2025/02/20

アッバース朝(6)

軍事

首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。

 

アッバース朝は、月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝は、そのような体制を8世紀には実現していた。

 

アッバース朝では、中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。

 

交通

アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は、伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。

 

農業

アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクでは、アフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。

 

経済

アッバース朝では、東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。

 

アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。

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