2025/10/02

フランク王国分裂(1)

帝国の分割

カール1世のカロリング帝国は、その領内の諸民族がひとつのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や、制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった。統治機構においては、国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に、いまだその基礎をおいていた。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した。

 

806年の王国分割令によって、すでにイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カールにはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった。

 

しかし実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時には、ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)」は、彼の宗教生活への傾斜から来ている。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した。さらにアニアーヌ修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたアニアーヌのベネディクトを政治顧問とした。

 

ルートヴィヒ1世は、814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きたとき、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した。これによって発せられたのが、帝国整序令(帝国分割令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世(ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男ピピン1世はアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった。

 

こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の1人であったユーディト・フォン・アルトドルフがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団と、ヴェルフェン家の対立を誘発した。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった。

 

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対して、ルートヴィヒ1世を復帰させた。さらに833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった。

 

この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、837年にフリーセン地方からミューズ川までの地域と、ブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡し、その息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した。

 

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した。

 

ヴェルダン条約

ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世は、ローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した。841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した。

 

ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った(ストラスブールの誓い)。この宣誓の言葉は、シャルル2世の家臣ニタルト(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけは、フランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった。

 

争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して、新たな分割線を決定するための委員会が設けられた。この結果、843年にヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された。

 

ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中部フランク王国)が、それぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中部フランク王国について)きわめて人工的な、まとまりのない地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた。

2025/10/01

法然(2)

延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

 

承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。

 

宣旨自体は1207227日に土御門天皇の命で出されているが、当時13歳であった土御門天皇の意志とは考えられておらず、院政を敷いていた後鳥羽上皇の意志による処断であると一般に認知されている。

 

従来、その処断理由について、法然や親鸞などによる念仏宗が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧であると解釈されてきた。

 

法然の伝記『法然上人行状絵図 四十八巻伝」(国宝)』によると、120612月、後鳥羽上皇の熊野詣の折、法然門下の住蓮と安楽が東山鹿ケ谷で催した念仏集会へ宮中の女官数名が密かに参加した。この内数名の女官が感銘を受けそのまま出家、帰京しこの事を知った後鳥羽上皇が激怒し住蓮と安楽を逮捕した、と記されている。

 

当時の時代的背景として、藤原氏の氏寺である興福寺から念仏宗を非難する訴えを受けた事から、朝廷とて無視する事はできず、かといって積極的に念仏宗の弾圧を行う状況にも無い中、朝廷は念仏宗への対応を保留としていた。

 

そのような時勢の中で起きた上記の事件をきっかけに、後鳥羽上皇は密通等不義の行いを大義名分として、主催の4人を死罪、関係未詳の親鸞を含む7人及びその師である法然の計8名を流刑とするなど、次々に念仏宗一派を処断した。

 

蓮如は「歎異抄」の自筆写本の奥書において、この時処分された人々を「興福寺の僧が敵意を持って後鳥羽上皇に讒言した上、法然の弟子に風紀を乱す行いをする者がいるという無実の噂により処断された人」であるとした。

 

概要

延暦寺からの批判

元久元年(1204年)10月、延暦寺の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行う(「延暦寺奏状」)。彼らは、当時の天台座主真性に対して訴えを起こした。

 

「延暦寺奏状」

延暦寺三千大衆 法師等 誠惶誠恐謹言

天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状

一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事

一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事

一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事

一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事

 

興福寺からの批判

元久2年(1205年)9月、興福寺の僧徒から朝廷へ法然に対する提訴が行われ、翌月には改めて法然に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。

 

「興福寺奏状」

興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言

殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。

 

九箇条の失の事

第一 新宗を立つる失

第二 新像を図する失

第三 釋尊を軽んずる失

第四 不善を妨ぐる失

第五 霊神に背く失

第六 浄土に暗き失

第七 念仏を誤る失

第八 釋衆を損ずる失

第九 国土を乱る失

 

法然の対応

元久元年(1204年)11月、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や、『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。

 

朝廷の対応

朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久21219日に法然の「門弟の浅智」を非難して、師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久32月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、330日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。

 

ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにもかかわらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。

 

朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。

2025/09/27

ガーナ王国

ガーナ王国 (Ghana) 、もしくはガーナ帝国は、8世紀(1世紀頃とも)から11世紀(13世紀とも)にかけて、金と岩塩を隊商が運ぶサハラ交易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品・馬・刀剣・衣服・装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。

 

ノク文化にはじまると考えられる西アフリカの鉄器時代前半のニジェール川流域周辺には、ニジェール=コンゴ語族に属するマンデ人による kafu とよばれる政治的単位ないし小首長国が形成されていた。1つの kafu は、合計すると10000–50000人の規模に達する村落の連合体であり、それぞれの kafu は、マンサ (mansa) と呼ばれる宗教的、世俗的権威を兼ね備えた王ないし首長によって支配されていた。ガーナ王国はそんな kafu のうち、マンデ人の北方のソニンケ語 (Sonink) を話す人々ソニンケ族の kafu の連合国家であった。

 

伝承と記録

トンブクトゥに伝わるマフムード・カアティの『探求者の歴史』の写本によると、ヒジュラ元年以前に20-36代続く白人(この場合アラブを含む)王朝があり、その後も21代続いたという伝承が収録されているが、同書は16世紀に作成されたものである。11世紀コルドバの歴史家、アブー・ウバイド・バクリーの著書『諸道と諸国の書(英語版)』のガーナ王国に関する記載は、比較的信頼できるとされている。これは、10世紀頃にサハラを越えて旅をした人々からの証言を集めたものである。

 

バクリーは、ガーナ王国について

「イスラム教徒にとって異教の国家であったが、彼の時代にイスラム教の影響を受け入れ始めた唯一の黒人国家である」

としている。

11世紀ごろのガーナ王国の首都は al-ghaba すなわち「森」と呼ばれた。王の住んでいる場所は柵で仕切られ、特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋が連なっていたという。バクリーはガーナ王国について次のように書いている。

 

王は、女性がつける装飾品を首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンにくるまれた、金の刺繍のされた帽子を(王冠として)かぶっていた。王は臣民に謁見し、臣民の苦情を調整し、解決するときに使った小屋の周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。

 

王の権力は、彼の封臣でもある王の息子たちの頭から金を編みこんだ高価な外套を着せる力に基づいていた。王の周りには大臣たちが座り、王の前には都市の統治者が座った。王宮のドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた血統のすぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで、人々に知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき、尊敬の印として自ら「ほこり」を頭上に撒き散らした。イスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。

 

王が死ぬと、王の遺体が埋葬された場所に大きな木の小屋が建てられた。その小屋には、王の食べ物や飲み物を捧げるために、王が生前に飲食に使用した器が置かれた。食べ物や飲み物を捧げる人々は、墓の入り口を安全に保つため小屋にマットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えた。

 

ガーナ王国の王は、セネガル川上流のバンブク (Bambuk) を支配していた。直接、金鉱を掘るコミュニティを支配していたわけではないが、金鉱を掘るコミュニティとの接触を独占的に支配していた。また1050年頃、アウダゴストを占領して支配し中継貿易の利益をますます吸収していったが、その繁栄は、モロッコのムラービト朝の嫉視を浴びることとなった。

 

考古学的な調査成果

ガーナ王国に関する考古学調査は、1949年から1951年にかけてフランス人、P. テモセイ (Thomassey) R.マウニー (Mauny) によって行われた、ガーナ王国の首都と考えられるモーリタニア南東部のティンペドラ=ナラ街道沿いに位置するクンビー・サレーの調査が知られる。この調査成果は、1956年に発掘報告書として公刊されている。

 

バクリーは

「クンビー・サレーはイスラムの町と6マイル離れた「王宮の町」で構成されている」

と記述しているが、「王宮の町」については発見されていない。イスラムの町については、バクリーが記述するような集住的な石造りの建物が発見された。また北西部分には広大な墓地を伴い、アフリカでは初期の様式のモスクがあることが判明した。これらの建物は複数階の構造を持ち、地中海周辺で見られる様式のものであった。

 

出土した精製土器やガラス器は、北アフリカ・マグリブ地方から輸入されたものであった。クンビー・サレーの中央の通りと、モスクから採取された有機物のサンプルから放射性炭素年代測定が行われ、13世紀初頭という値が得られ、11世紀後半(1076年)にモロッコのムラービト朝に滅ぼされてからも、町自体は2世紀近く繁栄を続けていたことが判明した。

 

その後、セルジュ・ロベールによって、さらに下層の居住層の発掘調査が1975 - 76年に行われている。その調査成果は発表されていないが、予備調査の成果は1972年に発表されている。この調査によって得られたサンプルで、6世紀から18世紀にわたる放射性炭素年代が得られており、現にクンビー・サレーがガーナ王国時代に繁栄していたことが証明された。

2025/09/24

法然(1)

法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。

 

法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

 

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖として崇め、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と敬称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

