されてきた問題の先駆的業績を残した人物であった。

 

イブン・スィーナー(ペルシア語: ابن سینا, پور سینا980 - 1037618日)は、ペルシャの哲学者・医者・科学者。全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー(ペルシア語: ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری, ラテン文字転写: Abū ʿAlī al-usayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī, ラテン語: Avicenna, カナ転写: アウィケンナ、英語圏:アヴィセンナ)。

 

イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、同時に当時の世界の大学者である。「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を及ぼした。アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並ぶ巨頭とされている。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった。

 

名前

「頭領」を意味するシャイフッライース(Shaykh al-raʿīs)、「神の証」(ujjat al-aqq)の尊称でも呼ばれている。中国との交流が多いトランスオクシアナ地方の生まれで、名前のスィーナーが「シナ」の発音に似ていることから彼の出身を中国と関連付ける説、アラビア語において「スィーナー」が「シナイ」を意味する点から、ユダヤ人と関連付ける説も存在する。

 

生涯

幼少期

イブン・スィーナーは、9808月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる。5歳のときに一家はブハラに移住し、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた。

 

イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという。イブン・スィーナーは、父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び、ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ。ナティリからユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った。しかし、イブン・スィーナーが読んでいた書籍は受験参考書のような入門用の啓蒙書であり、原典の逐語訳とは大きく内容が異なっていた。

 

その後、ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び、16歳の時にはすでに患者を診療していた。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した。とはいえ、この時イブン・スィーナーが使用していたテキストもヒポクラテスやガレノスの著書の逐語訳ではなく、ダイジェストともいえる家庭医学の指南書であり、後年にイブン・スィーナーは医学の奥深さを知ることになる。

 

しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの強く勧められて本を購入した。彼が購入した本は、ファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなって、はじめてアリストテレス哲学を修得することができた。

 

イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している。勉強の疲れがたまった時にはワインを飲んで気分を回復させ、後年にはワインを詠った詩をしたためた。

2025/04/05

カロリング朝(4)

分裂後のカロリング朝国家

カール大帝の帝国は、王家の分割相続により瓦解した。885年には、カール3世によって帝国が再統一されるが一時的なことに過ぎず、887年には東フランク王アルヌルフによって廃位に追い込まれた。

 

888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。

 

この時代は、北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。

 

彼らは、地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。

 

北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から、都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。

 

カロリング・ルネサンス

カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としては、トゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。

 

このカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これにより、ラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。

 

カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は、従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックスに書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。

 

カロリング家の歴代人物

メロヴィング朝時代

    ピピン1世(大ピピン)(?-639年)・・・カロリング家の始祖。メロヴィング朝フランク王国の分国(アウストラシア)で宰相として仕えた。

    ピピン2世(中ピピン)(640?-714年)・・・大ピピンの外孫。687年のテルトリーの戦いでフランク王国の実権を握る。

    カール・マルテル(688?-741年)・・・中ピピンの庶子。宰相としてフランク王国を統一する。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラーム帝国を撃退する。

 

カロリング朝時代

    ピピン3世(小ピピン)(714-768年、在位751-768年)・・・カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。ローマ教皇ステファヌス2世にラヴェンナなどを寄進(ピピンの寄進)。

    カール大帝(742-814年、在位768-814年)・・・800年に教皇により戴冠、西ローマ帝国の復興。カロリング朝ルネサンスといわれる時代を築く。

    ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)・・・817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作り、崩御後、フランク王国は分裂する。

 

フランク王国分裂後

ルートヴィヒ1世の崩御にあたり、3人の子息が存命していた。当時の慣習から、領地は分割相続により継承され、843年のヴェルダン条約により確定した。現在のフランスにあたる地域は、末子シャルル2 (禿頭王) 領の西フランク王国に、ロートリンゲンおよびイタリア北部は、長男ロタール1世領のロタール王国に、現在のドイツにあたる地域は、三男ルートヴィヒ領の東フランク王国として分割、相続された。帝位は長男ロタール1世が継承し、その子孫が世襲した。

