八芳園(はつぽうえん)とは東京都港区白金台に所在する、庭園(1万2,000坪)のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
江戸時代初期には、譜代大名大久保忠教(大久保彦左衛門)の屋敷であったが(これに関しては異説有り[要出典])、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。1915年(大正4年)、実業家久原房之助[2]所有時代に現在の建物と庭園が整備された。
現況
現在は株式会社八芳園(長谷観光株式会社)により結婚式場や料亭、レストランとして広く市民に開放されている。利用者は、広大な庭園を散策可能である。
庭園内には、横浜で生糸の貿易商を営んでいた田中平八の建てた茶室が移築されている。
東京白金台の自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた八芳園は、樹齢数百年の樹木や渡り鳥の姿等を見ることのできる、由緒ある日本庭園です。
いま八芳園のある白金台は、江戸時代初期には、徳川家康の側臣の一人、大久保彦左衛門の屋敷であったと言われています
徳川家康が臨終のとき、彦左衛門に遺言を残しました。曰く
「彦左衛門の我儘無礼は生涯にわたって許す。予(家康)亡き後は万事、彦左衛門を予の名代とする。今後、将軍に心得違いがあらば、彦左衛門に意見させよ」
と。これこそ彦左衛門が「天下のご意見番」と呼ばれた所似です。
徳川家康への忠義は人一倍、それでいて弱い者のためには、幕府はもとより将軍ですら叱り飛ばす。講談や時代小説に描かれた彦左衛門は、まさに庶民の味方であり、日本人好みのヒーロー像そのものです。
彦左衛門の逸話は『大久保武蔵鐙』や『名将言行録』など、多くの書で伝えられています。大久保彦左衛門の後、現在の八芳園所在地に誰が住んだのかは、残念ながらわかっていません。幕末の白金の絵図により、1846(弘北3)年には島津式部の抱屋敷、1854嘉永7、安政元)年には松平薩摩守の下屋敷であったことがかろうじて確認できるのみで、それ以前の居住者は全くの不明です
そして明治の末には、いまの八芳園の地を実業家渋沢喜作(1838~1912年)が所有し、老居の地と考え居を構えました。その後、白金台がにぎわいをみせる様になり、騒がしくなったと、1915(大正4年)、喜作はここを売りに出します。そこに目をつけたのが当時、実業界に世人瞠目の手腕を振るっていた久原房之助です。
日立製作所の創設者として知られる久原は、第一次大戦後、一躍新興財閥に仲間入りし、後に政界に進出すると政友会の中枢にあって表裏に活躍しました。庭内に足を運んだ久原は一目でそこを気に入り、購入を即決しました。久原は後に、この地を踏んだ理由について、「あの松一本に惹かれたのだよ」と語っています。
久原の言う松とは、かつて大久保彦左衛門が将軍家康から見舞いとして授かり、後に地におろしたと伝わる、あの樹齢400年を超える老松です。久原はことのほかこの松を愛し、写真を撮る時などしばしばこの松を背にしたと言います。
久原はこの地を購入した当初から、自然の地形を生かした大庭園構想を密かに持っていたようです。土地購入後まもなく、付近の土地を次々に買い集めています。敷地を拡大した久原は、1万2千坪(約400万平方メートル)へと拡張。
かけがえのない静寂とともに、大庭園構想に必要な庭地も手に入れました。さらに、年々各地からの大小の名木や名石が集められました。なかには、1000年以上昔の作と伝わる国宝級の古代朝鮮の仏塔や、鎌倉時代の十三重の石塔などの逸品がありました。自然の持つ無駄と人工的なものを取り除くだけで十分だ、と久原は常々「自分は庭づくりなどという大それたことはしない。自然を整えるのだ」と言っていました。このため庭師などにも、たとえば松の枝一本であっても自由にさせなかったといいます。
こうした久原の丹精のお陰で、この庭地は東京都心にありながら、別天地のような自然の美しさを保ち続け、戦時中の度重なる空襲にも大きな被害を受けず、戦後の新しい時代を迎えることになるのです。
久原がいかに自然との調和を重視していたか、それを物語る象徴的なエピソードがあります。八芳園開業後のある日、池の鴨が三羽いなくなってしまいました。八芳園では、代わりに白鳥をと考えましたが手に入らず、仕方なく白いアヒルを三羽購入し池に放しました。数日後、そのアヒルを見た久原はがっかりしたように言ったそうです。
「この庭には、白は映らないのだ。調和を考えないとダメなのだよ。お茶屋だって、庭を散歩して一服したいところに置いてある。湖畔のあずまやだって、そこで一休みするのに一番よい場所に配置してあるのだ。家と庭は二つであって、一つになっている状態が好ましい。調和を考え適材を適所に配すること。それこそ肝要なのだよ」
調和を考え適材を適所に配し、愛情愛育を持って自然を整える。
「自分は世間の人がそうするように、枝振りなどを考えてあちこち切るようなことはしない。あくまで、この枝を取り去ってやれば、下の木に除いてやったら通風がよくなり、多くの木が生き生きとするだろう。そのように考えるだけである。すべては愛情愛育の立場からするのである」
久原のこの庭園哲学は、今日の八芳園にも継承され、庭園管理の基本として生かされています。
1950(昭和25)年、割烹、旅館、喫茶などの飲食店を大きく展開する長谷敏司のもとに、共同経営の話が持ち込まれました。それは、白金台に邸宅屋敷と庭園の一部を借りて、料飲店を経営するというものでした。都心では容易に得られない、この緑豊かな庭園環境は、料理の世界に生きる敏司の胸に、新たな意欲を燃え上がらせ、共同経営に乗り出す決意を促したのでした。
この考え方を聞いて安心した久原は、「一木一草たりとも勝手に動かしたり切ったりしないこと」という厳しい条件を付した上で、自邸の屋敷と庭園の一部を使用することに同意し、自ら「八芳園」と命名しました。
一、長谷観光(敏司の会社)は、どの店も八開きで八の日に開業している
二、この庭は裏・表なく、八方から眺めて美しい
三、「ハッポー、ハッポー」は非常に語韻がよい
四、エンは男らしく結びがある
会長に長谷敏司、社長に斎藤ハマ、専務に長谷誠彦(長谷親族)が座り、いよいよ株式会社八芳園がスタートしたのは1950(昭和25)年5月8日のことでした。
「東京のオアシス」というキャッチフレーズ
「日本の伝統を東京のど真ん中で再現したい」
譲渡契約の成立により、同年9月29日、新生「株式会社八芳園」が正式に登記されました。久原に対する長谷側の支払い義務は、1954(昭和29)年5月をもって完了しました。これを受けて久原は1915(大正4)年以来、別邸とした白金台の私邸を立ち退き、八芳園は名実ともに長谷敏司の所有となりました。
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