生涯

生い立ちと出家・授戒

長承2年(1133年)47日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

 

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

 

その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

 

「年少であるのに出離の志をおこすとは、まさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

 

これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に、師法然の法言として

「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」

と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。

 

浄土宗の開宗

承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 

法然は、この地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

 

養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は、翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。

 

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて、浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては、弟子たちの力も借りたという。

 

建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。

 

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)に、その法要の場面が描かれている。

 

法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。

2025/09/14

ローランの歌(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

ローランの歌:La Chanson De Roland

あらすじ

 フランク王シャルルマーニュ(カール大帝)の甥ローランは、スペイン遠征から引き揚げるフランス軍のしんがりをつとめた。しかしサラセンの大軍に襲われ、親友オリヴィエとともに玉砕する物語である。ロンスヴォーの戦い(Roncevaux、スペイン語:ロンセスバーリェス Roncesvalles)

 

 この話は、次の史実に基づいて創作された。778年、シャルルはスペインのサラゴサを攻撃するが陥落しない。そのうち本国でサクソン人が蜂起し、やむなく撤退を決意した。帰途についたフランス軍がピレネー山中に差しかかった時、バスク族の待ち伏せに会い、しんがり部隊は全滅した。

 

 この敗退は、シャルルの生涯の中で最も重大な事件であった。フランスで作られたこのローランの歌は、善なるキリスト教徒が悪なるイスラム教徒を徹底的に打ち負かすストーリに置き換わり、ヨーロッパ全土で莫大な人気を博した。

 

ガヌロンの裏切り

 われらが大帝シャルル王は、まる7年、イスパニアにあって異教徒の街を攻め、これを平定した。残るは山間の街サラゴサ(Zaragoza)のみ。サラゴサのマルシル王は、とりあえず降伏することとし、莫大な財宝と人質の提供を申し出てきた。

 

 大帝は重臣たちと、この申し出を検討する。ローランは信用できないと反対するが、ガヌロンや他の重臣は賛成し、サラゴサに使者を出すことになった。ローランは使者の役目を申し出るが許されず、「では、義父ガヌロンを!」と推挙した。ガヌロンは「危険な使者に選ばれた」と、ローランを深く恨んだ。

 

 ガヌロンは、サラセンの迎えの使者ブランカンドランと一緒にサラゴサに向かった。二人は、ローラン憎しで意気投合する。そして、サラゴサ王マルシルにフランス軍を破る秘策を教える。フランス軍の強さはローランと親友のオリヴィエがいるからで、彼らを後衛に配置して集中的に攻撃すれば破ることができる。

 

 ガヌロンはサラゴサの鍵と大量の財宝、20人の人質を連れて帰り、和平が成立した。

 

マルシル王の追撃

 フランス軍は進軍ラッパを鳴らして引き上げを開始、ガヌロンの陰謀でローランたち12人の勇士と2万の軍勢が後衛に配備された。

 

 サラゴサ城内には3日で40万の軍勢が集まり、マルシル王は追撃を開始した。まず、サラセン12人衆10万の軍勢が迫ってきた。オリヴィエは未曾有の大軍を見て

「ローランよ、角笛(オリファン)を吹き給え。大帝の軍は返り来るべし」

と進言する。

しかし、ローランは「それは武門の恥!」と断り、手元の兵力で迎え討った。

 

 大僧正チュルパンは

「死せば殉教の聖となって、いとも尊き天国に御座を得ん」

と将士を祝福する。

フランス勢は、一斉に立ち上がる。ローランは駿馬ヴェイヤンチーフにまたがり、名刀デュランダルを手に敵勢に突っ込む。

 

 ローランと12人の騎士は、サラセン軍を次々と討ちとる。戦闘すさまじく敵味方入り乱れて戦い、フランス軍は10万の敵を打ち破った。その時、マルシル王が新たな軍勢を率いて打ちかかってきた。多勢に無勢、フランス軍の12勇士も次々と倒れ、残りは僅か60騎となった。

 

フランス軍の奮戦

 あまりの損害に、ローランは角笛を鳴らそうとする。今度はオリヴィエが「今頃吹くのは、それこそ恥」と制止した。大僧正は「吹いても手遅れ、さりとて吹かぬよりはまし」と諭した。

 

 ローランは角笛を吹く。その音色は30里離れた大帝の耳に届いた。馬首をめぐらさんとする大帝をガヌロンは制止する。大帝は怒りガヌロンを裏切り者として逮捕、ローラン救援に向かった。

 

 ローランは戦場にとって返し、奮然と打ち戦う。見ればかなたにマルシルあり、威風堂々、フランスの諸将を次々と討ち取っていく。ローランはマルシルに斬りつけたれば、その右の拳を切って落とす。続いてマルシルの息子ジュルファルーの首をも打ち落とす。マルシル軍は怖れをなして退却する。

 

 マルシル退却のあとに、その伯父マルガニスがエチオピア軍5万を率いて現れる。

「いよいよ殉教の時至る。敵に一泡吹かそうぞ!」

と叫んだローランは、敵陣に跳り入る。

マルガニスは、オリヴィエの背後から撃ちかかり胸を突き刺す。オリビエは、深傷を負いながらマルガニスの脳天を切り裂き、「今生後世の別れなるぞ!」と叫んで果てた。

 

ローランの最後   

 フランス勢はことごとく討ち死し、生き残れるは大僧正チュルパンとローラン、ゴーチエの3人のみ。3人は大軍の中に飛び込み、めったやたらと斬りまくる。サラセン勢は怖れをなし近寄る者なし。敵勢は遠くから投げ槍、銛(もり)、鏑矢(かぶらや)を射かける。集中攻撃でゴーチエが倒れ、チュルパンも、4本の槍を浴びる。

 

 ローランは、最後の力を振り絞って角笛を吹く。それに6万騎がラッパで応えた。サラセン軍は怖れをなし退却した。ローランは死を悟り、名剣デュランダルを敵に渡さないよう、岩にはっしと斬りつける。しかし、さすが名剣、刃こぼれ一しつしない。刃を折ることかなわず、ローランは息絶えた。

 

 大帝はロンスヴォーの戦場に到着、敵と味方の死骸累々と横たわり、足踏み入れる余地だになし。大声でローランやオリビエの名を叫べど返事なし。大帝は逃げまどうサラセン軍を見つけ追撃した。

 

大軍の激突         

 サラゴサに逃げ帰ったマルシルのもとに、エジプトのバリガン王の援軍が到着した。瀕死のマルシルは、イスパニア全土を差し出すから仇を討ってくれと懇願する。

 

 一夜明けて、大帝は戦場の累々たる死骸の中にローランと12人衆の遺体を発見する。その嘆きは深く、10万のフランス将士もみな地に臥して慟哭す。その時、バリガンの軍勢が現れる。大帝は愛刀ジョワユーズとビテルヌの盾を持ち、名馬タンサンドールにまたがった。フランスの10万騎も一斉に突撃する。

 

 敵味方の軍勢は雲霞のごとく、その隊伍は整いて美し。間をへだつるに、山なく、谷なく、陵もなく、森もなければ、林もなく、兵を伏するよすがなし。両軍、平原のまっただ中にて遭遇す。

 

 両軍入り乱れての激しい戦いが始まった。そして大帝とバリガン王との一騎打ちが始まり、激戦の末に打ち負かす。

 

ガヌロン処刑       

 ついに、アラビア勢は敗走、フランス軍は追撃してサラゴサを占領した。そして、異教の住民を改宗させたが王妃のみが改宗せず、捕虜としてフランスへ連れ帰った。

 

 フランスに帰った大帝は、ガヌロンを裁判にかける。ガヌロンは重臣で一族も多く、助命する意見が大勢を占めた。一人、チエリーが異議を唱え、ガヌロンを処刑すべきと主張した。チエリーはガヌロンの一族と決闘してこれを破り、裁きは確定。ガヌロンは八つ裂きに、その親族も全員処刑された。

 

 サラゴサの王妃はキリスト教に改宗し、ジュリアーヌと改名した。

2025/09/13

朱子学(5)

明治時代

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。

「学制」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、仁義忠孝を核とした方針に転換した。

 

1879年の「教学聖旨」、1882年「幼学綱要」に続き、1890年(明治23年)、山縣有朋内閣のもと、『教育勅語』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である元田永孚の助力があったことから、『教育勅語』には儒教朱子学の五倫の影響が見られる。

 

また、1882年(明治15年)に明治天皇から勅諭された『軍人勅諭』にも、儒教の影響が見られる。『軍人勅諭』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「軍人勅諭」は、後の1941年(昭和16)に発布された『戦陣訓』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた。

 

後世の評価

日本思想史研究者の丸山眞男は、徳川政権に適合した朱子学的思惟が解体していく過程に、日本の近代的思惟への道を見出した。但し、この見解には批判も寄せられており、少なくとも江戸時代の朱子学人口は徐々に増加する傾向にあり、儒学教育の基礎作りとしての朱子学の役割は変わらず大きかった。江戸時代には『四書』また『四書集注』、『近思録』といった朱子学関連の書籍は数多く出版されてよく読まれ、朱子学は江戸時代の基礎教養という役割を担っていた。