 

その後の870年にはメルセン条約により、ロートリンゲンは東西フランク王国が分割し、イタリア北部はロタール1世の子、皇帝ルートヴィヒ2(ロドヴィコ2)領のイタリア王国となる。しかしルートヴィヒ2世には男子がおらず、この血統は断絶する。東フランク王国は、911年のルートヴィヒ4世の崩御をもって、西フランク王国は987年のルイ5世の崩御をもって男系王位継承が途絶え、カロリング朝は断絶した。

2025/04/04

「第二の師」ファーラービー(2)

イラン系出自説

アル・ファーラービーの最も古い伝記作家である中世アラブの歴史家イブン・アブー・ウサイビア(1203-1270)は、アル・ファーラービーの父親はペルシャ系であったと著書『ウユーム』で述べている。1288年頃に生きていたアル・シャフラズーリーも、アル・ファーラービーがペルシャ人家庭で生まれたとしている。ジョージタウン大学の名誉教授マジド・ファクリーによれば、ペルシア人血統の軍の士官であったという。ディミトリ・グタスは、アル・ファーラービーの著作にはペルシャ語、ソグド語、さらにはギリシャ語での引用や影響が含まれているが、トルコ語は含まれていないことに注意している。ソグド語が、彼の母語であるという提案もされている。ムハンマド・ジャヴァド・マスフールは、イラン系言語を話す中央アジア人であることを主張している。

 

トルコ系出自説

トルコ系出自説で最も古い言及は、歴史家イブン・ハリカーン(-1282)の『ワハヤート』(1271年完成)による。ファーラーブ(現在カザフスタンのオトラル)に近いワスィジの小さな村で、トルコ人の両親より生まれたと述べている。この記述に基づいて、現代の学者の中には彼がトルコ人であるという人もいる。ギリシャ出身のアメリカ人アラブ学者であるディミトリ・グタスは、これを批判する。

 

イブン・ハリカーンの記述は、イブン・ウサイビアによって初期の歴史的記述を目的とし、アル・ファーラービーのトルコ人起源を証明する目的で、例えば追加されたニスバである”アッ・トゥルク”(トルコ人)などを使用する。これは、アル・ファーラービーは決して用いなかった。イブン・ハリカーンをコピーしたアブル・フィダー(1273-1331)は、アッ・トゥルクを変更して「彼はトルコ人であった」とした。この点に関して、オックスフォード大学教授C.E.ボスワースは「アル・ファーラービー、アル・ビールーニー、イブン・スィーナーなどの偉大な人物を、熱狂的なトルコの学者によって彼らの民族に結び付けられている」と述べている。

 

生涯と学習

アル・ファーラービーは、ほとんどをバグダードで過ごした。イブン・ウサイビアによって保存された自叙の一節で、アル・ファーラービーはユハンナー・ビン・ハイラーンの下で『分析論後書』などの論理学、医学、社会学を学んだ。すなわち、伝統的教程に従ってポルピュリオスの『エイサゴーゲー』、アリストテレスの『カテゴリアイ』『命題論』『分析論前・後書』を学んでいった。

 

彼の師であるユーハンナー・ビン・ハイラーンは、アッシリア教会の聖職者であった。おそらくアル・ムクタディルの治世中にユーハンナーが没するまで、その期間は続いたとアル・マスウーディーは記録している。彼は、少なくとも9429月末まではバグダードにいたと、『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』で述べている。彼はその翌年に、つまり9439月までにダマスカスでこの本を完成させた。彼はしばらくアレッポに住み、のちにエジプトを訪れ、『諸原理』の6セクションをまとめて9487-から9496月に要約し、シリアに戻りハムダーン朝の支配者サイフ・ッダウラの支援を受けた。アル・ファーラービーは、339回目のラジャブ月(9501214日から951112日)にダマスカスで死去した、とアル・マスウーディーはこの出来事の5年後に書き記した。

 

