アッバース朝の最盛期
建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。
第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称は、マディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで権力基盤を固め、集約的官僚制やカリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。
第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。
衰退への道
ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。しかし、マアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。
第7代カリフのマアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。
その後、バグダードとその周辺には、有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。
マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。しかし、このころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には、帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。
869年、カリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。
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