 

基本文献

『四書集注』

朱熹が『大学』『中庸』『孟子』『論語』の「四書」に対して制作した注釈書。『大学』『中庸』には「或問」が附されており、特に『大学或問』は朱子学のエッセンスを伝えるものとされる。

 

『近思録』

北宋四子の発言をテーマ別に抜粋したもの。朱熹・呂祖謙の共編。朱熹は、本書は四書を読む際の入門書であると言い、日本でも『十八史略』や『唐詩選』と並んでインテリの必読書として普及した。のちに宋の葉采・清の茅星来や江永らによって注釈が作られた。

 

『伊洛淵源録』

朱熹編。伊洛(二程子のこと)の学問の由来を明らかにするために、周敦頤・程顥・程頤・邵雍・張載やその弟子たちの事跡・墓誌銘・遺書・逸話などを集めた本。

 

『周子全書』

明の徐必達が周敦頤の著作を集めたもの。周敦頤の著作はほとんど残されていないが、『太極図』『太極図説』『通書』に対して朱熹が「解」をつけたものが残されており、これらが収録されている。

 

『河南程氏遺書』

朱熹が程顥・程頤の発言を整理したもの、加えて『程氏外書』もある。ほか、『明道先生文集』『伊川先生文集』『周易程氏伝』『経説』、そして楊時編『程氏粋言』もあり、これらをまとめて『二程全書』という。二程の発言は、どれがどちらのものか混乱が生じている場合があり、注意が必要である。

 

『周易本義』

朱熹による『易経』に対する注釈。易数に関する研究書の『易学啓蒙』もある(蔡元定との共著)。

 

『書集伝』

『書経』の注釈だが、朱熹の生前に完成せず、弟子の蔡沈によって完成した。

 

『詩集伝』

朱熹による『詩経』に対する注釈。

 

『儀礼経伝通解』

「礼」に関する体系的な編纂書で、朱熹の没後にも継続して編纂された。より具体的な冠婚葬祭の手順を明示する『家礼(文公家礼)』もある。

 

『五朝名臣言行録』

朱熹が、北宋の朝廷を担った名臣たちの言動を検証する歴史書。ほか、『三朝名臣言行録』『八朝名臣言行録』もある。

 

『資治通鑑綱目』

司馬光『資治通鑑』を朱熹が再検証した歴史書。

 

『西銘解』

張載の『西銘』に対して朱熹が注釈をつけたもの。

 

『朱子語類』

朱熹と、その門人が交わした座談の筆記集。門人別のノートが黎靖徳によって集大成され、テーマ別に再編成された。当時の俗語が多く見られ、言語資料としても価値が高い。

2025/09/08

ローランの歌(2)

主な登場人物

フランク王国側

    シャルルマーニュ - フランク王国の王、カール大帝。

    ローラン - 物語の主人公。シャルルマーニュの甥。フランク王国の辺境伯。十二勇将のひとり。愛剣はデュランダル。勇猛だが、騎士としての矜持が災いし、十二勇将を破滅へと導く。

    オリヴィエ - 十二勇将のひとり。ローランの親友。

    テュルパン - ランスの大司教

    ガヌロン - ローランの継父。フランク王国を裏切り、ローランを死に追いやる。結局、裏切りがばれて、彼自身も一族もろとも処刑された。

 

サラセン帝国側

    マルシル王 - イベリア半島を支配するイスラム王国の王。

    ブランカンドラン - ヴァルフォンドの城主。知謀優れた男で、マルシル王の信頼を受けている。

    バリガン - エジプト王、マルシルの味方

 

史実との比較

基本的に778年のロンスヴォーの戦いをめぐる歴史的事実を元にしているが、物語と歴史の事実が異なる部分もある。例えば、歴史上では戦う相手がバスク人とガスコーニュ人であったのに対し、詩の中ではイスラム教徒に変えられている。その他にも、多くの点で恣意的に歴史とは違えられたところがあるとされる。ただし、イスラム勢力である後ウマイヤ朝との争いは史実で、『ローランの歌』でもアブド・アッラフマーン1世の戦闘の勝利を賞賛している部分がある。

 

これは、11世紀という十字軍の時代に、イスラム教徒に対抗するキリスト教徒を勇気づける役割をこの歌が担っていたからであり、歴史的事実とは異なるとはいえ中世の騎士道精神を示す典型的な例になっていると考えられている。

 

11世紀後半までには、現代のローランの歌は出来上がっていた。しかし、伝説によってふくらまされた部分が大きくなって、歴史的な考察は殆ど姿を消していた。例えば、この戦いの時点でシャルルマーニュは36歳であるが、歌の中では白髭を垂らし終わりなき戦いに長けた人物とされている。

 

シャルルマーニュの伝記作者であるアインハルトは、シャルルマーニュの同時代の人物で伝記作者のみならず、顧問役としてシャルルマーニュの王子のルイ1世につかえた人物である。アインハルトは、スペイン遠征からフランスへの帰国の途に就いたシャルルマーニュ軍の後衛が、軽装備で有利な地点から襲ったバスク人のために殲滅の悲劇にあったことを伝え、戦死した将の一人としてブリタニア辺境伯(Brittannici limitis praefectus)フルオドランド(Hruodland)の名を挙げている。

 

史実では、そもそもシャルルマーニュがイベリア半島に赴いたのも、後ウマイヤ朝に抵抗するムスリム勢力への加勢であり、サラゴサを包囲はしても攻略することなく退却している。アインハルトの著作には、ロンスヴォー峠という名前ではなく、ただピレネー山脈の峠とのみ書かれている。さらに歴史的には十二人の勇将の名も、当然ガヌロンの名前も確認されていない。

 

フランク王国年代記(Annales regni Francorum)にも、シャルルマーニュの後衛部隊の虐殺やロンスヴォーという記述はなく、歌には登場するマルシル、バリガンという名前も出て来ない。改訂版には、バスクのゲリラ軍がシャルルマーニュの後衛軍ではなく、全軍と戦ったという記述がみられる。

 

また、十二勇士は常に同じ12名ではなく、いくつかの伝説によればシャルルマーニュの親友にして、最も信頼できる戦士であった。彼らのことをパラダンもしくはパラディン(Paladin)と呼ぶが、この名称はパラティーヌ(宮中伯)と同義で、イタリア語のパラティーノからの借用例であると思われる。

2025/09/07

朱子学(4)

朝鮮半島への影響

朱子学は13世紀には元に留学した安裕によって朝鮮半島に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は、今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。特に李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、朱子学が朝鮮人の間に根付いた。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした両班は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。

 

高麗の末期の白頤正、李斉賢、李、鄭夢周、鄭道伝らが安裕の跡を継承し、その後は權陽村らが崇儒抑仏に貢献した。李氏朝鮮時代に入ると、朝鮮朱子学はより一層発展した。その初期には、死六臣・生六臣や趙光祖など、特に実践の方向(政治・文章・通経明史)で展開し、徐々に形而上学的な根拠確立の問題追求に向かうようになった。

 

16世紀には李滉(李退渓)・李珥(李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学の議論が深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ、徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え、その思想は後に嶺南地方で受け継がれた。一方、李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え、その思想は京畿地方で受け継がれた。のち、権尚夏の門下の韓元震と李柬が「人物性同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争が交わされた。

 

朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。

 

琉球への影響

17世紀後半から18世紀にかけて活躍した詩人・儒学者の程順則は、琉球王朝時代の沖縄で最初に創設された学校である明倫堂創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て、日本にも影響を与えている。

 

沖縄学者伊波普猷は、朱子学の弊害について

「仮りに沖縄人に扇子の代りに日本刀を与え、朱子学の代りに陽明学を教えたとしたら、どうであったろう。幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。」

と述べている。

 

日本への影響

朱子学の日本伝来

土田 (2014)の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。

 

年代的に早いものとしては、臨済宗の栄西、律宗の俊芿、臨済宗の円爾などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる。

南北朝時代には、虎関師錬が禅宗の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の中巌円月も、道学に対する仏教の優位を述べる。また、義堂周信は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している。

 

室町時代の一条兼良の『尺素往来』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている。

博士家では、清原宣賢が道学を重視した。

 

ほか、北畠親房の『神皇正統記』や、楠木正成の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、土田 (2014, p. 44-48)は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・岐陽方秀とその門人を挙げる。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始まった。また、土佐では南村梅軒が出て海南学派が始まった。

 

江戸時代

江戸時代の朱子学の嚆矢として、藤原惺窩が挙げられる。室町時代まで、日本の朱子学は仏教の補助学という立ち位置にある場合が多かったが、彼は朱子学を仏教から独立させようとした。実際には、彼の思想は純粋な朱子学ではなく、陸九淵の思想や林兆恩の解釈を交えており、諸学派融合的な方向性を有している。