著作

彼は『エリクサーの技術の必然性』という書を書いた。

 

論理学

彼は主にアリストテレス的論理学者であったが、著作には多くの非アリストテレス的要素が含まれている。未来の条件、数、カテゴリーの関係、論理学と文法学の関係などのトピックや非アリストテレス形式の推論を議論した。また、仮言三段論法と類推的推論の理論を考察した。これはアリストテレスではなく、ストア派論理学の伝統である。他にアリストテレスの詩学に三段論法の概念を導入した。

 

アル・ファーラービーの主著の一つに『命題論注解』がある。

 

音楽

『音楽の書』のにおいて、音楽についての哲学的な原理や、その広大な性質や影響について書いた。また音楽が心理に及ぼす治療効果について議論した『知性の意味』という論文を書いた。

 

哲学

初期イスラーム哲学において「ファーラービー学派」として知られる学派の創設者であったが、のちにはイブン・スィーナー学派によって影響力を落とした。アル・ファーラービーは、数世紀にわたって哲学・科学に大きな影響を及ばした。その時代において、彼は「第二のアリストテレス」と呼ばれた。

 

自然学

『真空について』という短い論文を書き、虚空の存在の性質について考察した。彼はまた真空の存在に関して、水中での吸引機を使った最初の実験を行ったと目されている。彼の結論は、空気は利用可能な空間を埋めるために拡張できるということであり、完全な真空は不合理だということだった。

 

心理(霊魂)学

『都政論』『有徳都市』で、社会的心理学の原理を書いた。また『有徳都市』24章に名の出ている『夢の原因について』という論文では、夢解釈と夢の性質と原因を弁別した。

2025/03/31

カロリング朝(3)

教皇からの帝冠

教皇レオ3世は、800年のクリスマスにカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授け、西ローマ帝国の地に「ローマ皇帝」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった。

 

教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は、教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『旧約聖書』「サムエル記」であった。サムエルは人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『新約聖書』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「コリントの信徒への手紙 一」9.14)と述べていた。

 

当時の聖職者の中には、この言葉は司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝は、この問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。

 

またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」はさまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。

 

分割

広大な帝国は、カール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では、兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後カールとピピンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。

 

ヴェルダン条約によるフランク王国の分割

西フランク王シャルル2世・・・アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境

中フランク王ロタール1世・・・ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ

東フランク王ルートヴィヒ2世・・・ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン

 

3分割

814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。817年に「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒ2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点では、ロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。

 

しかしシャルル2世が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後、840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。

 

841年、ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世はオセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分(西フランス王国、中フランス王国、東フランス王国)されることとなった(ヴェルダン条約)。

 

4王国

帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ロドヴィコ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。

 

869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)。

 

西フランク王シャルル2世は875年のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。

2025/03/30

「第二の師」ファーラービー(1)

アリストテレスが「第一の師」とイスラム世界で仰がれてアリストテレスの哲学解釈が興隆していく中、それに続く「第二の師」と呼ばれたファーラービー(870年頃 - 950年)は、キンディーが開いた道に基礎を固めた人物として知られている。キンディーのように彼も著作が多く、殊にアリストテレスの注釈書は多く、アヴェロエスを凌ぐものであった。キンディーと比べ、ファーラービーはアリストテレスの理解も正確であった。彼も、キンディー同様に真理を追究する情熱は確かなものであり、彼ももちろんムスリムであったが真理に反対するものであれば服従すべきはずのクルアーンでさえも、許されるものではないと考えていた。

 

ファーラービーは、哲学は真理を求める学問であって、人はこれに専念さえすれば最高の精神の境地へと到達することができると考えた。ファーラービーはイスラム的であるよりも、哲学的であるべきだと考えていた。しかし、イスラームを始めとする宗教に対して敵意を抱いていたわけではない。彼はイスラームに哲学の概念を導入することによって、イスラームの国家、政治、社会が安定するように考えていた。また、ファーラービーによると、イスラームにとって重要な概念である啓示は、本来哲学者が直接的に形而上学的認識として把握すべきものとし、預言者ムハンマドはこれを形象的、詩的に表現した天才ではあるが、哲学者よりは一段下と考えざるをえないとまで考えていた。

