1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害を受け、以後この区域に住む外国人居留民は激減したが、異国情緒あふれる景観から現在でも人気の観光地で、次のような観光スポットがある。
施設等
ü 外国人墓地
観光
ü 港の見える丘公園(公園内に神奈川近代文学館、大佛次郎記念館などがある
ü 横浜外国人墓地
ü 山手資料館
ü 岩崎博物館
ü 横浜ブリキのおもちゃ博物館
ü 山手イタリア山庭園
ü 山手公園
ü 元町公園、エリスマン邸(元町一丁目)
ü ベーリック・ホール
その他
ü カトリック山手教会
ü 山手聖公会
ü 山手キリスト教会
ü 横浜インターナショナルスクール
ü フェリス女学院大学、フェリス女学院中学校・高等学校
ü 横浜山手女子中学校・高等学校
ü 横浜雙葉中学校・高等学校
ü 横浜女学院中学校・高等学校
ü 横浜共立学園中学校・高等学校
ü サンモール・インターナショナル・スクール
横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は、神奈川県横浜市中区にある外国人専用の墓地。19世紀から20世紀半ばにかけての40余国、4400人余りの外国人が葬られている。1854年(嘉永7年)、24歳の水兵ロバート・ウィリアムが戦艦ミシシッピのマスト上から誤って転落死したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというアメリカ合衆国の意向を受け設置されたことに由来する。
基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。
山手公園(やまてこうえん)は、横浜市中区の公園。日本初の洋風庭園であり、日本におけるテニス発祥の地としても知られる。
1866年(慶応2年)、当時の幕府と外国公使団との間で、公園の整備などを盛り込んだ「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされた。公園の設置は具体化されずに終わったが、1869年(明治2年)に居留民代表から再度要望が出され、日本政府は約書で約束した土地の代替として山手妙光寺付近の土地約6,000坪を貸与した。
居留民により整備がなされ、1870年(明治3年)6月4日に山手公園が開園した。1878年(明治11年)、レディズ ローン テニス アンド クロッケークラブ(現・横浜インターナショナルテニスクラブ)により日本初のテニスコートが建設され、100年後の1978年(昭和53年)にはこれを記念した碑が設けられた。1998年にはテニス発祥記念館が建てられ、かつてのテニス道具などが展示されている。2004年3月1日には文化財保護法による日本国の名勝に、2007年には元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園とともに、日本の歴史公園100選に指定された。
港の見える丘公園は、神奈川県横浜市中区山手町114にある公園。 オフコース(小田和正)の『秋の気配』の歌詞に出てくる“港が見下ろせるこだかい公園”とは、この公園のこと。またB'zの『TIME』でも“港が見渡せる丘”として歌われている。
山下公園と並んで横浜市の観光地の公園の一つで、横浜港を見渡せる高台にある。ただし、見える物はあくまで本当の意味の「港」であり、横浜ベイブリッジを除くと、横浜の代表的な観光地であるみなとみらい21や関内といった地区を見下ろすことはできない。そのため、初めて来た人には予想していた綺麗な風景とは違うということで残念に思う人も多いが、夜景においては横浜では屈指の美しさを誇る。日本三大夜景と呼ばれる函館・神戸・長崎の山より標高はずっと低く、見渡せる景色の範囲は限られてしまうが、その分港を間近で見ることができる。
また、公園自体のおしゃれな造りには定評があり、こちらを目当てに来る人も多い。山手地区に近く、雰囲気も山手と似ているので、家族連れや若者のカップルなどの憩いの場としての性格が強い。
江戸時代末期、横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。その後、太平洋戦争後もアメリカ軍など進駐軍が、この地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962年の10月に風致公園として開園、一般者が立ち入ることが出来るようになった。
なお以前は高台から横浜港湾の岸壁を望むことができたが、近年は横浜ベイブリッジ建設に伴う道路の整備が行われたため、視界に首都高速道路の高架が必ず入ることから「高速道路の見える丘」と揶揄されることもある。ただし、これにより道路用の照明が数多く設置されたため、夜景は展望しやすくなった。平日は人通りも少ないが、週末にはカップルで賑わう。
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