 

惺窩以来、京都に伝わった朱子学を「京学派」と呼び、その一人に木下順庵がいる。その門下からは新井白石、室鳩巣、祇園南海、雨森芳洲らが出た。詩文の応酬が多く見られるのが京学派の特徴で、思想家として自己主張を行うというよりも、自身の教養の中核に朱子学があり、文芸活動が盛んであった。

 

また、山崎闇斎から朱子学の純粋な理解を目指す学風が始まった。彼は仏教に対する儒教の特質を「三綱」と「五常」に見て、社会的倫理規範を重視した。闇斎の学派は「崎門」と呼ばれ、浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎らが出たが、闇斎が後に神道に傾斜したことによって主要な門弟と齟齬が生じ、多くは破門された。ただ、厳格さを特徴とするこの学派は驚異的な持続性を見せ、明治まで継続した。

 

幕府に仕えた朱子学者である林羅山は、将軍への進講、和文注釈書の作成、学者の育成など、朱子学を軸にした啓蒙活動を積極的に行った。林羅山の子の林鵞峰も同じく啓蒙的活動に力を入れ、儒家の家元としての林家の確立に尽力した。

 

当初は朱子学を信奉したが、後に転向し反朱子学の主張を取るようになった学者として伊藤仁斎がいる。仁斎は朱子学・陽明学・仏教を受容したうえで、それらを否定し日常道徳が独立して成立する根拠を究明した。そして、仁斎学と朱子学をまとめて批判することで、自分の立場を鮮明にしたのが荻生徂徠である。徂徠は、朱熹『論語集注』と仁斎『論語古義』を批判しながら、自己の主張を展開し、『論語徴』を著した。

 

山崎闇斎らの朱子学の純粋化を求める思想と、伊藤仁斎らの反朱子学的思想の形成はほぼ同時期である。土田 (2014, pp. 96–97)は、朱子学があったからこそ思想表現が可能になった反朱子学が登場したのであり、朱子学と反朱子学の議論の土台が形成されたことが、江戸時代の思想形成に大きな影響を与えたと述べている。たとえば、反朱子学を主張した伊藤仁斎は、自分の主張を理論化する際には朱子学の問題意識と思想用語を利用し、朱子学との対比から自分の思想を確立した。

 

松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発したが、この時期は多くの藩で藩校を立ち上げる時期に当たり、各地で幕府に倣って朱子学を採用する傾向を促進した。この頃の学者としては、尾藤二洲・古賀精里・柴野栗山ら「寛政の三博士」のほか、林述斎・頼春水・菅茶山・西山拙斎らがいる。二洲や拙斎を含め、この時期には徂徠学から朱子学に逆に転向してくる学者が多かった。

2025/09/01

ローランの歌(1)

『ローランの歌』(または『ロランの歌』、仏: La Chanson de Roland)は、11世紀成立の古フランス語叙事詩(武勲詩)である。

 

概要

『ローランの歌』は、シャルルマーニュの甥であるローランを称える、約4000行の韻文十音綴から成る叙事詩である。ノルマンディ地方で用いられたアングロ=ノルマン方言の、古フランス語を用いて書かれている。レコンキスタの初期の戦いともいえる、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国の戦い(ロンスヴォーの戦い)を描いた物語である。

 

成立年は諸説があるが、11世紀末ごろとされている。現存する最も古いものは、1170年ごろに書かれたオクスフォード写本である。写本は、オクスフォード本以外にも14世紀ごろのフランコ・プロヴァンサル語のヴェニス本、12世紀前半のドイツ語のコンラッド本など、複数のものが存在している。一定でない長さのスタンザ(節)で書かれ、類韻と呼ばれる、母音だけの押韻でつながれている。この技巧的な表現を、他言語で効果的に再現するのは不可能で、現代の英語訳の翻訳者も、ほぼ一番近いと思える同義語を当てはめている。

 

もともとは、ローランを支持するブリトン人が歌っていたといわれているが、その後メーヌに、アンジューに、ノルマンディーに広まり、国家規模で歌われるようになって行った。『シャンソン・ド・ジェスト』のように、フランスの偉大なる英雄をたたえる詩としては最初のもので、愛国歌の先駆的存在ともいえる。

 

作者について

『ローランの歌』は初め、ロンスヴォーの戦いの直後に、ゲルマン民族の中から自然発生的に作られていったと思われていた。19世紀後半には、ガストン・パリスが、そうやってできていった歌謡が数世紀を経て受け継がれ、11世紀頃に現在の形になったのではないかという説を発表している。

 

それに対し、ジョゼフ・ベディエは、アーサー王伝説などと同様に英雄の墓や、ローランの角笛だと伝えられている笛、ローランが愛剣デュランダルを叩き付けたといわれる岩などの、地域伝承を元に、11世紀になってテュロルドというフランスの詩人が一人で作り上げた物だという説を発表した。この発表は学会に大きな反響をもたらしたが、後にパリスたちのいう歌謡に関する資料が発見されたり、歴史家たちから批判が出たりしている。

 

テュロルド説に関して言えば、一番古い手書本は12世紀前半のものといわれる。これはオックスフォード大学に所蔵されており、「テュロルデュス(テュロルド)撰ぜし武勲の書、ここに終わる」とあって、末尾に撰者の署名もある。これに従えば、かつてのラテン語の記録を聖職者たちがまとめ、伝承にならって作ったものと考えられる。

 

あらすじ

ローランの死

シャルルマーニュには、十二勇士(パラディン)と呼ばれる武勇に秀でた臣下がいた。その1人ローランは、彼が特に目をかけている甥だった。この時代、サラセン帝国の支配下にあったイベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻すべく、シャルルマーニュと十二勇士はイベリア半島に遠征しイスパニアで戦っていた。敗色が濃くなると、サラゴサのサラセン人王マルシル(マルシリウス、マールシーリョ)は、シャルルマーニュと停戦交渉するための使者を派遣し、シャルルマーニュがフランク王国へ帰りアーヘンに戻るならば、マルシル王も共に行き、キリスト教徒に改宗するだろう、そしてまた多くの贈り物を贈ると共に人質を差し出すだろう、と告げた。

 

サラセン人の降伏を受ける否かで会議はもめた。ローランは、以前にフランク王国から送った二人の使者が殺されていることをあげ、彼らのことは信用できないと意見するが、ガヌロンは好条件だから和睦を受けるべきだと主張した。迷いながらもシャルルマーニュは、降伏を受け入れることに決めるが、そこで新たに返信の使者を誰にするかが問題になった。

 

ネーム、ローラン、オリヴィエ、テュルパンらの4人は自ら行くと進み出る。ところがシャルルマーニュは、彼らに別の誰かを推薦しろと命じる。そこでローランは、智謀に長けた自分の継父であるガヌロンを推す。それを知ったガヌロンは、殺されるかもしれない使者に推されたことで動揺して、ローランの心を疑う。自分が死んだ場合、彼が亡きあとの領地を乗っ取るのではないかと疑心暗鬼に駆られ、ついには激怒しローランへの復讐を誓う。

 

使者としてガヌロンを迎えたのは、サラセンの勇将ブランカンドランだった。彼らはマルシル王のところへ向かう途中で意気投合し、やがてローランを殺す計略を立てた。それは一旦敗北を受け入れた事にして、シャルルマーニュが帰国するところを狙い、その背後からだまし討ちにしようという作戦だった。ガヌロンはマルシル王に、ローランを殺すことが王の今後を安泰にするだろうと話して計略を整えた。そうしてマルシル王から多くの貢ぎ物と人質を受け取ると、ガヌロンは何食わぬ顔でシャルルマーニュの元へと帰った。

 

シャルルマーニュは、ガヌロンからのマルシル王の返事を受けて、フランク王国へ帰ること決めた。そこで、殿軍を誰に任せるかと臣下を集めて相談すると、ガヌロンはかねての計画通りローランを推薦した。何も知らないローランは勇んでその任を受けてしまうが、十二勇将はこぞってローランと運命を共にすることを選んだので、二万人がローランと共に殿軍として残ることになった。残されたローランたちは、その後、サラセン人の大軍が近づいていることに気付いた。そのあまりの人数にオリヴィエは、ローランに角笛を吹いて援軍を呼ぶように求めるが、ローランは虚栄心からそれを断ってしまう。

 

ローランたちの軍は、攻め込むサラセン軍を次々と討ちと取るものの、次から次に襲いかかる新たなマルシル王の軍勢に対して多勢に無勢となって苦しみ、ついに残り60騎となってしまった。十二勇将も次々と倒れてローランも窮地に陥り、しかたなく角笛を吹かざるをえなくなった。計略が露見しそうになり、ガヌロンは場を取り繕おうと試みるが、シャルルマーニュはその行動から彼の裏切りに気づき、ガヌロンを拘束するように命じると、すぐに自ら戦場へと向かった。

