関内は、神奈川県横浜市中区にある大岡川、首都高速横羽線、中村川と海に囲まれた地区を示す通称で、国土交通省の都市景観100選に選定されている。
日米修好通商条約(安政の五カ国条約)によって1859(安政)年に横浜に設置された開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式な地名として関内という地名はない。但し、国道16号のキロポストや方向標識には、関内と表示されている。
馬車道、中華街、山下公園など古くからの観光地が多く、隣接するみなとみらい地区と並び、多くの観光客で賑っている。また、神奈川県庁舎、横浜市役所、神奈川県警など官公庁や企業が集まる、横浜の中心地である。横浜港が開港して以来、西洋文化を一気に取り込み、アイスクリーム、ビール、ガス燈など、横浜市の発祥とするものが多くあり、昭和初期の近代洋風建築が残されている。
地域内にある駅はJR根岸線関内駅・石川町駅、横浜市営地下鉄ブルーライン(1・3号線)関内駅、横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅・日本大通り駅・元町・中華街駅である。
2004年のみなとみらい線の開通により横浜駅周辺、みなとみらい地区との交通アクセスが一層容易になり、街の再活性化が進んでいる。一方、社会・経済情勢の変動に伴い、古い事務所・店舗ビルを取り壊してマンションを建設・分譲する動きが目立ち、都市計画上の課題となったため、横浜都心機能誘導地区建築条例が制定され、関内駅周辺はマンション建設が規制されている。なお、横浜駅周辺も同様。
かつて関内周辺は海であった。現在の大岡川と中村川に囲まれた一帯は入江であり、久良岐郡横浜村は、この入り江の先に突き出た宗閑(洲乾・洲干)嶋と呼ばれた砂州上に形成された寒村であった。江戸時代に、この入り江は吉田新田として埋め立てられ現在のような陸地となり、更に海側の現在の関内地区に相当する場所には、横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。そのため、これらの地区の道路は碁盤の目状に整備されており、町名も古来からの物ではなく、埋め立てに関わった人物に因むもののほか、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起のいい町名(瑞祥地名)が多く付けられている。
江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。
神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「吉田川」に「吉田橋」を架け、その橋に関門という関所の様なものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。現在の地域名は、このことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。
1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けない様にし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から旧居留地に至る道が、今の「馬車道 (横浜市)」である。
現在、吉田川が流れていた所は首都高や大通り公園に、橋は道路と一体になってしまい、石碑でそこに川が流れ、橋が架かっていたことが解るのみである。
吉田橋は鉄の橋として1869年に架けかえられた。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンというイギリス人技師。
近代化が進むにつれ関門の存在意義が薄れ、やがて廃止となったが、長年の慣習と名残りで、今もこの辺りを「関内」と呼んでいる。また、今の伊勢佐木町辺りは関門の外、「関外」と呼ばれた。現在関内と名が付いているものは、JR・横浜市営地下鉄の関内駅、関内ホール(横浜市市民文化会館)のみである。(民間施設は除く)
キングの塔(神奈川県庁本庁舎)・クイーンの塔(横浜税関)・ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は、地元では「横浜三塔」と呼ばれ、横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。
横浜を代表する商店街の1つである元町の南側の高台で、高級住宅街、観光地として有名で都市景観100選に選定されている。狭義には中区山手町をいうが、その周辺の高台(本牧地区の北西側、山手駅付近まで)を含めることもある。
山手町は横浜の開港後、外国人居留地とされた区域で、英語で"Yamate Bluff"または"The
Bluff"(切り立った岬という意味)と呼ばれる。「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して、南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。
開港により関内に外国人居留地が設けられたが、そこが低湿で狭隘であることから住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府は、このイギリス借入地へのイギリス・フランス両国軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。
山手の高台は1867年(慶応3年)に居留地とされ、外国人居留民の住宅やキリスト教系の学校などが建てられた。元は久良岐郡北方村に属していたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法実施の際には、関内居留地(山下)とともに横浜区及び周辺各村のいずれにも属さない区域とされた。1884年(明治17年)に横浜区に編入され、以下の26か町が設けられた。
谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町
1899年(明治32年)、条約改正により外国人居留地が廃止されると、全域が山手町として横浜市の町の1つとなった。
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