京都に変わった地名が多い事はこれまでにも何度も触れてきたが、京都といえばあの独特の地名とともに「通り名」も名物である。
他の都市では絶対にお目にかかれないような風変わりな通り名が多い、というよりはまともな名前を探す方が難しいくらいだから、ワタクシの仕事にはもってこいである。
<通り名というのは平安京開設以来、ニックネームであった。ニックネームであるから時代によって変わる事もあれば、場所によって呼び方が異なる事もある。一つの通りで三つの呼称があった事も、しばしばである。天正十八年(1590)に開通した、この不明門通もそうである。現在は「あけず」と呼ぶが、かつては少し違った。しかも、この不明門通、北の方では「車屋町通」である。
『京羽二重』によると
「松原通より南へ七条通まで、因幡堂つきぬけとおり(通)とも、あかずのもん通共いふ」
とあって、元禄期(1688~1704)前後は、まだ「因幡堂突抜通」と言ったり「不明門通」と言ったりして、充分に定着してはいなかったらしい。そのほか「薬師突抜」とも称したらしいから、おそらく三つの呼称がよきように使用されていたのである。現在の「あけず」に統一されたのははっきりとはしないが、幕末期から明治期にかけての事だろう。
さて、どうしてこの通り名がついたのか。いずれも松原通りにある、因幡薬師堂(平等寺)にちなんでのものであろう。『京都坊目誌』によると、松原通に南面してあった門が「常に鎖して開かず」そこから「あけずのもん通」が生まれたとある。
<因幡薬師堂は、平安期以来のお堂であった。平安期には、京中に仏寺を建立する事が禁止されていたが、お堂に類するものは黙認されていた。たとえば革堂・六角堂・千本釈迦堂は、因幡薬師堂とともに京の「町堂」として信仰され、古くから存在していたものであった>
<因幡薬師堂の正面の門は、常に閉ざして開かれる事がなかったので、不明門通とか薬師突抜とかの、なんだか皮肉っぽい名称になったらしい・・・もっとも昔の寺や城などでは、特定の訪問者とか緊急時以外は開かない門が結構あって、だいたい不明門(あけずのもん、あかずのもん)と呼ばれていた。皇居の禁門(蛤御門)も、宝永の大火の時に公家の緊急避難用に開いて「焼けて口あく」蛤御門とニックネームがついたくらい開かない門だったのだから、因幡薬師堂だけが特別にイケズ(関西弁で「意地が悪いというような意味」)だったわけではないのである>
<不明門通(あけずどおり)は、烏丸通の一本東側の南北の通り。京都駅前塩小路通から、綾小路通までの通り。京都駅前ビルから北上していくと、五条通を超え松原通を超えたところに建つ、因幡薬師堂(平等寺)の正面の門にぶつかる。
不明門通は境内の西側を迂回して北に続くが、四条通の一つ手前の綾小路通で途切れる。
三条通の一つ、北の姉小路通の車屋町からは「車屋町通」として北に伸びるが、京都御苑で遮られる。通りがぶつかる因幡薬師堂の正面の門が、常に閉ざされていて開かれることがなかったことから「不明門通(あけずどおり)」と名付けられる、とされている。
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