 

ローランは再び戦闘に戻る。彼は、マルシル王がフランク王国の勇士たちを討ち取る様を見て奮起し、王に斬りつけて彼の右の拳を切り落とし、さらにマルシル王の王子ジュルファルーの首も打ち取った。ローランの奮戦ぶりに怖れをなしたサラセン軍は退却する。その後、エチオピア軍の軍勢5万人がやって来る。この戦いでローランは親友オリヴィエを失う。彼は敵に致命傷を与えたが負傷してしまい、最期に彼の妹、ローランの婚約者でもあるオードのことを心配して、ローランによろしく頼むと言って果ててしまう。

 

近づく自らの死を悟ったローランは、最期にローランの裂け目の場所で聖剣デュランダルを岩にたたきつけて粉砕しようとしたが、剣は折れずに岩が真っ二つに裂けてしまった。やっとシャルルマーニュの軍勢がサラセン人たちをなぎ倒して、ついに「モンジョワ!」の勝ちどきが上がった。その時すでに遅く、ローランは大奮闘の末にその生涯を閉じていた。

 

その後、裏切り者ガヌロンは裁判にかけられ、助命嘆願もあったものの結局は八つ裂きの刑となり、彼の親族もまた処刑された。

2025/08/30

朱子学(3)

古典注釈学・著述

『四書集注』

朱熹やその弟子たちは、経書に注釈を附す、または経書そのものを整理するという方法によって学問研究を進め、自分の意見を表明した。特に、『礼記』の中の一篇であった「大学」「中庸」を独自の経典として取り出したのは朱熹に始まる。更に、朱熹は『大学』のテキストを大幅に改定して「経」一章と「伝」十章に整理し、脱落を埋めるために自らの言葉で「伝」を補うこともあった。

 

宋学においては、孔子の継承者として孟子が非常に重視され、従来は諸子百家の書であった『孟子』が、経書の一つとしての位置づけを得ることになった。『大学』『中庸』『孟子』に『論語』を加えた四種の経書が「四書」と総称され、朱熹はその注釈書として『四書集注』を制作した。これにより、古典学の中心が五経から四書へと移行した。

 

具体的な政策論

朱熹の思想は、同時代の諸派の中では急進的な革新思想であり、その批判の対象は高級官僚や皇帝にも及んだ。朱熹の現実政治への提言は非常に多く、上奏文が数多く残されている。朱熹は、理想の帝王としての古の聖王の威光を借りる形で、現実の皇帝を叱咤激励した。また、朱熹は地方官として熱心に仕事に当たったことでも知られ、飢饉の救済や税の軽減、社倉法といった社会施設の創設なども行っている。

 

朱熹の説を信奉し、慶元党禁の後の朱子学の再興に力を尽くした真徳秀は、数々の役職を歴任し、数十万言の上奏を行うなど、積極的に政治に参加している。

 

その後の展開

元代

朱子学は元代に入るころには南方では学問の主流となり、許衡・劉因によって北方にも広まった。これに呉澄を加えた三人は、元の三大儒と呼ばれる。許衡の学は真徳秀から引き継がれた熊禾の全体大用思想を受け、知識思索の面よりも精神涵養を重視した。呉澄は朱子学を説きながらも陸学を称賛し、朱陸同異論の端緒を開いた。

 

延祐元年(1314)、元朝が中断していた科挙を再開した際、学科として「四書」を立て、その注釈として朱熹の『四書集注』が用いられた。つまり、科挙が準拠する経書解釈として朱子学が国家に認定されたのであり、これによって朱子学は国家教学として、その姿を変えることになった。

 

明代

明代の初期、朱子学者である宋濂が朱元璋のもとで礼学制度の裁定に携わったほか、王子充が『元史』編纂の統括に当たった。国家教学となった朱子学は変わらず科挙に採用され、国家的な注釈として朱子学に基づいて『四書大全』『五経大全』『性理大全』が制作された。

 

明代の朱子学思想の発達の端緒に挙げられるのは、薛瑄・呉与弼である。ともに呉澄と似た傾向を有し、朱子学の博学致知の面はやや希薄になり、精神涵養の面が強調された。特に呉与弼の門下には陳献章が出て、陸象山の心学と共通する思想を強調し陽明学の先駆的役割を果たしたため、呉与弼は「明学の祖」とも呼ばれる。

 

薛瑄は純粋な朱子学の信奉者で、理気二元論を深く理解していた。同じく胡居仁も朱子学を信奉し、特に仏教・道教などの異端を批判する議論を積極的に展開した。陽明学の勃興と時を同じくした朱子学者が羅欽順であり、彼は陽明学を激しく批判し、その良知説や格物説、王陽明の「朱子晩年定論」などに異論を唱えた。

 

明末には、東林党が活動し、体得自認と気節清議に務め、国内外の多難に対して清議を唱えて節義を全うした。

 

清代

清代に入ると、朱子学・陽明学から転換し、考証学と呼ばれる経書に対するテキスト考証の研究が盛んになった。この原因については、明末に朱子学・陽明学が空虚な議論に終始したことに対する全面的な反発と見る説が一般的で、そこに文字の獄に代表される清朝の知識人弾圧が加わり、研究者の関心が訓詁考証の学に向かわざるを得なかったとされる。

 

一方、中国思想研究者の余英時は、考証学は朱子学・陽明学に対する反発と見る説と、朱子学・陽明学の影響が考証学にも及んでいると見る説があることを述べた上で、宋以後の儒学は当初から尊徳性・道問学の両方向を不可分に持っていたのであり、考証学は宋学の反対物ではなく、宋学が考証学に発展しうる内在的要因があったことと説明する。

 

京都工芸繊維大学名誉教授の衣川強は、理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで、儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が、朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している。

 

清代の朱子学者として、湯斌・李光地・呂留良・張履祥・張伯行・陸隴其・魏象枢のほか、桐城派の方苞・方東樹ら、清末湖南の唐鑑・賀長齢・羅沢南・曽国藩らがいる。

2025/08/27

カール大帝(シャルルマーニュ)(7)

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概要

カール大帝とは、中世フランク王国の国王。後にローマ教皇の認定によりローマ皇帝として戴冠したので、ローマ皇帝、あるいは西ローマ帝国の皇帝とも呼ばれる。初代神聖ローマ皇帝として数えられることもある。カロリング朝フランク王国ピピン3世の子。

 

カール「大帝」というのは、シャルルマーニュ(: Charlemagne)のドイツ語読み「カール・デア・グローセ(Karl der Große)」を意訳した表記。直訳すると「偉大なるカール」または「偉大王カール」となる。

 

他にカルロ・マーニョ(: Carlo Magno)、カロルス・マグヌス(: Carolus Magnus)、チャールズ・ザ・グレート(: Charles the Great)など。どの国でも、名を表すカールに相当する語の後に、その偉大さを讃える二つ名が続いている。

 

現在の西ヨーロッパと呼ばれる地域のほぼ全てを制圧し、「ヨーロッパの父」と呼ばれる。

 

カール大帝の築いた西フランク王国(フランス)と東フランク王国(ドイツ)の後裔国家において自分たちの建国者、国家的英雄と捉えられており、フランス語読みのシャルル大帝、ドイツ語読みのカール大帝で呼ばれることが多い。

 

主な経歴

カールがフランク王となった当時の西欧は、様々な外敵に脅かされ混乱していた。スペインはイスラム教徒の支配が続き、しばしば現代でいうフランスにまで侵入している。これに対してカールの祖父カール・マルテルは、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を撃退したこともある。また東からはザクセン人、アヴァール人などがそれぞれ現代でいうドイツ、ハンガリーに侵入してきている。イタリアでは、東ローマ帝国の弱体化に伴ってランゴバルド族が各地を征服し、ローマを包囲するなどしてローマ教皇を脅かした。

 

このような情勢の下、カールは長年の遠征で西はスペインの一部、東はドイツに至るまで領土を広げた。イタリアでは773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世がカトリック教会の権威復興と保護を求め、カールに援軍を要請した。カールの父王ピピン3世も、教皇ザカリアスによってフランス王となる大義名分を与えられ、メロヴィング朝を倒して自らのカロリング朝を樹立し、「ピピンの寄進」を行って教会を保護した。

 

このような経緯から、カールも父王に倣ってカトリック教会を自分の統治に利用する。かくして774年にランゴバルド王国を滅亡させ、ローマ教皇の保護者となる。西方では778年にイスラム教徒の内紛に乗じてスペインに遠征する。これにはロンスヴォーの戦いで敗れ、後世に脚色されて『ローランの歌』という叙事詩の素材となる。だが795年にはピレネー山脈の南側にスペイン辺境伯領を設置することに成功する。

 

801年には、バルセロナまでフランク王国は拡大した。東方では791年にアヴァール族を討ち、804年にザクセン族を服属させるなど、ドイツ東部にまで領土を広げる。これらは、西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの秩序を回復する偉業であり、後の西欧社会の原型がここに出来上がった。