 

また論理学にも長けており、後のヨーロッパのスコラ哲学で大論争となったいわゆる普遍論争は、ファラービーに端を発しているともいわれている。他にも、世界の存在をネオプラトニズム的な流出論からの説明を行ったり、形而上学やキンディーも論じていた知性論を踏まえ、10の知性流出説など深い論及をし、イスラーム哲学においては偉大な存在の人物であったことはもちろんであるが、ファーラービーの論及した問題は後のヨーロッパの中世哲学の要になるようなものばかりであった。

 

アル=ファーラービー(アラビア語 ابو نصر محمد ابن محمد الفارابي ペルシア語 محمد فارابی Abū Nar Muhammad ibn Muhammad al-Fārābī870? - 950年)は、中世イスラームの哲学者・数学者・科学者・音楽家。トルコ系のアラブ人。イスラーム哲学の確立に多大な功績を上げ、イスラム哲学者たちの間で尊敬されていた哲学者アリストテレスに次ぐ、二番目の偉大な師という意味で「第二の師」という敬称を持つ。ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアルファラビウス(Alpharabius)の名でも知られている。特に、ネオプラトニズムの影響を受けたアリストテレス研究で名高かった。

カザフスタンで発行されている複数のテンゲ紙幣に肖像が使用されている。

 

著作も多岐にわたり、現在でもファーラービーの著作はイスラム圏のみならず、ヨーロッパやアメリカ、日本などでも読む事が出来る。著作『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』と『知性に関する書簡』が<中世思想原典集成.11 イスラーム哲学>(平凡社、2000年)に日本語訳されている。

 

生涯

出生については異説もあるが、中央アジアのファーラーブ(現在のカザフスタン共和国オトラル)といわれている。若くして中央アジアの都市ブハラで学ぶ。901年にバグダードへ。当地でファーラービーの秀逸ぶりは広く知られ、当代きっての大学者となっていった。950年にダマスクスで80歳で死去。

 

彼は特にアリストテレスの研究に力を注ぎ、その研究書は後の世にも多くの影響を与えた。彼は、イスラームに哲学の概念を導入させる事により、イスラム理解をより深められると考えていた。そのためには、イスラームでは真理を獲得することこそが真の目的で、人はこれにより真の幸福を得られると説いた。彼は論理学にも優れており、彼の哲学は後のヨーロッパで大いに論じられた諸問題(普遍論争など)提起の下地を作った。また、スーフィズムの信奉者でもあった。

 

アル・ファーラービーの様々な出自の由来の記述は、それが彼自身が生きている間には、具体的な情報を持つ誰かによって記録されなかったことを示し、伝聞や推測に基づいている。彼の生涯はほとんど知られておらず、初期の情報源として彼自身の論理学と哲学の歴史をたどる中での自伝的な文章と、アル・マスウーディー、イブン・アン・ナディーム、イブン・ハウカルなどによって簡潔に述べられているだけである。サイード・アル・アンダルスィーは、彼の伝記を書いた。12-13世紀のアラビアの伝記作家は、このような手近に事実を持たず、彼の生涯について既存の叙述を利用した。

 

ある付帯的な記録から、彼は人生の大半をバグダードでキリスト教徒の教師であったユハンナー・イブン・ハイラーン、ヤフヤー・イブン・アディー・、アブー・イスハーク・イブラヒーム・アル・バグダーディーなどと過ごしたとが知られている。その後、ダマスカスやエジプトで過ごし、再びダマスカスへ戻り950-951年頃に死去した。

 

彼の名前であるアブー・ナスル・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ファーラービーに、時々家族姓であるアル・タルカーニーというニスバが付く。

彼の生地は中央アジア~大ホラーサーンのいずれかの地である可能性がある。

 

