2025/02/25

アッバース朝(7)

イスラム科学

アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされ、イスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際、捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。

 

二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは、新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。

 

また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦や、インド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。

 

翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。

 

天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後、何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは、七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュのものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によると、そのような変化には宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。

 

マアムーンは科学振興のため、バグダードに「知恵の館バイトル・ヒクマ」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかし、マアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して、大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーも、マアムーン宮廷に出仕した天文学者である。

 

10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で、善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」は、プロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。

 

スーフィズムは、アッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。

 

しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。

 

錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものは、ごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出は、マアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義が、バグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるために、クルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。

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