 

カトリック教会は彼の功績に対してローマ皇帝の称号を与え、全キリスト教信者の庇護者と顕彰した。この事件は、のちのち歴代の皇帝と教皇が互いに相手を利用し合い、権力闘争を繰り返すことにも繋がった。一方で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はカールの戴冠を認めず、彼をフランク皇帝と呼んでローマ皇帝とは認めなかった。カール自身も東ローマに配慮して、自らローマ皇帝を名乗ることは避けたと言われる。

 

カールの後継者

カールは自らの死に際し、王国を3つに分割して子供(それぞれカール若王、ピピン、ルートヴィヒ)に相続させた(しかしカール若王とピピンは直後に相次いで亡くなった為、結果的には末っ子のルートヴィヒが単独相続する事となった)。

 

やがて「敬虔帝ルートヴィヒ1世」として、カール大帝の後を継いだルートヴィヒも840年に亡くなり、その際にも彼の3人の息子に分割相続され、かくして広大なフランク王国はそれぞれ西フランク王国、東フランク王国、中フランク王国の3つに分裂した。以降は、相続領や皇帝位を巡る息子達の間での争いや、再統一・再分裂を繰り返すなど不安定な情勢が続いたが、これらはそれぞれ後のフランス王国、神聖ローマ帝国(後にネーデルラント、オーストリア、プロイセン、スイスなどが分かれる)、イタリア諸国を形成した。

このようにカールの築いた王国は、ヨーロッパの様々な国に分かれていったのである。

 

取り分けフランスは、カール大帝をフランスの英雄と位置づけ、シャルルとフランス語読みで呼び、神聖ローマ帝国に対抗しようとした(また敬虔帝ルートヴィヒ1世の仏語読みである「ルイ」の名も、後の歴代フランス国王に引き継がれていった)。

 

対する神聖ローマ帝国は、自らこそフランク王国の後裔国家と位置づけ、ヨーロッパ全土の支配者として振る舞おうとした。

フランスとドイツの対立は、ヨーロッパ史にたびたび戦火を招いた。

カールの築いた平和が、カールの栄光を奪い合う骨肉の争いに結びついたのは、皮肉と言わざるを得ない。

 

カロリング・ルネサンス

カールは、フランク王国をキリスト教帝国にしたいと考えていた。

すなわち統治の安定には、国民に宗教を浸透させ、教会にも優秀な人材を育てさせることだと考えた。

アーヘン大聖堂は、カールの文化振興のシンボルとして世界遺産となった。

 

人物

学者兼伝記作者のアインハルトによると、容姿は小太りの長身(195cm)で髪はふさふさとした銀髪、少し甲高い声であった。

馬術・狩猟・水泳が得意で、特に水泳は宮廷に温泉プールを作るほどに熱中したらしく、一族部下がおよそ100人ほど集まることもあったが、それでも誰も彼に勝てなかったという。

 

また文字の読み書きは出来なかった。ただしラテン語やギリシャ語を習い、前者は自由に会話できていたとのこと。読書、というより聴書も好み神学者アウグスティヌスの著作『神の国』が、特にお気に入りだったらしい。

 

五度の結婚の末、20人位の子供に恵まれている。大変な子煩悩で、娘達を溺愛するあまり他国へ嫁がせる事を許さなかったという。

(そこから後世において、娘達との近親相姦説が語り継がれている)

2025/08/26

朱子学(2)

内容

島田虔次は、朱子学の内容を大きく以下の五つに区分している。

 

    存在論 - 「理気」の説(理気二元論)

    倫理学・人間学 - 「性即理」の説

    方法論 - 「居敬・窮理」の説

    古典注釈学・著述 - 『四書集注』『詩集伝』といった経書注釈、また歴史書『資治通鑑綱目』や『文公家礼』など

    具体的な政策論 - 科挙に対する意見、社倉法、勧農文など

 

理気説

朱子学では、おおよそ存在するものは全て「気」から構成されており、一気・陰陽・五行の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される。

 

この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる。

 

天下の物、すなわち必ずおのおの然る所以の故と、其の当(まさ)に然るべきの則と有り、これいわゆる理なり。

朱子、『大学或問』

「理」は、あるべきようにあらしめる「当然の則」と、その根拠を表す「然る所以の故」を持っている。理と気の関係について、朱熹はどちらが先とも言えぬとし、両者はともに存在するものであるとする。

 

性即理

朱子学において最も重点があるのが、倫理学・人間学であり、「性即理」はその基礎である。「性」がすなわち「理」に他ならず、人間の性が本来的には天理に従う「善」なるものである(性善説)という考え方である。

 

島田虔次は、性と理に関する諸概念を、以下のように整理している。

 

- - 形而上 - - 未発 - - -

- - 形而下 - - 已発 - - -

 

「性」は、仁・義・礼・智・信の五常であるが、これは喜怒哀楽の「情」が発動する前の未発の状態である。これは気質の干渉を受けない純粋至善のものであり、ここに道徳の根拠が置かれるのである。一方、「情」は必ず悪いものというわけではないが、気質の干渉を受けた動的状態であり、中正を失い悪に流れる傾向をもつ。ここで、人欲(気質の性)に流れず、天理(本然の性)に従い、過不及のない「中」の状態を維持することを目標とする。

 

性即理(せいそくり)は、「性」(人間の持って生まれた本性)がすなわち「天理」であるとする説。宋明理学の命題の一つ。中国北宋の程頤(伊川)によって提言され、南宋の朱熹に継承された、朱子学の重要なテーゼである。

 

朱熹は存在論として、理気二元論を主張する。「理」とは天地万物を主宰する法則性であり、「気」とは万物を構成する要素である。理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は理法であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。

 

そして、このような存在論的な「理」は人間の倫理道徳にも貫かれている。「理」は「性」である。この場合「性」は孟子の性善説に基づき善とされる。人間の本来性(理)は善であるが、現実の存在(気)においては善を行ったり、悪を行ったりする。そこで儒者は「居敬」や静坐を行ったり、「格物」や読書によって、その本来性(理)に立ち戻り、「理」を体得しなければならない。朱子学では「聖人学んで至るべし」と学問の究極的な目標は「理」を体得し「聖人」となることとされた。

 

居敬・窮理

朱子学における学問の方法とは、聖人になるための方法、つまり天理を存し、人欲を排するための方法に等しい。その方法の一つは「居敬」また「尊徳性」つまり徳性を尊ぶこと、もう一つは「窮理(格物致知)」、また「道問学」つまり知的な学問研究を進めることである。

 

朱熹が儒教の修養法として「居敬・窮理」を重視するのは、程顥の以下の言葉に導かれたものである。

 

涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り。

程顥、『程氏遺書』第十八

 

ここから、朱熹は経書の文脈から居敬・窮理の二者を抽出し、儒教的修養法を整理した。三浦國雄は、この二者の関係は智顗『天台小止観』による「止」と「観」の樹立の関係に相似し、仏教の修養法との共通点が見られる。

 

「居敬」とは、意識の高度な集中を目指す存心の法のこと。但し、静坐や坐禅のように特定の身体姿勢に拘束されるものではなく、むしろ動・静の場の両方において行われる修養法である。また、道教における養生法とは異なり、病の治癒や長生は目的ではなく、あくまで心の修養を目的としたものであった。

 

日常のいかなる時であっても、意識を集中させ心を安静の状態(敬)に置くこと。

 

宋代の儒教では、心の修養に仏教や道教に依らない独自のものを模索していた。その一つに「敬」があり、朱熹(朱子)の先駆者であった程頤は、儒家経典である『論語』憲問篇の

「己を修めるに敬を以てす」

や『易経』坤卦文言伝の

「君子は敬もって内を直し、義もって外を方す。敬義、立ちて徳、孤ならず」

の「敬」を「主一無適」(意識を一つに集中させて、あちこち行かない)と定義し「持敬」という修養法を唱えた。朱熹はこれを継承して「敬」を重視し、「窮理」のための一つの方法とし、著書『敬斎箴』で、その実践法を説いた。

 

その後、朱子学では「居敬」と「静坐」とが修養法として行われ、「居敬」は特に重要視された。

 

「窮理」とは、理を窮めること、『大学』でいう「格物致知」のことで、事物の理をその究極のところまで極め至ろうとすることを指す。以下は、朱熹が「格物致知」を解説した一段である。

 

いわゆる「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り」とは、吾の知を致さんと欲すれば、物に即きて其の理を窮むるに在るを言う。蓋し人心の霊なる、知有らざるはなく、而して天下の物、理有らざるは莫(な)し。惟だ理に於いて未だ窮めざる有るが故に、其の知も尽くさざる有り。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知れるの理に因りて益ます之を窮め、以て其の極に至るを求めざること莫からしむ。

朱熹、『大学』第五章・注、島田1967ap.76

 