より古いペルシャ語の"Pārāb"or"Fāryāb"は「川の流水で灌漑された土地」を意味する一般的な地名である。従って、この地名に当たる場所には多くの候補がある。例えば、現在カザフスタンのヤクサルテスにあるファーラーブ、現在トルクメニスタンのオクサス・アムー・ダルヤーにあるファーラーブ、さらにアフガニスタンの大ホラーサーンにファールヤーブなど。13世紀にはヤクサルテスのファーラーブは、オトラールとして知られた。

2025/03/29

ミクロネシアの神話伝説(7)

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【魔法のパンの木】

ラオミキアクの孫、ミラッドはバベルダオプ島沖にあるンジブタル島に住んでいました。彼女の家の庭には魔法のパンの木があり、空洞になったその幹は礁湖まで通じており、海で大きな波が起きると、自動的に幹から魚が降って来たのです。優しいミラッドは、そうして手に入れた魚を都度都度、村人にも分けていました。

ところが、彼女のパンの木を羨ましがった村人達は悔しさのあまりに、ある日のことシャコ貝の斧で、その木を切り倒してしまったのです。その瞬間、幹の中からは大量の海水があふれ出てきました。水はとまらず、とうとう島は海の底に沈んでしまったのです。今でも、透明な礁湖を覗くと、その幹が見えるということです。

 

【亀の時間】

パラオでは、女性達は亀の甲羅から作った特別な貨幣を使っていました。昔は亀の習性が あまりよく知られておらず、この貨幣は大変貴重なものでした。

 

とある新月の夜のこと、ペリリュー島の青年とアラカベサン島の少女が、ンゲルミス島で逢い引きをしていました。彼らは、そこで夜を明かしていたのです。ところが朝、少女が気が付いて見ると彼女のスカートの一部が引きちぎられており、また彼女が寝ていた場所から浜の方に向かって亀の這った跡がついていました。とりあえず、その日は椰子の葉で新しいスカートを作り、彼氏とはまた満月の夜に遭う約束をして別れました。

 

二度目の約束の日、彼らは大きな亀が浜を上がってくるのを目撃しました。よく見ると、亀の足に絡まっているのは、この前ちぎられたスカートではありませんか!

このことがきっかけで、パラオの人々は亀が卵を産んだ後、大体二週間で元の場所に戻ってくるという亀の習性を知ったのです。

 

【石になった婦人】

コロール島のンゲルミド村に、バイと呼ばれる男性だけの集会所で夜通しいったい何が行われているのか、大変に興味を持った女性がいました。女性がこういうことに興味を持ったり、あまつさえバイに近づいたり中に入ったりすることはタブーとされていましたが、だめだと言われれば言われるほどに我慢ができなくなり、とうとうある日の深夜、子どもを連れ灯りをかざして森を抜け、こっそりとバイの側までやって来たのです。そして、そうっと中をのぞき込んだその瞬間、彼女は子どももろとも石になってしまったのでした。その石は、現在でもコロールに残っているそうです。

 

【パラオの起源】

太古の昔、とある島に住む夫婦に一人の息子が生まれました。その子は驚くべき速さで成長し、またもの凄い量の食べ物を食べたため夫婦二人ではとうてい養いきれず、 村中で養っていました。彼の成長は止まらず、村では彼の身体を覆って雨露をしのぐための特別なバイまで建てました。ところが、彼はどんどんどんどん大きくなり続けて、バイよりも大きくなってしまい、やがて島中の全ての食料を食べ尽くしてしまったのです。

 

困り果てた村人達は相談し、彼を殺してしまうことに決めました。母親は泣きましたが、このままでは村中の人々が死んでしまうことを考えて村人達に従いました。そして、村人達は大きな斧で彼の身体を斬りつけました。その切り離された体のそれぞれが、今のパラオの起源なのです。彼の脚はアンガウル島になり、かかとはペリリュー島に、胴体はバベルダオプ島、頭はカヤンゲル島という具合です。そして腕や手足の指が、残りの小さな島々になったということです。

 

