2025/08/01

坂上田村麻呂(7)

家系

父は坂上苅田麻呂、母は不明。田村麻呂登場以前は、地方豪族や下級官人であった。

 

妻は三善高子(三善清継の娘)。子は大野、広野、浄野、正野、広雄、高道、春子などがいた。家督は大野が継いだものの早世したことから広野が継ぐも、広野も早世し、浄野が跡を継いでいる。田村麻呂流の中でも大野系、広野系、浄野系の三系統を「坂上本家」という。

 

滋野、継野、継雄、高雄、高岡は『坂上氏系図』にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗って地方に土着していることから、後世に付け加えられた可能性がある。子孫も武門の家として陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出されている。また清水寺別当、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。

 

『続群書類従』坂上系図によると、陸奥権少掾・坂上頼遠は藤原秀郷の孫・藤原千清の養子になったという。

 

陸奥国の田村郡は、田村麻呂を祖とする田村氏が領してきたとされる。しかし宇都宮仕置によって改易され、一時廃絶した。江戸時代、田村清顕の娘で伊達政宗の妻愛姫の遺言により、伊達忠宗の三男宗良が田村宗良を名乗って再興された。田村氏は幕末まで一関藩を領し、明治以後は華族令によって子爵に列せられた。

 

和歌・文学研究・法学研究でも名高く、三十六歌仙の一人坂上是則、「梨壺の五人」の一人坂上望城、『法曹至要抄』の主著者坂上明兼などがいる。

 

源満仲から摂津介に任じられた坂上頼次を初代山本荘司とする山本坂上氏からは戦国武将の坂上頼泰や、今出川家諸大夫山本家(町口家)を輩出している。

 

4男の正野から5世孫の正任は、河内国から摂津国豊島郡に移住して領主となった。しかし正任を祖とする池田坂上氏は、南北朝時代になると生地氏とともに南朝方にくみしたため没落した。

 

娘の春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産み、血筋は清和源氏とその分流へ受け継がれている。

 

系譜

父:坂上苅田麻呂 - 従三位左京大夫勲二等

母:不詳

生母不明の兄弟姉妹

兄弟:坂上石津麻呂 - 従五位下陸奥守[89]

兄弟:坂上広人 - 従五位下甲斐守[89]

兄弟:坂上鷹主 - 従四位下武蔵守[89]

兄弟:坂上直弓 - 従五位下和泉守[89]

兄弟:坂上鷹養 - 従四位下大和守[89]

兄弟:坂上雄弓 - 村山四郎を名乗る[89]

姉妹:坂上又子 - 桓武天皇後宮夫人[89]

姉妹:坂上登子 - 藤原内麻呂室[89]

妻:三善高子 - 三善清継の娘[59]

生母不明の子女

長男:坂上大野 - 従五位下陸奥権介[59]

次男:坂上広野 - 従四位下右兵衛督勲七等[59]

四男:坂上浄野 - 正四位下右兵衛督[59]

五男:坂上正野 - 従四位下右兵衛督蔵人治部大輔典楽頭清水寺別当[59]

男子:坂上滋野 - 安達五郎を名乗る[59]

男子:坂上継野 - 大舎人正六位上[59]

男子:坂上継雄 - 武射七朗を名乗る[59]

男子:坂上広雄 - 従五位下右近将監[59]

男子:坂上高雄 - 匝瑳九郎を名乗る[59]

男子:坂上高岡 - 沼垂二郎を名乗る[59]

男子:坂上高道 - 従五位上大和介鎮守将軍[59]

女子:坂上春子 - 桓武天皇妃、葛井親王母[59]

女子:藤原有方母 - 藤原三守室[59]

女子:坂上御井子?

 

弘仁元年1123日(ユリウス暦8101223日)に橘嘉智子・多治比高子・藤原緒夏とともに叙位を受けた坂上御井子は、嵯峨天皇の后妃と考えられる。宝賀寿男は御井子について、坂上氏の系図には見えないが、田村麻呂には2人の女子があることが『百家系図稿』所収系図にみえ、六国史の記事から御井子を田村麻呂の子ではないかと推測している。田村麻呂の娘、春子と桓武天皇の間に生まれた葛井親王の子孫が清和源氏、藤原氏、桓武平氏と血をつなぎ、平滋子が後白河天皇の間に高倉天皇を生み、現在の皇統にまでつながっている。

 

坂上田村麻呂‐桓武天皇の妃春子‐葛井親王‐棟貞王‐清和天皇の更衣‐貞純親王‐源経基‐満仲‐頼光‐頼国‐藤原為房の妻‐藤原顕隆‐顕頼‐平時信の妻‐平滋子(後白河天皇の妃)‐高倉天皇…(以下歴代天皇)

 

墓所・霊廟・寺社

墓所・霊廟

京都市山科区にある「西野山古墓」は、昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫が、条里制の復元研究結果にもとづき同墓が坂上田村麻呂の墓である可能性を指摘した。

 

平成19年(2007年)、京都大学大学院文学研究科教授の吉川真司が、清水寺縁起の弘仁2年(811年)1017日付の太政官符表題の記述と、当時の地図(条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで、坂上田村麻呂墓説を裏付けた。また山科西野山古墳出土品のうち、革帯飾石は三位以上および四位参議が用いた白玉の可能性が高く、鉄鏃の出土は弓矢の副葬を意味している。また瓦硯の年代は、長岡京期から平安時代初期とされている。

 

このことから、被葬者は8世紀末から9世紀初頭に死去した公卿クラスの上級貴族であり、武官であったと考えられ、位置・年代・内容のどれをとっても坂上田村麻呂と一致する。現在では西野山古墓が墓所と推定されている。

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