朱熹のこの説は、もともと程顥の影響を受けたものであり、朱熹注の『大学』に附された「格物補伝」に詳しく記されている。

 

儒教的世界観の中で全てを説明する朱子学は仏教と対立し、やがて中国から仏教的色彩を帯びたものの一掃を試みていくこととなる。

2025/08/19

カール大帝(シャルルマーニュ)(6)

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概要

数々の戦争によって、イギリスを除く現在のEUに当たる地域のほとんどを支配したカロリング朝フランク王国の王である。

 

彼の征服によって、ギリシャ・ローマ文化が当時ガリアやゲルマンと呼ばれていた現在の西欧に当たる地域に広まることになり、今のヨーロッパの礎となった。

 

トランプのハートのキングのモチーフと言われている人物。

 

即位まで

カール大帝の産まれたカロリング家は、8世紀に中ピピンやその息子カール・マルテル(カール大帝の祖父にあたる)を輩出するなど、元々名門であった。カールマルテルの子、小ピピン(ピピン三世、カール大帝の父)はフランク王国のメロヴィング朝から王位を簒奪し、カロリング朝が始まっている。

 

カール大帝の幼少期のことは史料が少なく、一説には出生に関して何らかの不義があったとも言われるが、詳細は分からない。小ピピンが没すると、フランク王国はカールと弟によって分割された(当時の社会では、土地は一子相伝のものではなかった)。カールは、アウストラシアの中央やネウストリアの沿岸などを。弟のカールマンはブルゴーニュなどを相続したが、弟が継承から三年後に死んだためカールはフランク王国の単独王となった。

 

征服

カール大帝の軍団の要になったのは騎馬兵団である。モンゴル兵しかり源義経しかり、近代戦争が始まるまで、騎馬兵団を上手く運用できた軍隊は強い。カール・マルテルの代に起こったvsイスラームのトゥール・ポワティエ間の戦いで、騎馬兵団の強さを肌で知っていたカロリング朝は騎馬兵団を起用し、カールもその軍団を受け継いでいた。即位から以後47年間、カールはこの騎馬軍団を用いて、ほぼ毎年のように遠征に明け暮れた。

 

カール大帝の最初の本格的な侵略先は、イタリア半島の中央に位置するランゴバルド王国であった。そのきっかけは、ランゴバルド王国が教皇領を不法占拠し、時の教皇ハドリアヌス一世がカールに救援を求めたことにあった。773年、カールはアルプスをこえて、ランゴバルド王国の首都パヴィアを包囲した。ランゴバルド王のデシデリウスは虜にされ、息子のアデルキスはコンスタンティノープルに亡命した。

 

続けて、カールはザクセン人の討伐にとりかかった。以後、カールは30年にわたってザクセン遠征をくり返し、時に見せしめに大量虐殺も行ったが、宗教も政治システムも異質なザクセン世界で上手くいかず、785年にザクセン王ヴィドギンドを屈服させた後も、その統治には苦戦させられていた。最終的にザクセン人をフランク王国内に強制分散移住させることによって、反乱を収束させた。

 

778年には、イスラーム系のコルドバ君主国を支配下におさめるためにイベリア半島(現在のスペインのある半島)に大軍を送るも、サラゴーサ城の提督アルフセインに徹底抗戦され、撤退を余儀なくされている。この帰途の途中で軍はバスク人の襲撃に会い、殿(しんがり)のブルターニュ伯ローランが戦死する。この出来事は、10世紀に『ローランの歌』として欧州文学史に名前を残すことになった。

 

失敗に終わったカールのヒスパニア遠征であったが、カールはバルセロナを中心としたヒスパニア辺境領を創設し、イスラーム勢力との戦いで離散した地域へ植民する政策をとっている。

 

787年には、カールはバイエルンにも侵攻している。バイエルン大公のタシロ三世はカールに恭順したが、翌年には忠誠違反の嫌疑を受けて修道院へ幽閉されてしまった。タシロのアギロルフィング家は6世紀から名を残す名門であったが、その威勢は失してしまった。

 

788年からは、モンゴル系遊牧民族のアヴァール人との戦いが始まっていた。北イタリアでの戦いをきっかけに、791年にはカールの方からアヴァール領への侵攻を開始する。フン族には及ばないまでも、かつて強大であったアヴァール軍団であったが、カールの時代には既に弱体化しており、大した反撃もないままカールは大勝利をおさめて多くの戦果を得た。

 

また、カール大帝は戦争だけでなく文化振興政策も進め、フランク王国はカールの治世下でカロリング・ルネサンスが発生した。

 

戴冠と死

西暦800年、カール大帝はローマの聖ペテロ大聖堂にて、教皇レオ三世から西ローマ皇帝の戴冠を受ける。むろんこれは476年に滅んだ西ローマ帝国の復活を意味しないが、それでもカール戴冠は国際政治的にも意義の大きいものであった。

 

東ローマ(ビザンツ)皇帝ニケフォロス一世はカールの皇帝号を認めず、806年にヴェネツィアを巡りフランク王国と武力衝突する。フランクは陸上では勝利したものの海では敗北を喫し、812年にミカエル一世の使節が訪れて和議が結ばれた。しかし、それでもなおビザンツはカールを皇帝として認めることはなかった。

 

814年、カール大帝はアーヘン宮廷で死去。享年72歳。遺体は葬儀を経ることもなく、その日のうちにアーヘンの宮廷内に埋葬されるというスピード葬送であった。約200年後に発掘されたカールの遺骸は玉座に座ったままであり、装飾品は首にあったペンダント一つだけであったという。

 

カールの死後、フランク王国はルイ敬虔王を経て、カールの孫によって3つに分割される。その3つの国はカールのカロリング朝は断絶したものの後のフランス、イタリア、ドイツの元となった。その意味で、やはりカール大帝はヨーロッパの礎となった人物であると言える。

2025/08/18

朱子学(1)

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。

 

北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

 

成立の背景

唐・宋の時代に入り、徐々に士大夫層が社会に進出した。彼らは科挙を通過するべく儒教経典の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった。そのような状況下で、仏教・道教への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた。

 

宋学・朱子学の先蹤

唐の韓愈は、新興の士大夫層の理想主義を体現した早期の例で、宋学の源流の一つである。彼の『原道』には、仁・義・道・徳の重視、文明主義・文化主義の立場、仏教・道教の批判、道統の継承など、宋学・朱子学と共通する思想が既に現れている。また、韓愈の弟子の李翺の『復性書』も、『易経』と『中庸』に立脚したもので、宋学に似た内容を備えている。

 

北宋の儒学者

宋学の最初の大師は周敦頤であり、彼は『太極図』『太極図説』を著し、万物の生成を『易経』や陰陽五行思想に基づいて解説した。これは、朱熹の「理」の理論の形成に大きな影響を与えた。更に彼の『通書』には、宋学全体のモチーフとなる「聖人学んで至るべし」(聖人は学ぶことによってなりうる)の原型が提示されている。学習によって聖人に到達可能であるとする考え方は『孟子』を引き継いだものであり、自分が身を修めて聖人に近づくということだけでなく、他者を聖人に導くという方向性を含んでいた。これも後に程頤・朱熹に継承される。

 

同じく朱熹に大きな影響を与えた学者として、「二程子」と称される程顥・程頤兄弟が挙げられる。程顥は、万物一体の仁・良知良能の思想を説き、やや後世の陽明学的な面も見られる。一方、程頤は、仁と愛の関係の再定義を通して、体と用の峻別を説き、「性即理」を主張するなど、朱熹に決定的な影響を与える学説を唱えた。更に、程頤は学問の重要な方法として「窮理(理の知的な追求)」と「居敬(専一集中の状態に維持すること)」を説いており、これも後に朱子学の大きな柱となった。

 

また、「気の哲学」を説いた張載も朱熹に大きな影響を与えた。彼は「太虚」たる宇宙は、気の自己運動から生ずるものであり、そして気が調和を保ったところに「道」が現れると考えた。かつて、唯物史観が主流の時代には、中国の学界では程顥・朱熹の「性即理」を客観唯心論、陸象山・王陽明の「心即理」を主観唯心論、張載と後に彼の思想を継承した王夫之の「気」の哲学を唯物論とし、張載の思想は高く評価された。

 

朱熹の登場

北宋に端を発した道学は、南宋の頃には士大夫の間にすでに相当の信奉者を得ていた。ここで朱熹が現れ、彼らの学問に首尾一貫した体系を与え、いわゆる「朱子学」が完成された。朱熹の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった。

 

朱子学を完成させた朱熹は、建炎4年(1130年)に南剣州尤渓県の山間地帯で生まれた。「朱子」というのは尊称。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後各地を転々とした。朱熹は、乾道6年(1170年)に張栻・呂祖謙とともに「知言疑義」を著し、当時の道学の中心的存在であった湖南学に対して疑義を表明すると、「東南の三賢」として尊ばれ、南宋の思想界で勢力を広げた。しかし、張栻・呂祖謙が死去すると、徐々に朱熹を思想面において批判する者が現れた。その一人は陳亮であり、夏殷周三代・漢代の統治をどのように理解するかという問題をめぐって「義利・王覇論争」が展開された。

