2008/09/19

池袋駅

 明治36年、田端~池袋間に鉄道が敷設され巣鴨、大塚とともに開業した。無論、設置運動はなされたが、賛否両論があった。

「鉄道が敷かれると線路に砂利が持ち込まれるので、畑に砂利が飛んで作物に影響が出る」

「汽車の音に驚いて鶏が卵を産まなくなる」

「桑の葉に煤煙が付いて蚕が育たない」

という不安が、農民に鉄道を拒絶させていた。

そのころ、東海道沿線ではSLの吐く火の粉が沿線民家を燃やすという事もニュースとして伝わっており、目白と板橋に駅があるから、もういいではないかという意見もあった。

山手線は、当初案では巣鴨~目白を直線で結び雑司ヶ谷を通す予定だったが、この沿線となる住民が先に書いたような理由で猛反対した。それで、人の住んでいない福蔵寺参道口・池袋経由となったのである。

豊島区の地図を見ると、巣鴨から目白間で大きく迂回しているのが判る。大塚駅も池袋駅も、人家がないようなところに建てられたのだ。夜になると漆黒の闇で提灯が必要であり、まして東池袋は護国寺まで続く人跡未踏の大森林、駅の西は見渡す限りの大根畑、戦前まで寂しく怖いところだった。

東口が開けるきっかけは、戦後の闇市だ。もし山手線が予定通りに敷かれていたら、雑司ヶ谷駅が地下鉄東池袋駅の辺りに出来て、そこが大繁華街となったのだろう。そうすると、立教大学が今の池袋駅の辺りに越してくることになったかも知れない。

今の繁栄を見る時、ここが単なる地方のターミナル駅だったことは考えられない。今は副都心の一つの重要駅。山手線・埼京線・東北線・池袋線・東上線・丸の内線・有楽町線の出会う駅である。

「方量甚広し、故に一村の中にいろいろの小名あり。その小名をたずねて探さざれば一村のうちといいながら、その人にあい難し」

と『遊歴雑記』にある。池袋は明治の終わり頃まで、僻遠の地で外部との接触を持ちたがらず、村内の集落も遠く散り散りにあり没交渉で往来もなく、それぞれに風俗が違っていたという。

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