【テバングの伝説】

レケシワルは、妻メルデラドと暮らすために故郷ンジワルを出て、ンゲルンゲサンに出てきました。2人にはテバングという息子がいましたが、メルデラドは若くして死んでしまったために、レケシワルは男手1つで息子を育てました。テバングは成長し、やがてンゲルンゲサンで妻を見付けます。ところが、この妻は義父のレケシワルと折り合いが悪く 、テバングに父親を追い出してしまうよう頼んだのです。レケシワルは故郷のンジワルに戻りますが、昔の知り合いはもうおらず年老いた身では自分を養うのもままならないため、「バイ」に身を寄せて近所の人達に養ってもらいました。

 

その頃、テバングはテバングで困った問題を抱えていました。友人と協力して、森から大きな木を切り出してカヌーを作ったものの、カヌーがタロ田にはまりこんでしまい、押しても引いても動かなくなってしまったのです。テバングは神官のところに相談に行きましたが、神官は「これは父レケシワルを追い出した報いである」と言ったきり取り合ってくれません。テバングは妻に、「俺は、これから父さんを迎えに行って来る」と言い、ンジワルに行って父親に詫びをし、家に戻ってくれるよう頼みます。

 

レケシワルは戻ってくると男達に言いつけて、カヌーを取り出すためのチャントを詠わせました。するとカヌーはするすると滑り出し、浜まで運ぶことができたのです。それ以来、人々は老人を敬い、みんな仲良く暮らすようになったということです。

 

【ヤップの石貨】

大昔、カロリン諸島のヤップ島の人々は航海を得意とし、遠距離航海も平気でした。そんな船乗り達が、パラオの南250キロの「ロックアイランド」の洞窟の中に、加工するのに最適な石灰岩質の岩脈を発見したのです。 彼らはこの岩を用いて、大きな円形の貨幣を作成しました。有名なヤップの石貨です。何世紀にもわたってヤップの人々はカヌーに乗った男達をこの島まで運び、石貨を切り出してヤップまで運んで帰ったのです。

 

石貨の価値は、石灰岩の模様の美しさだけでなく、1つ1つの石貨が無事にヤップに持ち帰られるまでの並々ならぬ苦労の度合いで量られました。実際、運搬中に嵐に出会うとしばしば人々は命を落としましたし、苦労して作り上げた石貨は一瞬のうちに海の底に沈んでしまったのです。今でもロックアイランド沖には、こうした不慮の事故で海底に沈んだ多くの石貨が見られるそうです。

2025/03/27

カロリング朝(2)

イスラム勢力との戦いと名声獲得

トゥール・ポワティエ間の戦い

アキテーヌを支配していたウードはイスラム教徒の国境司令官ウスマンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンは反乱分子として夫を殺し、嫁がせた娘(ランペジア)をカリフのハレムへ送った。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ウードの軍を破った。カール・マルテルは、アウストラシアの軍勢を率いてウードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は内外に大いに高まった。

 

このころ、イスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年には、イスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪し、トゥールーズを包囲した。ウードは、イスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。

 

735年にウードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ウードの息子ウナールに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルは、このような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。

 

教会政策

カール・マルテルは、フリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年、教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは、723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃には、この地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。また、これらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。

 

一方、カール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより、鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンは、アウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。

 

ピピン3世、カロリング朝の成立

741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年、カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃には、アキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。

 

教会政策

カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」は、カロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じて、カール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた。742年、カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長として、フランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。

 

751年、ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式を受けた。754年には、教皇ステファヌス2世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。

 

ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる。またピピン3世は、王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権は、カロリング朝君主が掌握していた。

 

カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立

東方世界・・・東ローマ帝国|ブルガリア王国

西方世界・・・カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア

イスラーム・・・アッバース朝|後ウマイヤ朝

周辺諸民族・・・ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア

 

カール大帝は、イタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した。

768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された。その後、771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。

 

773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した。

 

781年には、ランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。

 

イスラム教徒に対しては、778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。