 

また、朱熹の論争相手として著名なのが陸九淵であり、淳熙2年(1175年)に呂祖謙の仲介によって両者が対面して行われた学術討論会(鵝湖の会)では、「心即理」の立場の陸九淵と、「性即理」の立場の朱熹が論争を繰り広げた。両者は、その後もたびたび討論を行ったが、両者は政治的に近い立場にいた時期もあり、陸氏の葬儀に朱熹が門人を率いて訪れるなど、必ずしも対立していたわけではない。

 

朱熹は、最後には侍講となって寧宗の指導に当たったが、韓侂冑に憎まれわずか45日で免職となった。韓侂冑の一派は、朱子など道学者に対する迫害を続け、慶元元年(1195年)には慶元党禁を起こし朱熹ら道学一派を追放、著書を発禁処分とした。朱熹の死後、理宗の時期になると、一転して朱熹は孔子廟に従祀されることとなり、国家的な尊敬の対象となった。

2025/08/12

カール大帝(シャルルマーニュ)(5)

学説

カール大帝の戴冠

カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。

 

尚樹啓太郎によれば、780年に即位したコンスタンディノス6世は10歳という幼さであったため、母后イリニが政治を後見した。コンスタンディノス6世は成長するにつれ、イリニとそれを補佐する宦官たちと対立するようになり、とくにイコン崇拝を巡ってはイリニがイコン擁護派であったのに対し、コンスタンディノス6世はイコン破壊派と結びつくようになった。最終的に796年、イリニが近衛軍を掌握してクーデタを起こして797年コンスタンディノス6世を追放し、イリニは帝国を一人で統治するようになった。

 

西方では、カロリング朝が領土を拡大し影響力を増した。また教皇は、このころローマ市生まれの人物がつくことが多くなり、東方で盛んであったイコン破壊運動にも不満を持っていたので、徐々にビザンツ帝国に距離を置いた。教皇レオ3世はコンスタンディノス6世が追放されて以後はローマの皇帝位は空白であると考え、800年のクリスマスの日にローマを訪れていたカール大帝に皇帝位を授けた。カール大帝は、この戴冠にあまり乗り気ではなかった。カール大帝はビザンツ帝国の承認を得ようとし、必要であればイリニとの結婚さえ提案するつもりであった。このときの状況は、かつてローマ帝国の皇帝が東西に分立していた時とは異なっていた。ローマ教皇もビザンツ皇帝も、皇帝と教会は一つであるべきだと考えていたから、カール大帝が西ローマ皇帝位の承認を求めても拒絶に遭うだけであった。ビザンツ皇帝はカール大帝を「皇帝」と認めても、「ローマ人の皇帝」とは認めなかったし、カール大帝も「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。

 

ハンス・シュルツェによれば、カール大帝の王国が西ヨーロッパで支配的な影響力をもつようになるにつれ、ローマ教皇も自身の宗教的権威の後ろ盾となる政治権力の必要性から頼みとするようになった。カール大帝自身も、自分の地位の上昇に明確な意識を持っていた。教皇レオ3世が反対派から暴行を受け、幽閉された先からカール大帝の宮廷に逃れてきたとき、カール大帝には「教皇の問題」に関わるべき権限が本来ないはずであったが、彼はレオ3世と反対派の陳述を聞いて判決を下した。

 

800年のクリスマスに、カール大帝の戴冠がおこなわれた。儀式はビザンツ帝国を意識したものであったが、ビザンツでの戴冠が「戴冠→民衆による歓呼→総主教による聖別」という順番であったのに対し、「教皇による戴冠→民衆による歓呼」という順番でおこない、意図的に教皇の役割を高めたものであった。カール大帝は東方のビザンツ皇帝、女帝イレーネに対しては彼女が女性であり、息子である前皇帝を盲目にして追放したという理由から、これを帝位請求権を持つ者とは考えていなかった。しかし、イレーネにつづくニケフォロス1世とは「共存関係」を結ぼうとした。カール大帝はかつてのローマ帝国の東西分割に範をとって、自身の帝国を「西帝国」と呼んだ。

 

ピレンヌによれば、ローマ教皇ハドリアヌス1世が死んだ頃には、カール大帝の意識の中に「キリスト教の保護者」という考えを見ることができる。カール大帝は、教皇レオ3世にあてた書簡で自身を「全キリスト教徒の支配者にして父、国王にして聖職者、首長にして嚮導者である」と述べている。

 

800年の戴冠によって成立した皇帝は、二重の意味でかつての西ローマ皇帝の再現ではなかった。まず教皇はカトリック教会の皇帝としてカール大帝を戴冠させた。教皇は、カール大帝に帝冠を与えたのがローマの市民ではなく教皇であるということを示し、さらにその皇帝は世俗的な意味合いが全くなかった。教皇は、すでにあるカールの帝国に聖別を施したというべきである。なぜならカール大帝の即位によって何らかの帝国組織、帝国制度が創出されたわけではないからである。

 

次にカール大帝の帝国は、かつての西ローマ帝国のように地中海に重心をもつのではなく、その重心は北方にあった。カール大帝は自らの称号で「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。彼は「ローマ帝国の統治者」と述べたのであり、つづく「フランク人およびランゴバルド人の王」というのが、より現実的な支配領域を指していた。カール大帝の帝国の中心はローマではなくて、アーヘンであった。ピレンヌによれば、カール大帝の皇帝戴冠は、彼がフランク国王としてキリスト教の守護者を任じていたということであり、これは西ヨーロッパが地中海中心の世界から内陸世界へと移行していく過程の必然の結果であった。

 

渡辺治雄は、ビザンツ帝国の女帝イレーネ即位という偶然的事象を重視し、カール大帝は皇帝になることは全く考えていなかったが、聖職者たちが女帝の支配は違法であり、ビザンツ帝国では帝位が消滅しているという理由から、カール大帝に皇帝即位を積極的に薦めた。教会主導でおこなわれた800年の戴冠以後は「西ローマ帝国の復興」という理解が一般化した。

 

802年に女帝イレーネが追われてニケフォロス1世が登極してからは皇帝空位論は成り立ちえず、カール大帝の皇帝即位はビザンツ帝国の政情に依存するところが大きかったとした。

瀬戸一夫は、戴冠は状況的かつ偶然的な出来事であったとする。教皇の目論見はビザンツ帝国の政治的圧力の回避にあり、フランク族の影響力を用いて当時混乱していたコンスタンティノープルの政局を遠隔操作することにあった。シャルルマーニュの目的は、ビザンツ帝国と同格かつ独自の「王国=教会」共同体をラテン地域に打ち立てることであった。両者の間にはしたがって一定程度の隔たりがあったのだが、レオ3世の不安定な地位が問題を棚上げして、一方的に帝冠の授与を行った。教皇の政治判断は理念的にも現実的にも破綻していたが、これが成功したのには当時のビザンツ政権が基盤が貧弱な女帝イレーネーによっていたことも大きく寄与した。彼女は反対派の攻勢に晒されており、そのため対外的に親フランク的な政策をとった。

 

イレーネーはシャルルマーニュとの婚姻にも好意的で、シャルルマーニュもこれには乗り気であった。しかし、これは一時の政治状況から成り立ったのであって、それが過ぎれば二帝問題・聖俗二元統治の実際上の問題など、いろいろな矛盾を事後的に正当化する必要が生じた。つまり計画的なものであったとは考えられず、戴冠は必然的ではなかったが、戴冠は教皇という宗教的権威が「ローマ人の皇帝」を創造するといった永続的な宗教的政治的意味を後世にもたらした。

 

ピレンヌ・テーゼ

ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。

2025/08/10

朱熹(朱子)(3)

朱子学の概要

後世への影響

朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に真徳秀(1178 - 1235年)と魏了翁(1178 - 1237年)が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、淳祐元年(1241年)に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる。

 

元代に編纂された『宋史』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。

 

13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。

 

日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも、特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。

 

朱子の書

朱子は書をよくし、画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』)と記している。

 

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は

「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」

と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。

 

韓琦が欧陽脩に与えた書帖に、朱子が次のような跋を記している。

「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)

朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。

 

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。

 

朱子は

「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」

という。

 

また、朱子は書に工(たくみ)を求めず「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。

 

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。

 

劉子羽神道碑

『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は淳熙6年(1179年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

 

劉子羽(りゅう しう、1097 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

 

劉珙が淳熙5年(1178年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。

 

尺牘編輯文字帖

『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、乾道8年(1172年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。

 

論語集注残稿

『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で淳熙4年(1177年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが、教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm

 

有名な言葉

「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきている。

精神一到何事か成らざらん

子孫

             

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朱熹は朱塾・朱埜・朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋の翰林学士・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。